第5話 アイヌの男
一夜明けた晴天の朝。
冷たい空気を払い除けて朝の露天風呂に入ったあと、ロビーに降りた俺は、昨晩旅館の娘から聞いた観光案内のパンフを手に取ってみた。
観光案内のパンフには、あの髭だらけの男の顔がでかでかと載ってあった。
「知里利夫……」
あの人懐こい笑顔をここにも見つけて、俺は軽く鼻を鳴らして笑ってしまった。
盲滅法見知らぬ土地で動き回るのは効率が悪い。特に月齢三日の俺だけでは、一日中歩き回ったとしても、疲れ果てて旅館に帰ってくるくらいが関の山だろう。
土地の情報に精通し、伝承の類にも詳しい案内役と知り合えたのだ。活用しない手はない。
パンフには事務所の番号と携帯番号が載ってあったが、朝も早いので直接携帯に掛けてみることにした。
携帯はすんなりと繋がった。
「はい。アイヌ観光ガイドの知里利夫です」
仕事用の携帯なのだろうか。早朝にも拘わらず馬鹿丁寧に、あのちょっと可愛い声で応答した。
「あの、ガイドをお願いしたいと思って……」
「ああ、昨日の人だね」
あっさりと看破されて、俺はまた驚かされた。やはり心を読むへんてこな力を持っているのではないだろうか。
「そうなんです。昨日お風呂場でお会いした者です。しかしあっさり当てられちゃいましたね」
「なあに、簡単なことですよ」
「また種明かししてもらえるんですか?」
「今回は止しときましょう。きっとすぐに分かりますよ」
手短に用件を話したあと、午後一番に旅館で落ち合う約束をした。
なかなかいい滑り出しが出来そうだ。
それまでに、この辺りの伝承をもう少し仕入れておこうか。
取り合えず、朝飯を腹に入れようとロビーを後にしようとしたとき、昨日女中をしていた娘にばったり会った。
「あ、おはようございます」
セーラー服に学生鞄。これから学校といった分かり易い、いでたちだった。後ろに括っていた髪は、今は下ろされていた。
「早いね。これから学校かい?」
「はい。ちょっと遠くって。お客さんは今日はどちらへ?」
「俺は昼からガイドと散策。君に教えてもらった利夫さんに頼んだところだよ」
「そうですか」
満足げに、女子高生らしい華やいだ笑顔を見せた娘に、俺はもしやと訊いてみた。
「ひょっとして、あのガイドさんに俺のことを話したりした?」
「へへへ、はい。実は昨日の夜に別件で利夫さんから電話があって、その時にお客さんのことをちょっとだけ……」
娘の話を聞いて、あの髭の男の謎かけが解けた。
事前にこの娘を通してガイドの話を聞いていたから、俺が電話を掛けてくるのを知っていたのだ。
ここで娘とバッタリ会わなければ、一杯食わされていたところだった。
そう思うと自然と笑いが込み上げてきた。
「フフフ」
「え? 何か面白いこと言いましたか?」
「いや、何でも……それより学校大丈夫?」
「あっ! そうだった!」
娘は思い出したようにバタバタと走って行こうとした。
見送ってやろうとした俺を、娘は足を止めて振り返った。
「あの、私、知里佳奈恵といいます。利夫さんとは遠い親戚なんです」
「それで親しいわけだね。俺は大上琉偉。よろしくね」
「こちらこそ。ひょっとして今の感じ、今晩もお泊りですか?」
俺の些細な言葉のニュアンスから、そう娘は受け取ったみたいだ。
「ああ、お世話になるよ」
「じゃあ今晩もお酌しに伺いますね」
佳奈恵と名乗った娘は、快活な笑顔を残して出て行った。
俺はその背中を見送ったあと、今晩、部屋が空いているかの確認をしておいた。
他にも数軒、車を走らせば宿はありそうだったが、快活な看板娘とヒゲ男を気に入った俺は、取り敢えずは三日分の予約を入れておいたのだった。
如月から電話がかかって来たのは、民俗資料館を訪れていた時だった。
如月紫吹。学生時代、この男と俺は理想を夢見て、かなり無茶なことをした経歴があった。
俺にとって如月は、唯一背中を任せられる相棒なような男だった。
俺と同じ混血種の如月は、ある時点で人間の肉を食べるようになり、眷族の社会の一員となった。
表向きは警視庁のエリート。しかしその内情は、眷族の汚れ仕事を引き受ける掃除屋といったところだった。
この間の事件まで、如月とはずっと会っていなかったが、あいつは昔と何も変わっていなかった。
まるで犬っころのように、眷族の上層部に仕えながらも、静かに今もあいつは足掻いていた。
忙しいあいつとは、またしばらく会っていないが、今度また新月の夜にでも居酒屋をハシゴしてみたいと思っていた。
俺は一度民俗資料館を出て、如月からの電話に出た。
「もしもし」
「琉偉。手短に言う。この件から手を引け」
電話に出て、いきなり切り出してきた如月の文句に、俺は首を傾げた。
「なんだ? おまえの耳にも入ってるのか?」
「そんなことはいいから、この件からすぐ手を引け。今すぐ荷物をまとめて戻って来るんだ」
「それはできない。三島聡子に危害が及ぶかもしれないんだ」
「お前は何もわかってない」
如月の口調には、冷静沈着ないつもの印象が無く、焦りと怒りが含まれているように感じられた。
「どういうことだ。理由を説明してくれ」
「それはできない。だが、できないという意味をお前なら分かるはずだ」
理由を説明できないというのは、極秘扱いの機密事項で、口にできないのか、あるいは知らされていないかだった。
もし後者であるならば、その情報を知ってしまうということは死に値するということだ。重要な機密を知った者を眷族は生かしておかない。
如月は暗にそのことを俺に伝えようとしたのだった。
「調印書があったとしても抜け穴はある。手を退いてくれ、頼む」
最後にそう言い残して電話は切れた。懇願した旧友に、俺は事態の重大さを感じずにはいられなかった。
「眷族にとって都合の悪いものが、ここにあるわけか……」
快晴だった空に、いつの間にか雲が広がっている。山間部の天候は変わり易い。
「雨になりそうだな」
俺はそう呟いて、もう一度資料館の中へ入った。
知里利夫が俺を尋ねてきたのは、丁度午後一時だった。
プロのガイドだけあって、時間には正確のようだ。
お客さんの準備を考えて、早くもなく遅くもない時刻に現れた。その几帳面さに、案内役としての優秀さを見た気がした。
「案内役を仰せつかった知里利夫です」
ヒゲ男は魅力的な笑みを浮かべたまま、名刺をくれた。
「アイヌ民族観光ガイド知里利夫」と印刷されてあった。
「大上琉偉です。そう言えば昨日は名乗り合いませんでしたね」
「そうでしたね。まあ、またお会いするだろうと思ってましたから、これでいいんでしょう」
またちょっとだけ謎めいたことを言い出したヒゲ男に、俺はまた興味をそそられた。
「まるで預言者ですね。これも種明かしがあるんですか?」
「今のは方便です。でも実はガイドに指名してくれないかなって、ちょっと思ってたんですよ」
「そうなりましたね」
ヒゲ男の屈託のない笑顔のせいだろうか、如月の電話以降沈んでいた俺の心に、少し晴れ間が戻った気がした。
男はロビーのテーブルに地図を広げて、ガイドコースの説明を始めた。
「では、観光したいコースを選んで頂きましょうか」
「そのことですけど……」
俺がその次を言いかけた時に、ヒゲ男は絶妙なタイミングで口を挟んだ。
「良ければ、お勧めの観光地めぐりに出発しましょうか? それとも……」
そして男は不思議な提案をしてきたのだった。
「ホヤウカムイの伝承を巡るってのはどうですか」
相変わらずのにこやかな表情だった。
やはりこの男、俺の心理を見抜いているのだろうか。
まだ月齢三日の俺には、このヒゲ男の、感情の揺らぎを見て取ることはできなかった。