第38話 いつもの朝
渾身の手合わせが十回を数える頃、屋敷の中がにぎわい始めた。
「ここまでにしよう」
「あらら、どうして? 私はまだまだやれるけど」
「仕事がある」
ああ、とノインは頷いた。
そういえば、彼の本職は剣を扱うことではなく、様々な雑用だった。
「付き合ってもらっちゃって悪かったわね」
「いや、俺が望んだことだ。感謝してる」
口早にそう言って屋敷に入って行くナハトの背中を見送りながら、ノインはふぅとため息をついた。
「私もロイエに言って、何かやらせてもらおうかしら」
晴れた空を見上げて、ノインは独り言ちた。
「ナハト」
エントランスで、いつも通りきっちり制服を着たシュティレがナハトを呼び止めた。
「もう業務始まってるわよ。何をしてたの?」
「ノインと汗を流していた」
二人の会話を聞いていた数人の女中が、一瞬動きを止め、すぐに思い出したように仕事に戻った。
「そ、そう――」
シュティレが笑顔を引きつらせる。
「すまない、すぐに取り掛かる」
「え、ええ」
ナハトは足早に自室へ行き、さっと汗を処理し、着替えた。
シュティレのような事務方、女中のような世話係の制服は明るい青が基調となっているが、ナハトのそれはもっと濃く、暗い場所では黒に見えるものだ。
少しばかり空腹を感じながら、ナハトはロイエの執務室へと向かった。
三度、扉をノックする。
「ナハトです」
「どうぞ」
執務室では、亜麻色の髪を後ろで一本に結わえたロイエが書類を睨んでいた。
その視線が、書類からナハトへと上がる。
「いつもより遅かったですね」
「申し訳ありません。ノインと汗を流していました」
ロイエが書類を手からこぼれ落とした。
そういえば、昨夜は彼女もそれなりの酒を飲んでいたことをナハトは思い出した。
酔いが残っているのだろうか。
「先生の指導はまだ手ほどきとも言えないものと聞きましたが、既にかなりの技量に達していると感じました。現に、俺の剣は最初こそ決まりましたが、数度の手合わせですっかり対策されてしまいました」
「あぁ、剣の話――ですよね。なるほど、朝から鍛錬で、汗を。そうですか」
こほん、とひとつ咳払いをして、ロイエが言葉を続ける。
「朝食をとったら、グリュックが屋敷に来ます。彼の部屋の用意はシュティレにさせますが、それが終わり次第、貴方はいつも通り彼の検査や質問に応じてください」
「分かりました」
「それと……いえ、これはみなに一斉に伝えた方がいいですね。いつも通りの業務をこなした後で構いませんから、ノイン、アーベント、モルゲン、シュティレ、レーラー、そしてグリュックとともにわたくしのところへ来てください」
「御意」
深く頭を下げて、ナハトは退室した。
素早く厨房へ向かい、自分用にと用意されている握り飯を口に入れる。
広い厨房の、ロイエや客人のための朝食が用意されている一方の片隅で、ナハトの食事は済まされる。
それが終わり次第、食堂へ食事を運んでいく。
家人として一緒に食事をとるように、と先代にもロイエにも言われるのだが、ナハトはずっとこの形式でお願いしていた。
朝の鍛錬の後は腹が減るからすぐに補給したかったし、貴族の格式ばった作法は苦手だったし、何よりも、拾ってもらった身である自分が恩人らと同格のように食事をとることは許されないことだと思っていたからだった。
渡り鳥によってもたらされたという、『米』を用いた『おにぎり』は、そんなナハトにとって非常に都合のいい料理だ。
手早く食べることが出来るし、持ち運ぶことも出来る。
中に入れる具次第では、様々な栄養を取ることも出来る。
「どうだ? 今日は特別に、昨夜残った牛肉を入れてやったぜ」
若いコックが言った。
「うまい」
ナハトの言葉にコックは満足したように鼻を鳴らし、言葉を続けた。
「今度連れてきたのもえらく別嬪だったな」
「アーベントか。確かに、整った容姿をしているな」
「こないだはノイン、今回はアーベント――と、美人をはべらせて羨ましい限りだぜ」
「仕事上、必要な関わりというだけだ」
へぇ、と小刻みに頷きながら、コックが笑う。
そこへもう一人、別のコックも加わった。
「ナハトにこんなこと聞くのも野暮ってもんだが、どっちが好みなんだ?」
「?」
「女として、ってことだよ。街中で噂になるほどの別嬪と、野性味あふれる色気むんむんのお姉様」
ふむ、とナハトは二人の顔を思い浮かべてみた。
だが、浮かんでくるのはノインが魔獣に短刀を突き立てて救ってくれた場面と、アーベントが魔獣に突き刺さった手製の矢を捩じりながら引き抜いた場面――どちらも、異性として評価するには適さない気がした。
「考えておく」
「――ってことは、どちらかなのは間違いないんだな。よっしゃ、いいこと聞いたぜ」
「おら、お前ら! 人手がねぇんだからさっさと配膳手伝え!」
強面の司厨長が怒号を飛ばし、若いコックは青ざめてそっちへ向かった。
そういえば、あの二人はシュティレに懸想していたか――使い終わった皿を流し場に戻しながら、ナハトはそんなことを思い出した。
更新頻度が落ちてすみません。気長に読んでもらえればと思います。




