第1話 狼の寝床
狼人間が人間の女と肉体関係になるのは珍しいことではない。
性の快感をひと時共有して自然と離れて行くというのは、外見が似通っている以上、種を越えた関係でも普通に起こりうるものなのだ。
しかし俺とこの娘の関係は、そんな生易しいものでは無かった。
三島聡子。我が磯島文具の文具企画担当課きっての優秀な女性社員。
この娘は、昔俺が命を助けたときに、どういうわけかこの貧相で取り立てて美男子でもない俺に、一目惚れしたらしい。
一体俺のどこが良かったのだろう。
彼女が目にした初対面の俺は、頭蓋骨が砕けた状態で、血しぶきをそこいらに跳び散らした状態で死んでいたのだ。
死んだ男が目の前で生き返ったのを目にして、恐怖におののかずカッコいいと思う神経というのはどうなんだろうか。
とにかく彼女が言うには、俺に心を盗まれて、どうしても忘れられずに探し続けていたらしい。
初恋の相手が相手なら、それを執拗に想い続けたこの娘もそうとうなタマだった。
それだけではなく彼女は次に俺に再会した時のために、あの時俺が口にしたアドバイスを忠実に守り抜いた。
そして有名私大を首席で卒業するほどの才女になった。
おまけに俺を想い続けていた聡子は、あまたの誘いを断り、操を守り切った。処女を捧げるのは俺だとずいぶん前から決めていたらしい。
そして今、俺のベッドには初めての男を迎えようとしている三島聡子がいる。
シーツを一枚剥がせば、生まれたままの姿で彼女は横たわっているのだ。
そして言うまでもなく、俺も腰にバスタオルを巻いただけで、他には何も身に着けていなかった。
とうとうこの時が来てしまった。
照明が殆ど落とされた部屋で、わずかに視認できるシーツ越しの淫靡な体のラインに、余計になまめかしさを覚えつつ、俺ははっきりと音がするくらいに生唾を飲み込んだ。
こうなってしまった経緯を話しておこう。
それは数時間前に遡る。
まだ寒さの残る三月の夜。
毎年恒例である会社の花見に出席した俺は、今日に限ってそこそこのペースで酒を飲んでしまった。いや、飲まされてしまったといった方が適切だろうか。
我が文具企画担当課の面子は、俺と課長を除くと六名。
なかなか仕事熱心な連中が多い職場だ。
ブルーシートに円形になって座るこの連中は、各々話したい相手と酒を飲みつつ盛り上がっている。
俺は社会人として、課の連中から孤立した課長と嫌々話をしているわけだが、はっきり言ってこういった気遣いも、こういった席も出来れば避けて通りたいと思っていた。
ここでざっと自己紹介しておこう。
俺の名は大上琉偉。
自由気ままに生きることを夢見るも、人間社会のしがらみに絡めとられて、微妙な係長という役職に落ち着きつつ、日々ストレスを貯めているしがない中年男だ。
歳は三十五。バツイチ子供なし。
身長は170センチちょいで、吹けば飛ぶようなひょろりとした痩せ型。
清潔感とは縁のない癖のある髪の毛と、たまにしか剃らない無精ひげ。
顔は二枚目ではない自信がある。それでも人によってはちょっとは野性的だと表現してくれたり、あと笑ったときに愛嬌があると言ってもらえることもある。
まあ外見は置いといて、実は俺は狼男だ。
狼男といっても夜の世界を徘徊し人間を襲う獣人といった、かび臭い骨董品ではない。
人間社会に馴染み、細々とファーストフード店のハンバーガーを齧る、人畜無害の現代版狼人間だ。
そして俺は身持ちは堅い方だ。
いったい誰が言い出したのか知らないが、世の中には助平な奴を指して狼みたいな男と蔑む奴がいる。まったく、こっちはいい迷惑だ。
確かに狼人間の中にも助平な奴はいるだろうが、その点に関しては人間の方が間違いなくエグイと思うぞ。
おおよそ俺たち狼人間は、あまり無駄な性交渉をしない。
勿論性欲はそれなりにあるのだが、子孫を残すという本能的なものに傾いている我々は、遊びで不特定多数の女を抱いて回ることを好まない。
その代わり、本物のパートナーと巡り会ったときは、その相手に愛と忠誠を誓う。
そして今まさに、目の前に俺が毛嫌いするエセ狼男が、我が課の優秀な女子社員、三島聡子に絡んでいる最中だ。
エセ狼男の名は君島大地。ちょっとチャラカッコいい、我が課の要領のいい主任だ。
「三島ちゃん。このあとどう? 近くで少し、甘いものでも食べて帰らない?」
「ええと、私、明日はちょっと朝早くから予定があって……」
「そんなに遅くならないからさ。たまには付き合ってよ」
酒の席をいいことに、下心を垂れ流しながら聡子にアプローチしているのを目の当たりにし、ちょっとモヤモヤした気分になってしまった。
聡子はチラチラと、俺に視線を送って助けを求めている。
狼人間の俺が、種の違う人間の女にヤキモチを焼くのはおかしい。
しかし我が課の風紀が乱れるのを見過ごすわけにはいかない。したがってここはきっちり正しておかないといけないわけだ。
「三島くーん、課長がお酌をご希望だよ」
「はーい。ただいま」
俺が余計な一声を掛けたせいで、君島は分かり易いくらい残念がった。
フフフ。君島よ、そうはいかないのだよ。
課長は飲み過ぎて、そろそろ寝かかっていたが、それが丁度良かった。
聡子は日本酒の瓶を手に、そのまま俺の隣に座った。
「すみません。助かりました」
頬をほんのりと紅く染めた聡子に、普段とは違う色香を感じ、少しドキドキした。
そして聡子は俺の空いた紙コップを見て、スッと日本酒を勧めてきた。
「おひとつどうですか?」
「あ、そうだね。じゃあ、いただきます」
勧められて少し頂くことにした。聡子は手慣れた感じでお酌をする。
「三島君もどうかな」
「はい。いただきます」
パッと笑顔を咲かせてた聡子に、なんだかこの場の雰囲気が途端に明るくなった気がした。
うーん。やはりこうゆう席でも愛想がいい。お客さんが三島君を指名して、寄こしてくれと言ってくるのも俺には良く分かるぞ。
そして並んで紙コップ片手に乾杯をした。
「三島君は飲める口かい?」
「少しだけです。係長は……お強いですよね」
「ああ、まあ、強い日もあったりするかな……」
俺の不死身性を知っている聡子は、ちょっと言葉を選びながらまたお酌をしてくれた。
そして知らない間に酒が進んでいた。きっと聡子が隣にいたことで、心地良さを覚えてしまったせいだろう。
普通ならこういった花見の席で、酔うことなど無い俺なのだが、今夜に限ってはまるでだらしなかった。
お分かりかも知れないが、俺の体内の生理は、地球を周る小さな衛星に支配されている。そして今宵、薄紅色の桜の間から見える澄んだ夜空には月がなかった。
新月の夜だ。現在俺の中の狼は休業中で、この日ばかりはそこいらにいる、ただのおじさんとまるで変わらない。
したがって、満月の夜ならば青酸カリを一升瓶で飲んだとしても死なない俺が、そこそこのビールと聡子に注いでもらう日本酒で、結構いい気分になってしまっていた。
それにしても、隣に座った彼女が陽気になった俺に、どんどんお酌をしてくれたのもいけなかった。
恥ずかしながら、聡子を送ってやろうと思っていた俺が千鳥足になってしまい、逆に肩を貸してもらって、部屋へと連れて行ってもらったという体たらくだ。
だらしない上司の典型的な見本といったところだ。
聡子は酔いつぶれた俺を、手厚く介抱してくれた。
玄関のカギを開けて、ソファまで肩を貸してくれてから、首を絞めるネクタイを緩め、コップに水を入れて飲ませてくれた。
ようやく酔いが覚めてきだした頭の中で、我ながら情けない醜態を見せてしまったと、少しはまともに思考できるようになりはじめたとき、聡子が俺の隣に腰かけた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、ハハハ、ごめんね。なんか迷惑かけちゃって」
俺はテーブルに置いてくれていたコップの水を飲み干して、自分でも酒臭い息を吐いた。
「ごめんね。三島君を送ってあげたかったのに、俺の方が送ってもらっちゃって」
「いいんですよ。係長のこんな姿、滅多に見れないお宝ですから」
「いや、ホントごめんね。つい調子に乗って飲みすぎちゃって、お恥ずかしい」
彼女も酔いが醒めていないのだろうか、聡子は俺の隣で頬を紅くしたまま微笑んでいる。
「もっと情けない姿、見せてください……」
いやに三島君の顔が近いな……。
ぼんやりとした頭でそう思ったときに、柔らかいものが唇に触れた。
温かくて柔らかい。聡子の唇は熟れた果実のように甘美な感触だった。
俺はその柔らかさに魅了され、彼女の抱擁に身を任せてしまっていた。
ゆっくりと唇が離れたあと、聡子は濡れた様な瞳を向けて囁いた。
「私のこと、嫌いですか……」
熱い吐息と共に囁かれて、俺の脳髄はアルコールのせいもあって一気に過熱した。
「嫌いなわけ、ないよ……」
「うれしい……」
聡子は再び俺の体に腕を回してきた。
官能的な彼女の匂いに、俺の体は痺れたようになってしまい、熱い抱擁に身を任せる以外何もできなかった。
そして俺の耳元で、小さく恥ずかしげな声で囁いてきた。
「今日は、帰りたくない……」
そのひと言で、かつて鋼の自制心を自負していた孤高の狼男は死んだ。
残念なことに、今や俺は君島の野郎とさほど変わらないエッチな狼男に成り下がってしまっていた。
そしてトントン拍子に、聡子は今シャワーを浴びている。
俺はシャワーの水音をソファで聞きながら、ぼんやりとした頭で色んなことを考えていた。
手酌で飲んでた時は大丈夫だったけど、三島君に乗せられて飲み過ぎちまった。やっぱり新月の夜は、アルコールの分解が人間並みだな……。
そうだ。確か三島君が今日の花見の日取りを決めてたよな……。
狼男が唯一酒に抗えない日にこうなったんだよな。偶然なのかそれとも……。
混沌とした意識の中で、俺の中の全くだらしないスケベ狼と、良識のあるキリリとした狼が、葛藤していた。
俺の中のだらしない、君島みたいな助平狼はこう囁く。
彼女だってもう立派な大人だ。ちゃんとそういったことを分かって、この部屋までやって来たわけだ。ここまで来て思い出一つ残してやれないとは、とんだ腰抜けだな。男なら黙って抱いてやるのが普通じゃないのか。
そして良識ある健全な狼はこう反論する。
いやいやいや、この子はそんじょそこらの軽いOLじゃない。
一度関係を持ってしまえば、彼女は俺に一生愛を捧げるに違いない。
俺がただのおっさんならまだいい。バツイチで、しかもハーフとはいえ狼人間だぞ。
幸せな結婚をして、子供を産んで、平凡な人生を送れるはずの彼女を、通りがかりの痩せ狼が手を付けるってあり得ないだろ。彼女の人生を破綻させるつもりか。
そりゃ俺だって三島君のことは、可愛いし気が付くし気に入ってる。それは認めよう。
しかし、だからこそ、この一線に踏み込んではいけないのではないか……。
良識ある優等生の俺が挽回し始めた時だった。
シャワーの水音が止んで、バスタオルを巻いただけの彼女が、バスルームから出て来た。
体のラインから目が離せない。実は俺はその中身を一度目にしている。
着痩せするタイプみたいだが、思わず見とれてしまった経緯があった。
「あの、シャワーどうぞ……」
「あ、はい。行ってきます……」
行ってきますじゃねーよ!
自己嫌悪を感じつつ、言われるがままシャワーを浴びた。
そしてしっかりと、俺の体は三島君とのこれからに期待し、反応していた。
俺はシャワーを浴びながら、つくづく自分の駄目さ加減を思い知ったのだった。
そうして今俺は、三島聡子の横たわるベッドに潜り込もうとしていた。
シーツをめくると、聡子の白い肌があらわになった。
その肢体の美しさに、俺の脳髄は焼かれてしまった。
薄暗い部屋で、聡子は俺を熱い眼差しで見つめていた。
「三島君、俺は……」
「聡子って、呼んでください……」
腕を回してきた聡子に、俺はなす術もなく身を任せる。
熱い抱擁をされると、弾力のある白い乳房が、俺の胸で形を変えた。
俺はまだ酔っているのだろうか。
柔らかな唇と聡子の体温を感じながら、俺の心はフワフワとした感覚に包まれていた。