第2話 深夜の訪問者
恋は盲目。そんな言葉がある。
俺は聡子にその言葉を当てはめて、恋という病にかかった彼女が、ひと時の激情で傷を負ってしまわぬように、ずっと清い関係を貫こうと思っていた。
それは、とにもかくにも、狼人間に関わるとろくなことにしかならないからだ。
器量も性格も頭もいい聡子になら、自分から申し込まなくとも、いくらでも条件のいい男が申し込みに来るだろう。
なんでわざわざ、こんな瘦せっぽちの、半端な狼男を彼女は選んだのだろう。
君には幸せな結婚をして欲しい。ずっとそう思っていた。
だがしかし……。
今ここで、お互いの心臓の鼓動を感じられる距離で聡子を抱きしめて、ようやく俺は自分が間違っていたことを知ったのだった。
そうか、君を自分のものにしたいと思っていたのは俺の方だったんだ。
齢三十五にして盲目になっていたのは、他でもない俺自身だった。
「やっとわかったよ……」
今度は俺の方から聡子の唇を求めた。
聡子は濡れたような瞳を閉じて、俺の首に腕を回す。
そして俺は、静かに覚悟を決めた。
ゆっくりと柔らかな唇を味わったあと、俺はそのことを伝えようとした。
「君は……後悔するかも知れない。でも俺は、君のことを……」
その時だった。
ピンポーン。
深夜零時頃に鳴った誰かの来訪を告げるチャイムは、俺の耳にいかにも間抜けに聴こえた。
何とかお互いの表情が読み取れるくらいの薄暗さの中で、俺と聡子はお互いに顔を見合わせて、苦笑いを浮かべた。
「こんな時間に、一体誰なんだ……」
こんな時間にいきなり押しかけてくる奴は、あの腐れ縁の旧友くらいだ。
すました如月の顔を俺は思い浮かべながら、深夜の珍客を確認すべく、モニター越しに覗いてみた。
しかしそこには、俺の全く予期していなかった相手が映っていた。
申し訳程度の小さなモニターに映っていたのは、女だった。
このマンションは一階のロビーで部屋番号を押して、そこから部屋の者がロビーの扉を解錠する仕組みだ。
夜間でもそこそこ明るいマンションロビーのお陰で、訪ねて来た女の顔を、俺ははっきりと認識することができた。
肩まである赤毛、気位の高そうな口元に切れ上がった大きな目。
どうしてこのタイミングで……。
見間違おうこともない、俺の別れた元妻だった。
きっと俺の顔は青ざめていただろう。
別れてから一度も会っていなかった元妻の登場にうろたえたあとに、今ここに聡子がいて、この後一体何が起こるのか、さらに不安になった。
残っていた酔いも一気にさめてしまい、目下のこの状況を、どうしのごうか頭をフル回転させる。
七年間も会っていなかった彼女が、この時間に現れたということは、恐らく緊急を要する要件があるに違いない。
しかし、ここであいつと聡子が鉢合わせになるってどうなんだ? もしかして修羅場とか?
いやいや、彼女とはキッチリ別れているわけだし、何にもやましいことはない。
しかし、そうはいっても、ここに元妻が訪ねて来たと知ったら、聡子はどう思うのだろうか。
俺が一生懸命悩んでいる間に、呼び鈴はしつこいくらい何度も鳴らされ続けている。
さすがに不審に思ったのか、聡子が体にシーツを巻き付けてモニターを覗きに来た。
「どうしたんですか?」
大慌てで隠そうとしたが遅かった。
新月の時の俺は、普通のおじさんの反射速度なのだ。
モニターを見た瞬間に聡子の顔色が変わった。
ムスッと膨れたかと思うと、目に涙を浮かべた。
完全に何か勘違いしているようだ。
「いや、違うんだ。説明するよ」
「私、帰ります」
「ちょ、ちょっと待って」
頭は真っ白だが、とにかく引き止めないと。
ポロポロ涙を流しながら、俺の手を振り払おうとする聡子と、モニター越しにイライラした態度で呼び鈴を押し続ける赤毛の女。
そして素っ裸のまま、うろたえきっている今はただのおじさん。
そうしている間にも、呼び鈴は鳴り続けている。
一体何なんだ……。
そう。このとき俺は気付いていなかった。
時折この世界には予測できないことが起こる。
ただ機嫌よく歩いているだけなのに、鳩が頭の上にフンを落としてくるみたいに、それはなんの前触れも、予感さえも感じさせずに突然起こる。
そして、この予想だにしなかった深夜零時のベルの音。
それは遠く高い空から何者かが落とした災厄が、俺に向かって落ちてくるはじまりのベルだった。
もう日が変わった時刻に現れたのは、十六夜マリ。本当の名はマリアンヌだが、この赤毛の女はそう呼ばれるのを毛嫌いしていた。
古代ギリシャの狼人間の血を受け継ぐマリは、純日本製の俺と違って、いかにも眷族という気品と風格があった。
とはいっても、中身はとんでもない跳ねっ返りなのだが。
聡子に事情を話して、何とか引き止めたあと、俺は招かざる深夜の訪問者を部屋に入れたのだった。
そしてリビングにしつらえたテーブルを挟んで、俺と聡子は気位の高そうな狼女と向き合っていた。
「いったい何の用だ」
「なによ。用がなかったら来ちゃ悪いわけ?」
昔と同じ、相変わらずの切り口に、俺は閉口するも、その変わらなさが彼女の特徴であることを思い出した。
眷族のプライドを必要以上に身にまとった、この七年前に別れた俺より五つ歳上の元妻は、今も変わらず二十代半ばくらいの若々しさを保っていた。
「琉偉、あなたしばらく見ない間に老けたわね」
「ああ、おたくは何にも変わらないな」
人間の肉を普段から喰らうことで、眷族たちはその若さを維持している。
人間の肉を食わない俺は、マリが言ったとおり、普通の人間と同じく歳をとっていた。
俺は人肉を主食にする眷族を軽蔑していたが、眷族からすると人間を食わない俺は、いわゆる変人らしい。
「何か用事があるから、こんな時間に訪ねてきたんだろ」
「まあそう言うこと。でも少しは琉偉の顔を見たかったのもあるわ」
「嘘つけ」
髪の毛の色と同じように、マリは不思議な紅い目をしていた。
その目をじっと見ていると、心の中まで覗き込まれてしまいそうで、俺はスッと視線を逸らした。
なかなか本題を切り出さないまま、マリは聡子に目を向けて、口元をわずかに吊り上げた。
「そこの女のことは噂には聞いているわ。確か……」
「三島聡子です」
聡子は嘲笑交じりのマリの言葉を、撥ね返すかのように名乗った。
「調印書で守られた人間の女。噂には聞いていたけど美味しそうね。手を出せないのが残念だわ」
「冗談のつもりか」
俺の声色に、本能的に危険を察したのだろう。マリは一瞬ビクリとなった。俺の本気を感じとって、ようやくマリは悟ったようだ。
「琉偉、私はあなたと争いに来たんじゃない。むしろその逆なの」
「分かった。聞こう。簡潔に頼む」
マリはさっき俺が出した湯気の立つ湯飲みに口をつけてから、静かに話しだした。
「私は今、眷族の監視対象にされているの。わざわざ新月の夜に来たのは、力を使えない私を侮ってあいつらが監視の手を緩めたから。監視が手薄になった隙をついて私は家を抜け出してきたの」
「新月の夜を選んだ理由はわかったけど、いったい何故監視の対象にされたんだ?」
「それがさ、酷い話なのよ」
そして十六夜マリは、ここに現れた理由を赤裸々に語った。
つまりはこういうことだった。
俺と別れたあと、七年間独身だった彼女に、次の相手が見つかった。
通常、純血の眷族は親同士が家柄やその相手の力など総合的に判断して、家同士で契約を結ぶ。
本人同士の好き嫌いよりも、優秀な子孫を残すことを第一に考えるのが眷族のやり方だ。
そうして今回、マリの相手に選ばれた相手というのが問題だった。
相手の名は、白川竜平。全く無名の眷族だった。
家柄を重視する十六夜家が、なにを血迷ったのかというくらいの婚姻契約内容を聞かされ、マリはその理由を問いただしたのだが、父親は何も話さなかったらしい。
そしてマリは、自分の信頼できる者たちにその内情を調べさせた。
はっきりと分かったことは二つだけ。
眷族のデータベースにはそのような名前の男は存在しないということ。
それと、その男が今失踪中であるということ。
嗅ぎまわっていることを気付かれたマリは、これ以上詮索することのないよう親から監視をつけられた。
手下の調査員も動きを封じられ、かなり悩んだあげく俺の所に来たのだという。
「どうして俺なんだ? 一介のサラリーマンだぜ」
「なに言ってるのよ。人間のフリするの、いい加減やめたら?」
明らかに侮蔑を含んでいるもの言いを俺は聞き流した。そういった感じで扱われるのには慣れている。
「俺を頼った理由は何だ?」
「簡単なことよ」
マリはピンと来ていない俺をあざ笑うかのように、声色に皮肉を込めた。
「琉偉、あなた調印書を持っているわね」
「ああ。それがどうかしたか?」
「調印書はいわば、通行手形。あなたの行動に眷族は干渉してはならないというお墨付きよ。つまり、あなたなら誰にも邪魔されずに私の相手の素性を探れる」
「そういうことか……」
「私はあなたを信頼しているわ。昔のあなたはどんな困難にも立ち向かっていく勇敢な人だった。私たちはもう終わってしまったけれど、あの時のあなたは本当に素敵だった」
不意に男を見る目つきをしたマリに、聡子はあからさまな対抗心を顔に出した。
ヤキモチを焼いてる? あまりそういった経験のない俺は、女心のなんとやらを少し想像してみた。
「なあ、マリ。君の言いたいことは分かったけど、俺には君の申し出を受けなければならない義理も責任もない。それに俺はもう危険なことに首を突っ込むのはやめたんだ」
「牙は抜け落ちた。あなたはそう言いたいのね」
「ああ、どう思ってもらっても構わない」
この女が、さめざめと泣いて俺の脚に縋りついて来たとしても、今の俺にはもう厄介ごとを抱え込む気など毛頭無かった。
眷族のお家事情に巻き込まれて、得るものなど何もない。
それに、この案件は嫌な臭いがした。新月時の狼男に超感覚は期待できないが、いま聞いた話から、かすかな血の匂いを俺は嗅ぎ取っていた。
この件に手を出してはいけないと、本能的な何かが、俺の頭の中のどこかで警鐘を鳴らしていた。
「話は終わった。お引き取り願おうか」
俺の言葉に、マリは静かなため息を一つついた。
「昔のあなたなら、私が助けを求めればその手を差し伸べていたはずよ」
「さっき言ったはずだ。俺はもう厄介ごとには首を突っ込まない」
食い下がるマリに、俺は少し苛立ちを見せて席を立とうとした。
「まだ話は終わってないわ」
俺の目を真っすぐに見たまま、マリはそう言った。
「ここまでは私に関しての話。ここからはあなたとそこの女に関することよ」
「なにを言ってるんだ……」
「あなたは私の話を断れない。少し無駄話をし過ぎたようね」
紅い虹彩が特徴的なマリの瞳が、爛々と光ったように見えた。
吸い込まれそうなほどのその瞳に、俺は一瞬魅了された。
そしてマリは静かに口を開いた。
「白蛇の怪物。あの廃坑であなたが倒した化け物は他にもいる。そう言えば分かってもらえるかしら」
マリの口から出たその言葉は、俺の背筋を凍り付かせた。