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狼はそこにいる 蛇精の少女  作者: ひなたひより
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第4話 狼の休息

 もうすぐ四月に差し掛かろうかという季節ではあったが、日の落ちた北海道の山麓は恐ろしく冷え込んでいた。

 飛び込みで入った山間の旅館に空きがあって良かった。下手をすれば冷蔵庫の中みたいな車内で、一泊しているところだ。

 満月期には北極ででも裸で一泊できそうな俺でも、新月の頃には普通に風邪をひく。

 そして今、頬に冷たい空気を感じながら、旅館の露天風呂に浸かって一日の疲れを癒していた。

 外気は摂氏三度。冬に戻ったような感覚だが、こちらに住んでいる人にはこれでも春めいてきたくらいなのだろう。

 たいして広くもない、いわゆる日本庭園風の露天風呂だ。湯気の中には俺の姿しかなかった。

 観光シーズンでもない平日に、そうそう客の姿は無いものだ。

 ジョボジョボと音を立てる温泉の湯口の上に看板がある。

 源泉かけ流し。そう書いてある。

 ほう、成る程、そう書いてあるだけでなんだかありがたい感じがする。

 大した知識は持ち合わせていないが、源泉かけ流しというのは、湧き出た温泉水のままということくらいは知っていた。


「つまり、加水をしていないってことだな」


 俺がぼそりと呟いた時、ガラリとガラス戸が開いて、ようやく一人お客さんが入って来た。

 へえ。

 俺は内心感心した声を上げていた。

 というのは、入って来た男がいかにもアイヌ民族といった風貌だったからだ。

 肩まで伸ばした髪の下には角張った彫りの深い顔があった。

 太い眉毛にハッキリとした目鼻立ち、口髭ともみあげから繋がっている長く伸ばした顎髭が特徴的だ。

 背丈は俺よりも低そうだが、身幅があり、短く太い首は鍛え上げられたプロレスラーのそれを連想させた。

 露天風呂に足をつけた男は、俺をちらと見て、軽く会釈をした。

 じっと見ていた俺は少し不躾だったかと反省しつつ、笑顔と会釈を返しておいた。


「どうも」


 そう返したその男の声は、意外と野太さのない、少し高めの声だった。

 この外見と相まってこの声だ。この男と一度会話をしたらずっと記憶に残ることは間違いないだろう。

 男はつぶらな二重の目でこちらを見て、笑みを浮かべた。

 顔の大半を覆う髭が邪魔をして、表情を読み取れるのは目と頬のあたりだけだった。そこだけでこれだけ人懐こそうな笑みを浮かべられるのを見る限り、たいそう表情豊かな人なのだろう。


「観光ですかな?」

「ええ、まあ」


 当たり障りない返答を返しておいた。

 しかし一体幾つくらいの男なのだろう。髭の面積が多すぎて、まるで年齢が読み取れない。


「こう見えてまだ四十なんですよ」


 いきなり俺の考えを読んだかのようにそう言った男に、きっと俺は間抜け面をしてしまったに違いない。


「びっくりしたな。実は今、お幾つくらいの方なのかって考えてたんですよ」

「そうでしょう。初対面の方は大概私の歳を想像しますよ」


 当てられて驚いていた俺に、男は種明かしをしてくれた。


「この風体に、人よりも高い声でしょ。顔の殆どがこんな感じなんで、若いのか、歳がいっているのか、皆さん悩まれるんですよ」

「ははは、私はてっきり、心を見透かされたのかと思いましたよ」

「無理無理。ちょっとした手品以下の余興です」

「そうでしたか。失礼ですが地元の方ですか?」

「はい。少し外れの集落に住んでおります。週に何度かここの温泉に入りに来るんですよ」


 人懐こい男は、たまたま風呂に居合わせた観光客相手に、この辺りのことを色々と話してくれた。

 男はこういった話をしょっちゅう人に聞かせているのか、見かけに似合わない可愛げのある声での語り口に、いつしか俺はすっかり聴き入ってしまっていた。

 俺はこの人懐こい男に、日高地方西部に昔からある伝承、蛇神様について聞いてみた。


「ああ、ホヤウカムイのことですな。知っていますとも」


 ホヤウカムイとは、アイヌの言葉で、「蛇の神」を意味する。俺は予め、マリから聞かされていた数少ない情報をかき集め、この地に逃亡した男の逃げ込んだ隠れ里が、この伝承にあるホヤウカムイの関係する場所ではないかと目星をつけていたのだ。

 月齢が満ちるまでの間は超感覚に頼ることはできない。今は無理だが、あの怪物の独特な体臭はしっかり覚えているので、近くにいれば必ず気付くはずだ。それまでは蛇神の伝承に沿って捜索をしていくことが正しい選択だと、本能的に感じていた。

 とはいっても、伝承の類というものは多くの場合、誰かが都合よく創り上げたものが形を変えて、現代に残っているものといえるだろう。

 しかし中には、形を変えつつも、真実を伝えるべく伝承されている物も少なからず存在する。

 俺はこのホヤウカムイこそが、現代に甦ったあの怪物とつながりがあるのだと疑わなかった。

 そこへ、こうしてアイヌの末裔に違いない男と遭遇したのだ。

 そしてありがたいことに、男はホヤウカムイについて、少なからず知識を持っていた。


「あんた、変わったことを訊くんだねえ」


 男はそう言ってちょっと得意げな感じで話してくれた。


「ホヤウカムイは古い神様だよ。湖沼に住み着いて、土地を荒らしに来た者に祟りを与える神様だ。蛇神様の棲むとされる沼はカムイトと呼ばれ、その付近は酷い悪臭がしているそうだ。一説によると体から毒を出して不浄なものを遠ざけていたらしいよ」

「不浄なものって外から来た人間ですか?」

「時には人であり、時には流行り病であったりさ。昔この地域で天然痘が流行った時に、ホヤウカムイは自らの毒で、その疫病を祓ったそうだよ」


 そこまで話し終えると、男は少ししか出ていない顔の部分を、サルのように赤くして湯から立ち上がった。どうやら話が弾みすぎて長湯してしまったらしい。

 男は顔の汗を肉厚の掌でゴシゴシと拭いて最後にこう言った。


「畏れられ、敬われていた。まあ俺は畏れるほうかな。仕事柄、山に入ることは多いけれど、蛇は苦手でね」


 また人懐こい笑みを浮かべた男の後に続いて、俺も湯から上がった。

 足元が少しふらつく。あの男のように俺も湯あたりしてしまったみたいだった。

 不死身でも何でもない今の俺は、温泉のお湯にさえ足元を掬われるのだ。

 しばらく冷たい外気に湯気の立つ体を晒して、俺は暗くなりだした空を見上げていた。


「畏れられ、敬われた。か……」


 かつて信仰の対象であった自分たちも、この廃れてしまった蛇神と同じようなものなのだろうか。

 俺は月のない夜空に向かって、大きく白い息を吐いた。

 今追いかけている相手とはいったい何者なのだろう。

 廃退して朽ちていくだけの自分たちは、いわば廃れた神の末裔で、近しい仲間といえるのではないだろうか。

 お互いに顔も知らない自分たちが、さしたる理由もなく殺し合うのはどうなのだろう。

 俺はこのとき、いずれ対面するであろう神の末裔と、腹を割って話をしてみたいと、本気で思ったのだった。


 風呂から上がって舌鼓を打ったのは、この地方の郷土料理だった。

 独り身なので、長い間旅行といったものをしていなかった。

 こうしてきちんとした旅館の料理を食する機会はなかなかない。

 おまけに月齢二日の今日は、酒に酔える貴重な時期だ。

 殆ど人のいないレストランで、俺はしばしの余暇を堪能することにした。

 一昨日深酒して懲りたはずなのに、俺はビールを注文し温泉で出て行った水分を取り戻すべくグッといった。


「クーッ、美味い」

「いい飲みっぷりですねえ」


 きっとアルバイトか何かだろう。若い女中さんが空になったグラスに泡立つ液体を注いでくれた。

 それをまたグッと飲み干す。


「あらあら、そのペースならすぐなくなりますよ」

「いいんだよ。すまないけど、もう一本持ってきといてくれないかい。あ、あとは手酌で行くから大丈夫だよ」

「分かりました。じゃあ、もう一杯だけ注がせてもらいますね」


 女中さんはニコニコと笑みを絶やすことなく、お酌をしてくれた。

 肩ぐらいまである髪を後ろで括った娘は、近くで見ると若いというよりまだ幼げに見えた。

 化粧っ気のない娘だ。きめ細かい雪のように白い肌と、愛嬌のあるクリっとした目が印象的だった。

 この旅館の看板娘といったところか。お陰で独り客の俺も、ちょっと陽気に夕飯にありつけた。

 あまりにもまばらな客席に、暇なのか気まぐれからなのか、娘は次のビールをグラスに注いでくれたあと、ちょっとしたことを訊いてきた。


「観光で来られたんですか?」

「ああ、うん。そうだよ」

「今の時期は、あまり観光するとこないでしょう。夏場は色々ありますけど、中途半端に寒いし、山にはまだたっぷり雪が残ってるし」

「そうだね。まあしばらくいるつもりなんで、その辺をブラブラするよ。ところで、君って高校生かい?」

「あ、わかりました?」


 若いなと思っていたが、やはりそうだったのか。つまりはこの旅館の娘さんか何かなのだろう。


「今日は家のお手伝い。ていうか、お小遣い稼ぎです」

「おー、いいねえ。若いうちは苦労は買ってでもするもんだよ」

「へへへ、お小遣いもらってますんで、それには当てはまりませんね」

「いいんだよ。親も喜ぶし、君も社会勉強と実益になる。どんどんやりなさい」

「はい。頑張ります」


 なかなか可愛い娘だった。

 俺はこういった素直な娘に弱いんだろうな。

 なんとなくその娘と聡子を重ね合わせながら、俺は今日風呂場であったあの男について聞いてみた。


「今日風呂場で髭もじゃのおじさんに会ったんだけど、あの人はよく来るのかい?」

「ああ、利夫としおさんのことですね。ええ、来ますよ週に二、三度」

「利夫さんって言うのか。なんかちょっとイメージが違うな」

「あ、私もそう思います。クマとイノシシをくっつけた様な人ですから」

「ハハハ。確かに。その利夫さんと君は親しそうだね」


 ただの客なら、下の名前では呼ばないだろう。娘の口調に慇懃さが感じられないので、それなりに近しい間柄だと見て取ったのだ。


「ええ、子供の時から知っていますから。いい人ですよ」

「ああ、そうだろうね。風呂場で見ず知らずの人と、あんなに盛り上がったのは初めてだよ」

「ウフフフ。利夫さんの話を聞いたんですね。あの人アイヌのガイドをしてますから、それはもう話し上手なんです」

「それでか。やっぱりプロだったんだな」


 今更ながら感心させられたが、確かに物知りで饒舌であった。

 風呂でのぼせそうにならなければ、もう少し色々話を聞きたかったくらいだ。そう考えると、これも何かの縁なのかも知れない。


「君はあの人と連絡を取れたりするかい?」

「連絡先ならロビーの、アイヌ観光ガイドのパンフに載っていますよ。どうしてですか?」

「いや、こっちにいる間、ガイドを頼もうかなって思ってさ」

「いいと思いますよ。今はオフシーズンですので、暇そうだし。利夫さんも喜ぶと思います」

「じゃあ決まりだな」


 案内役を頼めそうな者が見つかったことで、また少し肩の荷が軽くなった気がした。

 俺は三本目のビールを注文し、しばしの休息を愉しんだ。

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