第14話 出立と幸先
「ナハト」
執務室から出てすぐ、ナハトはシュティレに呼び止められた。
ノインとレーラーはスタスタと廊下を歩き、一階へと下りて行った。
シュティレは片手で書類を抱え、逆の手で髪を撫でつけながら小さく口を開く。
「いつ発つの?」
「ロイエ様が、準備の出来次第と言っていただろう」
「そうじゃなくて」
「――装備の確認と旅支度をしなければならないから……明朝になると思うが」
「分かった」
それだけ言って、シュティレはさっさと階下に降りて行った。
ナハトは首を傾げたが、馬の手配や食料の準備やらをしてくれるのだろうと勝手に納得した。
「相変わらずですね」
執務室の入り口で伸びをしながら、ロイエが言った。
「シュティレは、貴方の身を案じているのですよ。また大怪我をして帰ってくるかもしれない、もしかしたら帰ってこないかもしれないと」
「ここ数年で、少なくはない回数の仕事をしてきました。彼女は早い時期から察していたようですし、今更気に掛けることでもないように思いますが」
青年の言葉に、なって日の浅い当主は苦笑した。
まったく、この青年は、どうしてこうも人の情に疎いのか。
シュティレがナハトに対して、親近感を超えて思慕の情を抱いていることは、ロイエの目から見れば明らかだった。
だが、ナハトの方はまるで無頓着で、彼女の気持ちに気付くことはおろか、彼女に対してどんな思いを持っているのかもはっきりしない。
いや、もしかすると、人の命を奪うという昏い務めを続ける内に心が麻痺してしまったのかもしれない。だとすれば、彼が年相応の穏やかさを失いかけていること、そして彼を慕う者が鬱屈としてしまうことの責任は、父や自分にあることになる。
かと言って、家人の私的なことに介入しすぎるのはよくないと父に教わった。当主の言葉は家臣にとって、助言のつもりでも指示に聞こえ、注意のつもりでも訓告に聞こえるからと。
「ですが――」
「はい?」
「心配をかけぬよう、次は極力、負傷を癒してから帰還しようと思います。シュティレは暇が出来たからと言って医務室に来ていましたが、どう見ても、忙しい合間を縫って足を運んでいましたから」
意外なセリフだ。
ナハトはナハトなりに、彼女の身を案じているのかもしれない。
もっとも、傷が癒えるまで帰ってこないとなると、安否が分からない状態で待ち続けることになる。それよりはむしろ、負傷した状態でも早く顔を見せた方が安心出来るような気もするのだが。
「家臣が業務に集中できない状態は、ロアリテート家にとって良いことではないので」
そう言い残して、ナハトはサッとその場を離れて行ってしまった。
「そういうことでもないんですけれどね……」
誰にともなく、ロイエは言葉を浮かべた。
その夜、ロイエが急遽献立を変更したという夕食は豪勢なものだった。
明朝、ナハトとノインが出立するのと入れ替わるような形で、ロアリテート家に来客があった。
「ナハト、あの人は?」
馬に荷物をつけながら、ノインが遠目に客を見て言った。
面長な顔に細い目は狐のようだが、白髪交じりの黒髪はボサボサで、一目では年齢が分からない風貌だった。着ているコートが細かい装飾の施されたもので、何本かの指に光るものが見える。
彼は細い目をさらに細めて笑い、庭でロイエと談笑していた。その傍らには、シュティレが控えている。
「確か、ライヒェという名で、この交易都市フェアトラウエンの中でも有数の豪商だ。噂ではなんの後ろ盾もなく自らの力のみで商会を立ち上げるほどのやり手だとか。俺にはよく分からんが、シュティレがそう言っていた」
「シュティレって、館の中の色々な雑務もこなしながら、ああいうお客さんの相手もしてるんだっけ。若いのに、大したものよね」
見た目で言えば、ノインもそれほど年齢が違うようには思えない――と思いながら、ナハトは口には出さなかった。
確か、女性に対して年齢の話はすべきではなかったはずだ。
「なんにせよ、俺達のなすべきことには関わりのない人物だ」
「そうでもなさそうよ。ロイエが呼んでる」
手招きをする当主のもとへ、二人は馬の手綱を引きながら近付いた。
「やぁ、これはこれは――なんとも美しいご婦人ですな。その宝石のような瞳は、視線に価値をつけられそうなほどだ。そしてそっちの君は、確かナハトくんと言いましたかな。また一段と精悍な顔つきになったものです」
「彼女はノイン。わたくしの所で新たに雇うことになった者で、これからナハトと共にミットライトに赴いてもらうところなのです。それで――」
ロイエがライヒェをちらと見た。
商人は、なるほどと頷いて言葉を継いだ。
「それは良いタイミングで伺いましたね。お二方、ミットライトへの道中、大路は行かずに遠回りをした方がよろしいですぞ」
「遠回り――なぜです?」
「我々商人が頼む武器は、剣ではなく情報です。そんなわたくしめが小耳に挟んだところによると、近頃、シュテッペ草原の東部に渡り鳥が現れたとか」
ナハトがロイエを一瞥すると、若き当主は小さく頷いた。
「そういうわけですから、二人とも、道中はよくよく気を付けるのですよ。無事に務めを果たせるように」
「御意」
「分かったわ」
ロイエが館の中へライヒェを招き、ナハトとノインはそれぞれの馬の鞍に手をかけて飛び乗った。
「幸先がいい――と言うべきだろうな」
「そうね。転生の頻度が高くなっている、という点に目をつぶれば、だけど」