第28話 エピローグ
研究所を丸ごと破壊し、大眷属を始末した俺を、評議会は咎めようとはしなかった。
調印書を破りし者は、たとえ大眷属だとしても許されない。
評議会は己たちの沽券を守り切った。
そして俺が今こうしていられるのは、評議会のおかげだけではなく、俺を守ろうと尽力してくれた連中のおかげであると言えた。
如月と下月は事実を白日の下に晒し、あの十六夜マリは、組織ぐるみで自分も利用されていたことを、赤裸々に申告してくれた。
プライドの高いマリが、自分がたばかられていたことを認めたのには少し驚かされた。
犬館佐治来の目論見に関わっていたマリの父親は処刑されたが、マリはそのことで十六夜家の当主になれたことを歓迎しているようだった。
血は繋がっていても、絆は無かったということだろう。親は娘を利用してのし上ろうとし、娘は親の失脚を歓迎した。
やはりこれからも眷属という生き物に、俺は共感することは出来ないだろう。
あれから俺は、一度だけ利夫の元を訪れた。
利夫は俺が掻き回していった雑事を、全て片付けてくれていた。
乗り捨てたバイクを回収し、フロントグラスの無くなったオンボロのバンを修理して、中古車屋のおやじに返却してくれていた。
そして凄惨な殺し合いがあったあの聖域を綺麗にして、花を添えてくれていた。
「巫女様が帰ってきなさった時のために、綺麗にしとかないと」
「ああ、あの子もきっと喜ぶよ」
俺はその夜、利夫の家で鹿鍋をご馳走になり、大いに酒を飲んだ。
利夫は濁酒の入った湯呑を片手に、俺に伝承の続きを教えてくれた。
それはこんな話だった。
巫女は子を宿すと、その赤子に魂を宿すための準備期間に入る。
胎内の子が次の器として準備が整うまで、蛇精の力は器である巫女の体から離れるのだという。
その時に巫女が命を落とした場合、代々受け継がれてきた巫女の魂は天へと帰り、蛇神の力はもともとの神の元へと返還される。
そして巫女を加護する役目を終えた神は、ようやくこの世を去ることができるのだそうだ。
その話を聞いて、すべての謎が解けた。
それが蛇神のお告げの意味だったのだろう。
利夫がまだ大いびきをかいている早朝に、俺は家を出た。
祠の裏の岩壁を開き、陽巳香の住んでいた家へと向かった。
神域には白い霞が立ち込めていた。
俺は玄関の戸を開けて、靴を揃えて、陽巳香と最後に過ごした部屋に入った。
そこには対局途中の将棋盤があり、俺はそこに腰を下ろした。
盤面に目を落とし、しばらく考え込んだ俺は、ハアとひとつため息をついた。
「やっぱり君には敵わないよ。俺の負けだ」
きっと気のせいだろう。
頭を下げた俺の向かいで、誰かがクスリと笑った気がした。
「さようなら、陽巳香」
将棋盤をそのままに、席を立った俺はお別れを言った。
玄関の戸を閉めて外に出ると、朝の光が木立の間を縫うように静寂の大地に射し込んでいた。
そこには以前感じた神々しさはなく、ただ静謐な自然の空気感だけがあった。
きっと巫女の死によって、ここにいた神も解放されたのだろう。
もしかすると、巫女が残した預言の結末を、俺は見届ける役割だったのかも知れない。
そして、彼女が息をしていたこの場所で、俺は霞の残る朝の空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
正直言って、またこうして会社に戻ってくるとは思いもしなかった。
人間というのはどうしてこう、毎日会社と自分の住処を往復し、同じことを飽きもせず繰り返しているのだろう。
ワイパーも動かす必要のない程度の小雨の中、俺は相変わらず蜘蛛の巣でベタベタの三号車に乗って、取引先を周っていた。
そしてちょっと緊張している。
それは助手席に三島聡子が乗っているからだった。
しばらく落ち込んでいた俺を聡子はそっとしておいてくれた。
何があったのか、全てを知っているわけではない彼女だが、俺の痛みを察してくれて、静かに見守ってくれていたのだった。
車のハンドルを握りながら俺は思う。
何に代えても守りたい存在がまだここにあった。
命を、そして魂さえも、俺は彼女に救ってもらった。
聡子を失ったとしたら、きっと俺はもう生きていけないだろう。
彼女こそが俺の生きる理由そのものだ。そう言ったとしても過言ではなかった。
そんな聡子の横顔をチラチラ見ていると、視線に気付いた彼女がニッコリと微笑んでくれた。
俺は少し喉の渇きを覚えて、自動販売機のある路肩に車を寄せた。
「えっと、三島君は何がいい?」
俺が尋ねると、聡子も車から降りて、体を伸ばした。
俺は苦い缶コーヒーを、聡子は砂糖とミルクがたっぷり入った缶コーヒーを選んだ。
車のボディに背を預けてコーヒーを飲む俺の隣で、聡子は唐突にこう言った。
「私、嬉しかったんです」
俺は隣でそう言った聡子の横顔に目をむけて、その意味を模索した。
「病室のベッドで、うわ言のように、あなたは私の名前を何度も呼んでくれた……」
「おれが……?」
確かに俺は、あの暗い闇の中で、聡子のことを思い浮かべた。
俺がうわ言のように呟いたのは、果たして名前だけだったのだろうか。
聡子の横顔は薄っすらとピンク色に染まっていた。
「雨、止みそうですね」
「ああ、そうだね」
ずっと先の遠い空に、雲を割って青い空が僅かに見える。
射し込む光の帯のその先に架かる虹を見て、聡子は「きれい」とひと言呟いた。
ご読了頂きありがとうございました。
「狼はそこにいる」の続編となる本作、「狼はそこにいる 蛇精の巫女」は現代の狼男、大上琉偉が、眷族たちの思惑に翻弄されながら逃れられない運命と向き合う物語となりました。
この物語の中で大上琉偉は、三島聡子を生涯をかけて愛することを決意しました。
そして巡り会った孤独な少女の運命を変えようと必死で抗った琉偉は、この世界が痛みと悲しみに満ちていることを痛感します。
そして闘いが終わり、琉偉は決して癒えることの無い深い傷を心のどこかに負ってしまうのです。
人として、狼として、これから大上琉偉はどう生きていくのか。
彼が辿ろうとしているその道の先を、またいつか描きたいと思います。
それではまた。感謝を込めて。
ひなたひより