第4話 倒れる者と起こす者
「チッ……」
ナハトは思わず舌を打った。
街外れの森の入り口に留めていた、主君ロイエから賜った駿馬が、血を流して臥している。
近づいて確かめるまでもなく、絶命している。
迂闊だった。
古来、人は魔獣が嫌う陽だまりに寄り集まり、街を造り、国を建ててきた。
だから、ほど近い森にも大きな危険はないと思い込んでいた。
だが、考えてみれば曇天続きの北の地で、木立ともなれば、魔獣が餌を探して徘徊してもおかしくない。
「グルルゥ……」
低い唸り声――四足タイプの魔獣が、まだ近くにいるらしい。
すぐに立ち去った方が利口そうだ。
ナハトは魔法で姿を消したまま、馬に近付いた。
ロアリテート家のものだと分かる物は付けないように細心の注意を払っているはずだが、何気ない物から足が付く可能性はある。
馬自体は食われて証拠としては残らないだろうが、持てる物は粗方持って行った方がいい。
短い単独行だと割り切っていたから大荷物ではないにせよ、傷ついた体には冷たい枷だ。
さすがに馬具はそのままにするしかないが、それでも、今にも雪が降ってきそうな鉛色の空の下、南のフェアトラウエンは遥か遠い。
馬の脚で3日かかる行程を、徒歩でとなると――
「ギャオッ!!」
「しまっ――……!」
木陰から何かに飛びかかられた。
思考を巡らせている内に、呼吸が乱れたらしい。
そのせいで魔法が途切れたのだ。
背中を強かに打ち、組み伏せられる形になってしまった。
すぐさま腰の短刀を抜き、胴体に相手の胴体に突き立てる。
痛みに鳴いて、獣は飛び下がった。
短刀を構えて、膝を立て、ゆっくり立ち上がる。
魔獣の類ではなさそうだ。
もしもそうなら――つまり、人を喰うことに執着する人間の天敵なら、あの程度の痛痒で引き下がったりしない。
こいつは双頭犬などではなく、ただの灰色狼だ。
おそらく、自分が仕留めた馬を横取りされると思ったのだろう。
しかし……
「ぐ――……」
痛んでいた内臓が、さらに傷口を広げたのだろう。
眩暈を起こしそうな痛みが全身に脈打つ。
魔法を使って身を隠しても、気を失えば無防備な姿をこいつの前に晒すことになる。
そうなる前に、この狼は処理してしまった方がいい。
ナハトは短刀を左手に構えたまま、右手で長剣を抜いた。
乾いた金属音が夜の森を通り抜ける。
グルルと唸る狼は、円を描くようにナハトの周りを動き始めた。
「まさか狩られる側になるとはな……」
自嘲気味に笑ったナハトの笑みを何と思ったか、狼は明らかに殺意を持って飛び上がった。
瞬間、ナハトは大きく息を吸い、姿をくらませた。
牙を立てる対象を見失った狼が、空中で姿勢を崩す。
その腹を目掛けて、ナハトの研ぎ澄まされた長剣が振り上げられる。
刹那の出来事だった。
狼は骨ごと真っ二つになり、前後に分かたれた胴体はそれぞれが別の地点に落ちた。
だが、渾身の力を込めた一撃は、ナハトにも膝をつかせた。
無理な呼吸の溜めが、反動として痛みを膨れ上がらせたらしい。
耐えきれない。
視界が白んできた。
意識が朦朧とする。
かつては命の危機に瀕して魔法の力に目覚めたが、二度目はあるのだろうか。
「ロイエ様――……」
ナハトは亡骸となった馬を見ながら、ついに瞼の重さに負けた。
……
どこか遠くから、声が聞こえた気がした。
「……――!」
ロイエ様の声――いや、違う。
何かと口うるさいシュティレの声でもない。
聞き覚えが無い声だ。
「……――して!」
視界が白んできた。
太陽のまぶしさに目が眩む。
黒い影も見える。
「しっかりして!」
覆いかぶさるように自分を見つめる女性――その紫水晶のような瞳に、まるで見覚えが無い。
ナハトは咄嗟に体を翻して構えた――つもりだったが、起こそうとした体はびくとも動かなかった。
自分を抑えつけているのは、この女性の力なのか?
疲労と痛みで体が重いことを差し引いても、微動だに出来なさすぎる。
「落ち着いて。目が覚めたのは喜ばしいけど、激しく動いていい状態じゃないわ」
紫水晶の瞳が、微笑みとともに少し細くなる。
これまでに見た、どんな宝石よりも透き通っていた。
「処置は施したけど、体を起こすならゆっくりの方がいいと思うわ。動けそう?」
ナハトは深く息をしながら、四肢とその先に血が巡っていることを確かめる。
どこも腐り落ちてはいない。
これなら動ける。
グ、と力を込めて、ナハトは上体を起こした。
膝をついていたらしい女性と、ちょうど目の高さが合った。
あらためて、目の前の女性を見る。
紫水晶の瞳をたたえる顔は、そのまま彫刻になりそうなほど整っていた。
肌が雪のように白く見えるのは、ここがシュネーフェルド雪原と呼ばれている地だからだろうか。
その容貌から女性であることは既に間違いなかったが、夜空のような艶めく黒髪を後ろに束ねていることからも確かそうだった。
体を包むケープは、ナハトが纏っている黒装束よりも厚手に見えた。
「ほぼ死んでたわよ、貴方」
「そうだろうな」
言葉をそれだけ紡ぐのがやっとだった。
痛みで息が途切れる。
口の中に血の味が広がっている。
これでは魔法を使うことは難しそうだ。
「なぜ、俺を?」
「あらら、ご挨拶。じゃあ、先に言っておこうかな。『どういたしまして』」
「……――助けてくれてありがとう」
「たいへんよろしい」
クスッと笑ってから、女は革の水筒を差し出した。
ナハトはそれを受け取り、用心深く喉を潤した。