第13話 ホヤウカムイ
少女の首が折れた音を、その場にいた者は呆然と聞いていた。
「そんな……」
利夫が打ちひしがれたような声を上げた。
だらりと動かなくなった少女に俺は駆け寄って、下月の手を振り解いた。
下月は動かなくなった少女の亡骸を目にして、精神に失調をきたしたかのように呆然としていた。
「殺してやる!」
利夫はそう叫んで、猟銃を男の頭に押し当てた。
そして躊躇いもなく、引き金は引かれた。
轟音はしなかった。
弾を込めたはずの猟銃は、指の動きに反応せず沈黙したままだった。
「クソ! おめえのを貸せ!」
利夫は仲間の猟銃をもぎ取ると、また男の頭に押し当てて引き金を引いた。
しかし、また同じように銃は火を噴くことは無かった。
「なんでだ……こんなことがあるわけが……」
俺はぐったりした陽巳香の体を支えながら、その不思議な光景に一つの解答を見いだしていた。
「ホヤウカムイの力が働いている。きっとそうだ」
俺は超自然的な力が作用していることを確信していた。
信じられないことだが、俺は腕の中で息絶えているはずの少女の心臓が、再び動きだしているのを感じていた。
少女の首がおかしな音を立てて、真っすぐに戻っていく。
やがて蛇精の巫女は、その神秘的な紅い虹彩の目を再び開いたのだった。
不死身性を持つ自分たちでも、満月期以外は首の骨が折れたら回復はできない。
ホヤウカムイの力を与えられた少女が、どれだけの不死身性を持っているのかは分からないが、現時点の自分と比較すれば、その再生力は圧倒的だった。満月を頭上に頂いた時の狼人間と同等と言えるのではないだろうか。
俺の腕の中で目覚めた少女は、ゆっくりと身を起こすと、そのまま立ち上がった。そして深く息を吸い、長く吐いた。
「はあーーーー」
少女の瞳の紅い虹彩が爛々と輝きを増す。身にまとうその空気が変化したことを、俺は肌で感じていた。
目の前で息を吹き返した巫女は、少女の姿のまま、完全に何者かへと変貌を遂げていた。
先ほどまでのあどけなさが消失し、代わりにその場に相応しくないほどの落ち着きが少女に宿った。
その意味を悟った利夫たちは、すぐにその場で跪いた。
依り代である巫女に、ホヤウカムイが降臨した。
俺は紛れもない神聖な存在の気配を目の当たりにして、息をすることすらも忘れていた。
そして真紅に輝く瞳を向けられた瞬間に、俺の体は金縛りにあったかのように指一本動かせなくなってしまった。
ゆっくりと巫女は、その小さな唇を開いた。
「遠方から来たり、気高き星の加護を受けし神の御使いよ」
耳から聴こえてくるはずの声は、まるで直接入って来くるかのように頭の中で反響した。
「そなたを歓迎するぞ。しばしこの神域で体を休めていくがよい」
唇すら動かせない俺の心を読み取ったかのように、巫女はまた小さく唇を動かした。
「そなたはここに来る運命であった。この地に平穏をもたらすべく、われの呼びかけに応えた精霊の子孫よ。そなたの守護星が次に輝くとき、われは解放され、この地を去るだろう」
そして、金縛りの呪縛に抗い続けていた俺の唇がようやく動き出した。
「あなたのおっしゃる運命とはいったい……」
「それはそなたの星が導くでしょう。今は傷を癒すがよい」
突然呪縛が解けた。石造のように身じろぎすらできなかった体が、生身に戻ったのだ。
他人に預けていた肉体の制御が、やっと俺の元へと戻ってきた。そんな感覚だった。
立ち尽くしていた少女は、目をぱちくりさせて、ちょっと恥ずかし気に笑った。どうやら憑き物は去って行ったようだ。
利夫たちは跪いたまま顔を上げて、歓喜の声を上げた。
「おおお、生きていなさった」
「蛇神様の奇跡だ」
髭連中が口々に喜び合う中、下月京弥は目の前で起こった不可思議な現実に言葉を失っていた。
「確かに死んだはずだ……それにあれはいったい……」
眷族でない普通の少女が復活したこと、そして頭を吹き飛ばそうとした銃が二度も沈黙していたこと、そして俺と同じく、目の前で神が降臨したことを目撃し、この男の冷静さは消し飛んでしまっていた。
恐らく蛇精の巫女を拉致するよう指示をした顔を見せない眷族は、この男に大した情報を伝えていなかったに違いない。
まあ、予備知識があったとしても、冷静でいられるとは到底思えないが……。
「その様子だと、なにも聞かされていなかったみたいだな」
「ああ、大上琉偉の行き先を探って、そこにいる怪物の女を連れ帰れと……しかしあれはいったい何なんだ。お前は知っていたのか?」
「いいや、俺はおたく以上に何も知らずにここへ来た」
憑き物が落ちた少女は、さっきお茶を飲んでいた時のように穏やかだ。
「理屈ではない話さ。彼女は俺たちを凌駕する存在だ」
「伝承は聞いていたが、まさか本物と遭遇するとは……」
下月はその目に敬畏を滲ませて、少女に深々と頭を下げた。
「非礼をお詫びいたします。このとおりです」
うやうやしく頭を下げたままの男に、少女は謙遜したように口を開いた。
「わたくしに頭を下げることはありません。すべては蛇神様のされたことでございます」
神聖な雰囲気を身にまとってはいるものの、少女はさっきとは別人のように年頃の娘に戻っていた。
小動物のように可愛くて、守ってあげたくなるような娘に、これが自分の娘なら溺愛してしまうだろうなと想像してしまった。
娘に跪いたままの利夫たちは、下月に殺意をぎらつかせた怒りの目を向けていた。巫女を手にかけた張本人が、図々しく話しかけているのに我慢ならないのだろう。
その感情を察してか、陽巳香は利夫たちに近づくと、顔を上げて下さいと促した。
「あなたたちは良くやってくれました。守護者の責務を全うしてくれたあなた方に感謝いたします。いかがでしょう、このようにわたくしは復活できましたので、この者に慈悲を与えてやってくださいませんか」
「はい。巫女様の仰せのままに……」
信仰心の厚いこの神官たちは、神の御使いの巫女に口を挟めないのだろう。
放っておけば、本来なら頭を二度吹っ飛ばされているはずの男に、利夫は躊躇いなく三度目をぶち込もうとするはずだ。
命拾いしたのがどちらかは分からないが、これ以上いらぬ血が流されることは回避できたようだ。
「願いを聞き入れてもらえて感謝いたします。ではお行きなさい。あなたはもう自由ですよ」
下月はあっさりと解放されたのに拍子抜けした感じだ。背を向けようとした男は、去り際に利夫の手元にある猟銃に目を向けた。
そして見送る様に眼差しを向ける少女に向かって、素直に尋ねた。
「あれを不発にしたのも、あなたの仕業なのか?」
「わたくしの力ではありませんよ」
はっきりと言い切った少女の言葉に、下月は不思議そうな顔をした。
少女はさも当然のようにその後の言葉を続けた。
「わたくしを通して蛇神様が力を貸して下さっただけです。つまりわたくしの体を神様の力が通って行ったに過ぎないのです」
「……」
「蛇精の巫女であるわたくしには何の力もありません。ただ蛇神様の力をしかるべき時と場所で発現させ、そのお言葉を伝えるだけなのです」
「そうですか。だが、あなたにお礼を言っておきます。ありがとうございました」
やさぐれていた男の劇的な変化に、俺は舌を巻いてしまった。
しかし、感心してばかりではなく、俺はこの男から肝心なことを聞いておかなければならなかった。
「いったいあんたは誰の指示で、俺の行動を監視していたんだ?」
「それは言えない。というか知らないんだ。連絡は全て使いの者が間に入っていたからな。俺はただ、報酬につられて引き受けただけさ。だが、恐らく眷族の有力者が陰にいるんだろう」
「そうか。で、あんたら以外に彼女をつけ狙っている別動隊はいるのか?」
「いや、俺たちだけのはずだ。正規の眷族たちの調査隊は、満月期に一斉に狩りを行うみたいだ。俺たちはあいつらより先んじて動くように命令されてここに来たんだ」
「そうか。なら、しばらくは襲撃される可能性は無さそうだな」
「俺は連絡を入れずに、このまま姿をくらますつもりだ。そうすれば時間を稼げるだろ」
「ああ、助かる。俺はここに残って、策を練ることにするよ」
そこで話を終えて、下月はもう一度、蛇精の巫女に深く頭を下げた。
最後に彼女は、立ち去ろうとする男に微笑みかけた。
「思うがままに生きて下さい。お約束した通りに」
「はい。約束は守ります」
古代の神と対面した男は、そう言い残して去って行った。