第6話 伝承の足跡
小雨のぱらつく細い林道を、知里利夫は手慣れた運転で軽バンを走らせていた。
助手席に収まっている俺は、乗り心地の悪いシートの上で何度も跳ねながら、取り立てて変化のない薄暗い林を眺めていた。
如月はこの件から手を引けと言っていた。
その警告を無視するわけではないが、何もせず聡子を危険に晒すことは出来なかった。
ある程度探りを入れて、怪物が危険でないものかどうかを見極める。
もし危険なものであれば、決着をつけるしかないだろう。
険しい顔をしてしまっていたのだろうか、ハンドルを握る髭男が俺を気遣ってくれた。
「もうちょっとですから辛抱してくださいね」
「ええ、大丈夫ですよ。ご心配なく」
ガタガタ道に揺られながら、俺は退屈を紛らわそうと、ちょっとしたことを訊いてみた。
「旅館の娘さん、親戚だったんですね」
「ええ。佳奈恵とは遠い親戚です。他にも血縁の者がこの辺りにはゴロゴロいますよ。田舎っていうのはそんなもんです」
「そうですか。それにしてもあの子、あなたに良く懐いている感じですね」
「ええ、昔からよく知っていますんで。あいつが小さい頃、よく遊んでやったんですよ」
「そうでしたか。働き者で、なかなかいい娘さんですね」
「世間知らずな娘なんです。手を出さないでやって下さいよ」
明らかに冗談めかして言ったあと、髭男は狭い運転席で、体を揺らして笑った。
「いやだな、からかわないで下さいよ」
「半分は冗談です。でももう半分は……」
「もう半分は?」
「いやね。ひょっとするとあいつ、大上さんみたいなのがタイプなのかも知れないって思ったんですよ」
また冗談が始まったと思い、俺は苦笑いを浮かべた。
「今のはちょっと行き過ぎですよ。年頃の娘さんだ。学校に好きな子ぐらいいるはずですよ」
「まあ、そうかも知れませんけどね。語弊があったかも知れませんけど、さっきのは別の意味で言ったんですよ」
「別の意味って?」
なにやら意味深な感じに俺は興味を覚え、その先をねだった。
「いえね、実はあいつ、父親を小さいころ無くしてまして、その父親ってのがその、なんとなく大上さんに似てるっていうかなんというか」
「そうゆうことですか。何となくって、顔がってことですか?」
「いや、まあ顔というよりも全体の雰囲気って言うか」
似ていると言われて、どんな人物だったのか興味が湧いた。
「どんな雰囲気の方だったんですか?」
「まあ、ひと言で言うなら、お人よしのお調子者かな。あんまし清潔感のない感じの、ひょろっとした痩せ型で、美形とは程遠いけれど愛嬌のある男でした」
「言いたい放題ですね」
「いやいや、大上さんの話じゃないですよ。あの子の死んだ父親のことですからね」
訂正してくれたけれど、遠回しにけなされた気がして、聞かなければよかったかとちょっとだけ後悔した。しかしこの男の俺に対する評価はかなり正確だ。
「よくよく見てみると、ダンディな大上さんとは全然違いましたよ。ハハハハ」
あからさまな誤魔化し方だ。きっと本当に俺と共通点が多かったに違いない。
捉えどころのないような髭男の話を聞いているうちに、車は林道を抜けた。
「まずは蛇神様の祀られていた神社に参拝しましょうか」
車を停めたのは、かつて蛇神を祀っていたと言われる、廃れた神社だった。
先に俺が車を降りると、利夫は後部座席に積んであった猟銃を手に取って車を降りた。
「時々熊が出る地域なんですよ。この辺りは」
それほど大きくない社は、そこそこ小ぎれいに清掃されていて、時々世話をする誰かが訪れているのを見てとれた。
「ご神体は麓の村に移築された神社に移されたんですがね、今も手を入れに来るお年寄りがいるんですよ」
「そうなんですか」
俺は取り立てて調べることも無さそうな社殿をぐるりと回って、気の付いた一点だけを尋ねた。
「鳥居がありませんね。倒れてしまったとか?」
「いいえ、もともとないんです。神様といっても、蛇神様は古代神ですので、ああいった鳥居は余計なものと捉えられておるんです。その代わりほら」
俺は利夫が指さした方に目を向けた。
立派な杉の木が社殿の隣にはそびえ立っていた。
「蛇神様が絡みつくとされる巳の神杉です。本当は社殿を挟んでもう一本あったんですが、2004年に起こった台風のせいで一本は倒れちまったんです」
「なるほど。ちょっとした目印ですね」
「ええ。古い神様を祀る場所にはこういったご神木が植えられていることが多いんです。鳥居みたいには目立ちませんが」
「この辺りには、もう住んでいる人はいないみたいですね」
「ええ、皆出ていきました。便利は悪いし、時々熊も出ますからね」
いくつかある崩れかけた民家の屋根にはぺんぺん草が生えていた。
雪の下敷きになって押しつぶされた家の残骸もいくつか見受けられた。
「大上さん。悪路をはるばる来てもらって申し訳ないんですけど、ここはこんなもんです。まだ観てもらっても構いませんが、きっとつまらないでしょうね」
来て早々だが、利夫の言うとおり、ここにはこれ以上見るものは無さそうだった。
「蛇神様は湖沼に住んでいたのだと言ってましたね」
「ええ。それが何か?」
「この辺りに、そういった感じのものはありませんか? できれば覗いてみたいんですけれど」
「勿論案内しますよ」
利夫は車に乗らず、社殿の奥へと歩き出した。
「草むらを歩きますんで、ぬかるみに足を取られないよう気を付けてください」
「分かりました。気をつけます」
からんからんと、クマよけの鈴を鳴らして歩く利夫の後を歩きながら、俺はできる限り五感を研ぎ澄ませていた。
今日は月齢三日。月齢の上昇期ではあるが、今の俺の感覚はさして鋭くはない。
それでも昨日このガイドから聞いた伝承の中で、蛇神は強烈な悪臭を漂わせていたと聞きおよんでいたので、それが本当なら、今の状態でも嗅ぎ分けられるのではと考えたのだった。
「ここですよ」
足元の悪い草むらをかき分けて、靴を汚して辿りついたのは、小さな沼だった。
緑色に淀んだ水が、わずかに異臭を放っている。しかし一般的な池や沼にありがちな臭いだった。
「ホヤウカムイがいたとしたら、ここぐらいですかね」
本当に蛇神を探している訳ではないだろうと、軽い口調で利夫はそういった。
「しかし大上さんも酔狂な人だね。こんなところに来なくっても、観光するんなら、もっと色々お薦めの場所があるのに」
「伝承とかの類に興味があるんですよ。あんまり共感してもらえないマイナーな趣味ってやつです」
「いいじゃないですか。大上さんがそれで満足なら、あたしもこの時期に貴重なお客さんを案内できるわけだし」
俺は会話をしながら、あの廃坑で闘ったあの怪物の匂いを探していた。
無駄な努力だと分かっていつつも、焦りが俺をそうさせたのだった。
その時、俺は風上から池の匂いに混ざってくる別のものを嗅ぎ分けた。
獣臭だ。
月齢の浅い俺の嗅覚にしては、奇跡的な成果だった。
「熊ですね」
そう言ったのは、利夫だった。
沼の向こう。深い森を背にして、一頭のヒグマがこちらに目を向けていた。
「下がっててくだせえ」
肩にかけていた猟銃を適当に構えて、利夫は一発発砲した。
熊は慌てて森の中へと消えていった。
どうやら威嚇射撃を行ったみたいだ。
「ああやって、脅かしとくんですよ。人間に近づいたら危ないぞって。本来なら、あいつらの敷地にお邪魔してるのは我々なんですけどね」
「確かに……」
利夫の言うとおり、無断で相手の家に踏み込んできたのは俺たちの方なのだろう。
このとき俺はこの髭面のガイドに、自分のことを諭されているような気がしたのだった。
旅館に戻った俺たちは、また温泉に浸かって汗を流した。
この調子だと、俺はこの髭面の男と、毎日裸の付き合いをすることになるのだろう。
煩わしいことを避けて通る俺には珍しく、不思議な愛嬌のあるこの男と、風呂を上がってから一緒に飯を食うことになった。
ご馳走するからと軽く誘ってみると、喜んで誘いに乗ってきたのだった。
察するに、独身なのだろう。
昨日と全く同じ席に腰を落ち着けて、髭面と差し向かいになると、あの佳奈恵という娘がビール瓶を片手にやって来た。
「お疲れさまでした。今日は利夫さんと一緒なんですね」
「ああ、まあなんとなくね」
俺のグラスに、なみなみとビールを注いでから、佳奈恵は軽く髭面を睨んだ。
「利夫さん、駄目じゃない。大上さんの人の好さに付け込んで」
「へへへへ」
この感じを見る限り、常習犯なのかも知れない。
「いや、こっちから誘ったんだよ。ちょっと利夫さんと飲みたくってね」
「本当ですか? ねだられてないですか?」
「心配しなくていいよ。本当に俺から誘ったんだ。利夫さんにも注いでやってよ」
「仕方ないですね」
佳奈恵が注いだグラスは直ぐに空になった。
「あーあ、ちょっとは遠慮してよ。恥ずかしいじゃない」
「人の奢りで飲む酒ほど美味いもんさ。もう一杯たのむ」
「もう、調子に乗って」
手慣れた感じで佳奈恵がビールを注いでいると、今朝見かけただけの女将がやって来て、綺麗に姿勢を正して挨拶をしてきた。
「この旅館の女将をさせて頂いております知里小春と申します。昨日は村の集会に顔を出しておりまして失礼いたしました。お泊りになられている間のご用は、わたくしでも、娘の佳奈恵でも、何なりとお申し付けくださいませ」
「大上琉偉です。しばらくお世話になります」
凛とした感じの、いわゆる美人だった。
和服を自然と着こなしている感じは、このさびれた田舎の旅館にそぐわないほど、洗練されていた。
グラス一杯のウイスキーでぼったくられる、高級クラブのママといった雰囲気があった。
利夫から佳奈恵の父親は他界していると聞いていたので、再婚しているのか、それとも未亡人のままなのかと、別に助平心があるわけでは無いが、余計なことを考えてしまった。
そして女将は、髭男に目を向けて軽く微笑んだ。
「利夫さん、ちょっと」
そのまま女将は利夫を引っ張ってレストランを出て行った。
「どうしたんだろうね」
「さあ、きっと怒られてるんじゃないかな」
佳奈恵は俺の空になったグラスにビールを注いでから、今日一日のことを訊いてきた。
「あの人に乗せてもらって、山奥まで行ってきたよ。この辺りの面白い伝承を辿ってね」
「蛇神様ですか?」
「そうなんだ。利夫さんに聞いたのかい?」
「ええ、まあ、それで何か面白いものでも見つかりましたか?」
「いいや、何にも。ああ、そうそう」
俺はグラス片手に、ちょっと勿体ぶって見せた。
「なんですか? 教えてくださいよ」
「いやね、熊に遭ったんだ。まさかって思ったよ」
「本当ですか? それでどうしたんですか?」
「いや、利夫さんが、バーンとね。一発威嚇したらどっか行っちゃってさ」
「そうでしたか……」
少し険しい顔をして、佳奈恵は腰を上げた。
誰もいなくなった席で夕飯を腹に入れていると、利夫が目元に薄笑いを浮かべながら戻ってきた。
「いやあ、怒られちゃいましたよ。お客さんに奢ってもらうなんてって」
「そうでしたか。まあ、気にせず飲んでくださいよ」
俺は瓶に残った液体をグラスに注いでやってから、もう一本ビールを注文した。
それから利夫と一時間ほど飲んだだろうか。
昨日に比べてあまり酔えなくなった体を少し残念に思いながら、俺たちは明日の予定を確認したあとレストランを出た。
ロビーで俺に見送られ、利夫は乗りつけた軽バンで機嫌よく帰って行った。
完全に飲酒運転だが、全く気にしているそぶりも無かった。恐らくそっちの方も常習なのだろう。
もう少し強い酒でも飲み直すか、それとももう一度風呂に入ってから寝てしまおうかと悩んでいると、佳奈恵が小走りにやって来た。
「帰っちゃいましたね」
「ああ、まともに飲酒運転を見ちまったよ。泊めてやった方が良かったかな」
「駄目ですよ。利夫さんをつけ上がらせるだけです。それよりこれ」
娘が差し出した掌に載っていたのは、熊よけの鈴だった。
「これ、明日から持って出てください」
「え? 貸してくれるの?」
「いいえ、差し上げます。必ず持って出てくださいね」
「いや、それじゃ、流石に悪いよ。売店で買うよ」
「いいから持ってってください。大上さんお得意さんだから、サービスです」
「そう? じゃあ、遠慮なく頂いときます」
真鍮でできた黄金色の熊よけは、見た感じと同様に、ずしりと重かった。
カランと音を鳴らしてみると、そこそこ大きな音がした。屋内で鳴らすものでは無いみたいだ。
「じゃあ、佳奈恵ちゃんに感謝を込めて、もう少し飲もうかな」
「ホントですか? じゃあご案内しますね」
やはり俺は、お人よしのお調子者だな。
月齢三日の狼男は、酒の酩酊感覚を味わいたくて、娘の後をついて行ったのだった。