第5話 次善の算段
「自己紹介でもしましょうか。人付き合いって、そういうものでしょ?」
返却された水筒を受け取りながら、女は微笑んだ。
その微笑みは間違いなく美しいのに、ナハトにはどこか違和感を覚えた。ただ、それが何故なのかは判然としない。
「私は――ノインよ。貴方は?」
名乗れるはずがない。
フェアトラウエンの街はおろか、ロアリテートの館から外に出ることもほとんどない。だから、知己と言える者はない。とはいえ、素性を明らかにしていい立場でもない。
「言えない、か……まぁ、それはそうよね。転生者の命を狙っているんだもの」
動揺を隠すのに、ナハトは生涯で一番と言っていいほどの精神力を要した。
知っているはずがない。
主君のロイエとしか交わしていない会話だ。
自分が魔法を用いて暗殺稼業に手を染めていること自体、限られた者しか知らない。
先代とその息女の二人、そして剣の師くらいのものだ。
彼らが口外するはずもない。
「信じてもらうのは無理があるでしょうけど、状況を見て、どうか安心だけはして。私は貴方に敵対する立場にはないわ。それどころか、同じ目的を持ってる。だからこそ、貴方を助けた」
「俺を救ったのは事実だろう。だが、目的が俺と同じだとは限らない」
「あらら、頑なね。そうあるべきだけど」
まぁいいわ、と言ってノインは言葉を次いだ。
「それじゃあ、かいつまんで話すわね。私は、転生者の存在を消したいと考えてる。でも、それを実現するには力が足りない。だから、それを可能とする人材を探していた。ここまではいい?」
ナハトは眉を顰めながら小さく頷いた。
論理的ではある。
どれも、理由に目をつぶれば、だが。
そもそも、言葉の割には丸腰に見えた。
「転生者に敵対する者で、かつ、その力を備えている者――つまり貴方の存在を検知して、私はここに来た」
「待て」
「何?」
「どうやってだ」
短い沈黙が漂う。
ノインは凍り付いたように変わらない微笑みのまま、口を開いた。
「きっといくつも疑問が生じているんでしょうし、これからも色々疑問を持たせるでしょうけど、どれも答えは簡単。私が、この世界の住人ではないからよ」
「では、渡り鳥――転生者なのか?」
「……似て非なる者、というところね。でも、そのあたりの理解は求めないわ。今、大切なのは、私と貴方が力を合わせれば、その渡り鳥を討つことが出来るということよ」
自信と言うべきか確信と言うべきか、ノインの顔は穏やかだ。
そこには恐怖どころか不安の影もない。
しかし――
「俺はクロネ=ラントの命を奪うためにあの城に忍び込み、感付かれ、見破られ、返り討ちに遭った。その結果が、ここで死にかけるというザマだ。正直、俺に次善策はない。お前に――」
「ノイン」
「……ノインに、どんな力があるというんだ? ついさっき、自分で、転生者の存在を消す力はないと言っていたじゃないか」
ナハトが言い終えると、ノインは手を伸ばし、暗殺者の頬にそっと手を当てた。
反射的に振り払ってもよさそうな場面だったが、ナハトは不思議とそれを受け入れていた。
ノインに害意も敵意もないことが明らかだったからだろう。
「説明と証明のためには、貴方が魔法を使うのが一番よ。さっきの水筒の中身には痛みを和らげる効果があったはずだけど、具合はどうかしら」
「……なるほど、これなら」
ナハトはほとんど力を込めずにノインの手をそっと引き離した。
そしてゆっくり立ち上がり、深く息を吸い、大きく息を吐いた。
これで、彼女から自分の姿は見えなくなった。
灰色狼のように、彼女の周囲で円を描く――と、その動きをノインが目で追っているのに気づいた。
おかしい。
見えているはずがない。
音も気配も感知されなくなっているはずだ。
自分に剣の使い方を施してくれた師レーラーですら、あっさりと後ろをとられる。
それなのに、ノインはまっすぐナハトの方に向かって足を進め、両手を伸ばして頬を包んだ。
「……どういうことだ?」
「私の力は『対話をした相手の能力を失わせる力』と理解してくれればいいわ。つまり、さっきまで私と話していたことで、貴方の魔法の力は一時的に失われている状態なの。そうならないように任意に制御もできる――のは、きっと貴方もそうよね」
一瞬言葉を失いながらも、ナハトは彼女の話をようやく理解した。
「では、ノインのその力でクロネ=ラントの力を封じれば――」
「貴方の力による暗殺があらためて可能になる、ってこと。ただ、私の力は発動させるための条件として『対話』が必要になるのがネックではあるんだけど……」
「それについては問題ない」
ナハトの断言に、ノインが首を傾げる。
「言い切ったわね。何か、根拠があるの?」
「渡り鳥の男は――いや、転生の有無に関わらず、力を手にした男は必ずと言っていいほど女を求める。現に、奴は寝室に複数人の女を連れ込み、部下の兵士達もその放埓さを口にしていた」
「つまり?」
「ノインの美しい容姿を目にして、あの男が興味を持たないはずがない。一度でも奴の目に触れることができれば、絶対に対話の機会は得られる」
「これは……照れておくところかしら」
水平線色の真っ直ぐな眼差しを受け止めながら、ノインは頬を掻いた。