第12話 休養の数日
ナハトが目を覚ましてから一週間が過ぎた頃、ベッドまで聞こえてきた噂があった。
護衛長レーラーが、ノインとの手合わせで不覚を取ったというのである。
王都の剣術指南役であった先代当主と互角かそれ以上と言われるレーラーは、ナハトの命の恩人であり、剣の師でもある。
隠形の魔法を発動させれば背後を取ることは出来るが、まともに立ち会って勝てる見込みはまず無い。
「先生が手加減しただけだって、みんな言ってるけどね」
見舞いに来たシュティレはすげなかったが、ナハトにはそうは思えなかった。
おそらく、その立ち合いはロイエが指示したものだ。
ノインの能力を、レーラーを以って推し量ろうとしたのだ。
「シュティレは、実際にその場を見てはいないのか?」
「ええ。睡眠不足にならないように、仮眠をとってたから」
なるほど、目の下の隈はきれいに無くなっている。
自分の助言が功を奏したらしい。
だが、その代わりなのか何なのか、シュティレはこのところずっと不機嫌そうに見える。
健康を取り戻したのだからもう少し機嫌がよくてもよさそうなものだが――と思いながら、ナハトはこれまでの経験をいくつか思い出して言葉を飲み込んだ。
以前から、自分が疑問に思ったことを口にしたせいでこの女性の機嫌を損ねてしまうことが多々あった。主君からもよく「貴方は言葉が足りない」と苦笑されるが、何がどう足りないのかが分からない。それならばいっそ、何も言わない方がいいというものだ。
「ノインに怪我はなかったのか?」
シュティレの表情が陰った。
今の質問の何が悪かったのか、まるで分からない。
主君が家人と認めた者――いわば同僚の身を案じるのは、ごく自然なことだ。
それは、言葉足らずの自分などの見舞いに足しげく通ってくれるシュティレこそが分かっていると思うのだが。
「――彼女は元気そのものよ。毎日街の散策に出かけては色々な人と話をしているみたい。おかげで、フェアトラウエン中の殿方が毎日の話題に事欠かないそうよ」
「まぁ、あの美貌だから無理もない」
「――!」
血相が変わる、とはこういうことだろうかと思うほど、シュティレが表情を変えた。
また、まずい言葉を選んだらしい。
だが、容姿に限らず人の良い部分は口にした方がいいと教えてくれたのは、他ならぬシュティレだったと記憶している。
何を口にしても癪に触ってしまうのなら、いよいよ口をつぐむより他にない。
「私、そろそろ行くね」
「ああ……」
目に見えて分かるほど気落ちさせてしまった。
長い付き合いになる彼女には、何かと世話になっている。
感謝はしているのだが、どうにもうまく伝えられない。
せめて、仕事に支障を来たさない程度には気を取り直してもらいたいが……
「シュティレ」
「……何?」
立ち上がり、踵を返しかけた同僚を呼び止める。
呼び止めたところで、適切な言葉が浮かんでいたわけではない。
しかし、考えて言葉を選んだところで正解に辿り着ける保証もない。
考えても仕方のないことは考えるな。
「いつも見舞いに来てくれて、嬉しく思っている。ありがとう」
「――い、いいわよ、別に。それより、早く治ってくれないと貴方の分まで仕事が増えるんだから、さっさと元気になってよね」
シュティレはそれだけ言って出て行ってしまった。
まったく、言葉を繰るのはどうにも苦手だ。
姿を消して暗殺を執行する方がよほど楽だと思う。
視線を動かすが、医務室には誰もいなかった。
そう言えば、侍医も往診の為だとかで留守にすると言っていたか。
ナハトは目をつぶり、四肢の先にまで血が巡っている感覚を確かめた。
深く呼吸をしようとすると、まだ鈍痛が駆け巡る――が、ずっと臥していなければならないほどではないように思う。
自発的に退院させてもらうことにしよう。
幸い、シュティレが武器や装束の類はすべて自室に運んでくれたから、着の身着のままで出て行けばいい。
ナハトは医務室を出た。
「む」
自室へ戻る途中の廊下で、ばったり会ったのは師のレーラーだった。
見るからに頑健な肉体に、それにふさわしい強者の顔。暗い赤の長髪は、浅黒い肌と相まって一種独特の威圧感すら感じさせる。
「聞いた話では、向こう一週間は安静にしなければならないとのことだったが」
「もう大丈夫のようです。先生の鍛錬の賜物です」
思わず、背すじが伸びる。
「それは重畳だ。時にナハト、例のノインという者についてだが」
「はい」
「底知れんぞ。手加減をされたのは三十年ぶりだった」
「え――?」
「もっとも、剣の構えは素人そのもの、向こうから攻めてくる気配は無し。回避に専念したゆえだと慰められたが、さて――」
レーラーはそれだけ言って、二階に上がって行ってしまった。
師が、手加減された?
ノインに?
それなら、彼女の剣の腕は自分よりも遥かに高みにあることになるのではないか。
そんな人物を、いざ暗殺するとなったとして、どうする?
少なくとも、今は有効な手段がないように思われた。
「そんなところで突っ立って、何してるの? ナハト」
声に振り返ると、そこにはノインとロイエが立っていた。
「自室に戻るところだ。そっち――いや、そちらは?」
「わたくしが、ノインの散策に同行させてもらっていたのです。おかげで、いくつか面白いことが分かりましたよ」
クスクスと嬉しそうに声をあげるロイエの横で、ノインが大きく目を見開いた。
紫水晶の瞳がくっきりと透き通る。
「ちょ、ちょっと、ロイエ! 内緒にしてって言ったでしょ!」
「ええ。ですから、内容は口にしていませんよ。さ、約束通り、お茶の飲み方を教授して差し上げますね」
「う、うん……」
二人もさっさと二階に上がって行ってしまった。
なんとも謎めいた女だ。
敵陣には飄々と入り込む、師の剣撃は避け続ける、爵位ある者と出かけてはあどけないほどの顔で赤らむ。
それにしても、ノインがロイエに対して無遠慮な口の利き方をしていることを、ロイエ自身はなんとも思っていないのだろうか。
主君と家臣という関係ならば、しかるべき礼節があろうというものだが――まぁ、自分が口を挟む何物もない。主君がそれでよしとするならば、家臣もそれでよいとしよう。
こうして、ロアリテート家では穏やかな数日間が過ぎていった。