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旅路  作者: 青雨
2/4

 Ⅱ


 

 空が赤い。

 ワー・・・

 ワー・・・

 遠くから近くから、色々な叫び声が聞こえてくる。それがひとつになって、唸り声のようになって重なる。ドーン、という大砲の音。地響き。

 ノワールだ。

 赤い死神だという声がして、人の波が割れていった。

 煙幕の向こうからゆらりと現れたのは、全身を返り血で真っ赤に染めた女の姿だった。

 誰かが斜め後ろから雄叫びを上げて襲い掛かる。

 ザシュッ・・・

 無残な音と共に、男は斬られた。あの女の背中には目があるのか。

 傭兵たちが散り散りに逃げていく。ブランシェットだ。死神とやりあったって、命がいくつあっても足りたもんじゃない。しかし死神は無慈悲だった。背中から斬っていく。後ろから襲っていく。たちまち屍の山が築かれていった。

 戦場は恐怖に包まれた。


 戦いが終わり、日も過ぎて、ブランシェットは未だ戦場跡にいた。金はある。自分は血に飢えているわけではない。ゆっくりするぐらい、いいではないかという理由だ。

「飲むか」

 砂漠を眺めていると、側に来て酒瓶を差し出す男がいた。傭兵仲間のオレストだ。低くなにか呟いて、ブランシェットはそれを受け取った。

「ご活躍だったな。味方も逃げ出す迫力だったぜ、ブランシェットよ」

「ふん」

 酒を一口飲んでブランシェットは鼻で笑う。

「三日経つか・・・きれいさっぱりだな」

 オレストは見渡してそう言った。場所はノルディ砂漠、世界最大の砂の地だ。不毛の地、死の地。

「そうだな。ここで殺しがあったとは思えん」

「砂にまみれて死体も隠れる、か・・・あの下には何百と埋まっているわけか」

 二人で酒瓶を回して酒を飲んだ。口数は、二人とも少ない。

 ブランシェットはちらりとオレストを見た。自分から話しかけてきたにしては、何も言わない。

 意図があって話しかけてきたわけではないのか? ふと思う。横顔を見ると、陽の反射を受けて灰色の瞳が光っている。傭兵は星の数ほどいる。大抵は味方だが、敵だったこともある。

「見ろよ。一面の砂だ」

 言われて目を馳せた。

 金色の砂丘が一面に広がっている。ここで殺戮が行われたとは思えない静けさだ。

 そうだな、とこたえた。それ以外の言葉が見つからない。ブランシェットはあまり、弁がたつほうではない。

「人間、死にたいと思ってる場所ではなかなか死ねないもんだ」

「なんだおまえ、死にたいのか」

「そうじゃあねえ」

 オレストは顔を歪めた。

「俺たちみたいな稼業をしてるとな、特にそう思うもんさ。ここで死ぬのかも、と思ったときにはなかなか死なないし、ここでは死にたくないと思ってもそうもいかないことなんてざらだ」

 まあな。ブランシェットはこたえた。

「俺はそういう思いを何でもしてきた。ここで死にたくないと血を吐きながら死んでいく連中を山ほど見てきた。だから、死ぬ場所ぐらいは自分で決めたいと思っているのさ」

「そりゃご大層な願い事だな」

「まったくだ。しかしこうやって傭兵をしてると、時々自分はどこに行くのかわからなくなったりするもんさ。お前はないだろうがな。俺は死ぬならここで死にたいと思っている」

 身体ごとオレストの方を向いた。こいつ、何を言っている。

「ここは過酷な土地だ。世界一厳しい場所だ。見ろよ、樹の一本生えちゃいねえ。でも俺はな、この金色の土地を見ていると世界一きれいな場所だと思うのさ。世界一厳しいからこそ、世界一美しい場所だってな」

「そんなもんか」

「あちこちで戦争していろんな場所を見てきたけどな。砂漠みたいにきれいな土地に俺は出会ったことがねえ。いつ来ても同じような風景だ。そけれでいて、一度して同じ場所であることがない」 

 それは確かにそうだった。

 砂丘はいつもでんと構えているが、風の一吹きで簡単に様相を変える。それでいて、砂漠はいつまでも砂漠のままなのだ。

「俺は死ぬならここで死にてえな。選べればの話」

 くっくっ、と自嘲的に笑った。自分で自分の死に場所を選べるほど大層な生活をしているわけではないことを自覚しているのだ。

「今回じゃなくてよかったな」

 ブランシェットは言った。的外れだったかもしれぬが、それ以外言葉が見つからなかった。そうだな、とオレストは言って、酒を飲み干した。



 ガタンガタン、という音がする。この独特の揺れは飛行艦だ。全身が痛い。血が出ているのが感覚でわかる。息が苦しい。

「緊急事態だぞ! このままでは飛行に耐えられない!」

「しかしなんとしてでも生きたまま連行せよとのラ=ヴォイ閣下の仰せだ」

「艦内での手術を敢行するしかないぞ」

「それでは死んでしまう・・・!」

「しかし選択がない!」

 ぐらぐらぐらぐらぐら、と圧力がかかった。身体が浮かぶのがわかる。ああ、機体が浮こうとしているのだ。ものすごい圧力。血が出ていくのがわかった。寒くなっていく--------。



 切った髪が肩のあたりでひらめいている。

 ここまで髪を短くしたのは初めてのブランシェットであった。感想はというと、長い時は一つに縛ってさえいればよかったものが、それすらできなくて不便だということだった。 しかし、この髪はいい隠れ蓑でもあった。自分の容姿を詳らかに書かれた手配書ぐらいは、まわっているだろう。長い黒髪はそれだけでも目立つ。短くしてしまえば、すれ違うだけでも相手の目をくらますことができるというものだ。

 それにしても解せなかった。

 自分は賞金首にかけられているようだ。

 ラ=ヴォイ。あの男に。しかし生け捕りとはまた物騒だ。

 一介の傭兵でしかないブランシェットは、色々なことをやってきた。しかし男たちが血眼になって自分を探すような真似をした覚えもない。理由は一体なんなのだ。

 それはそれとして、大陸二つをまたいで大分遠くまで逃げてきた。しばらくは大丈夫だろう。

 ブランシェットは砂漠のことを考えていた。オレストはああは言ったが、ブランシェット個人は、砂漠などという場所はまったくもって御免蒙りたい場所の最たるものであった。 乾いているし、すぐに砂が口に入るし、水は乏しい。もし死ぬ場所が選べるというのなら、ブランシェットは清水のある場所で死にたいものだと思っていた。持病と向かい合いながら暮らす今、彼女が死に様について考えることは当たり前といってよかった。死は、意外と近くにあるのだ。

 ブランシェットは清水を好んだ。海も嫌いではなかったが、なんといっても川の気持ち良さには何物にも代えがたい。豊かな流れ。冷たくて気持ちのいい水を浴びてそこで泳ぐと、殺伐とした日々から解放され自分が緑色になったような気持ちになったものだ。しかし今の環境では、なかなかそんな場所まで行くことすらままならない。いざ泳ぐとしても、肺病持ちの今ではなかなか難しいといっていいだろう。水と一体になる心地よさ。それに思いを馳せながら、ブランシェットは窓の外を見た。ひとまず今の宿は安全なようだった。 ほとんど表に出ることもなく、静養ばかりの毎日だが、体力は確実に回復している。今ではほとんど前と同じ生活ができるようになった。殺人を除いては。昔はひとっとびで階段の二階まで行けたものだったが、肺が悲鳴をあげる今、そんなこともままならない。ふむ、ふつうの暮らしというものは、なかなか不便なものだ。

 昨日歩きすぎたので今日は調子が悪かった。一日を部屋で過ごすことにしたが、そうすると不思議と昔のことに思いを馳せることが多くなった。当たり前だろう。特別苦しいわけではなく、大事をとって休んでいるだけなら、他にできることといえば読書ぐらいだが、あいにくその選択はブランシェットにはなかった。本などというものは、彼女にとって一番無縁なもののひとつといってよかった。

 窓からの風景は平和そのものだった。本能的に戦場を避け、比較的平和なこの街を選んだのは正解だった。屋根と木々と空。それしか見えないが、ブランシェットにはそれも新鮮だった。

 そんなものをじっと見つめる生活などしたことがないからだ。

 そんなことをしていると、ふとあの男のことを思い出した。傭兵のくせに、考えることが大好きという男だった。哲学者だな、と誰かがからかって言ったのを、ライアンというその男は却って喜びをもってして受け入れた。

 確かに哲学する男だった。人殺しをする反面で、その夜俺たちはなぜ産まれてきたのだろうと火を見ながら真剣に思案しては皆に馬鹿にされていた。

「人を殺すために産まれてきたわけじゃないはずだ。じゃあなぜ殺している? 生きていくためだ。生きるために殺すのか。殺すために生きるのか」

 そう言ってはまた皆に笑われていた。そんな男が、傭兵としてはそこそこ腕が良いというのも皆に受けた理由だろう。静かに、そして確実に迷いなく命を奪う男が、そんなことを考えているとはとても思えない。

 戦場と言えば、あんなこともあったこんなこともあったとブランシェットはあちこちでの戦いを思い浮かべていた。

 雲霞のように押し寄せる黒い点。それは、降り注ぐ矢の雨。ざく、ざく、ざくと音をたてて残酷に地面に人に突き刺さる。盾をかぶせるしか、これの回避はできない。回避はできるが、回避しかできない。反撃の余裕がないのだ。

 ザッ!

 --------ザッ!

 ザクザクザクザクザク

 矢が降ってくる。

 隣の仲間の叫んでいる声すら、なにもわからない。

「・・・・・・くぞ!」

「なんだって!?」

「隙ができないぞ!」

「わかってる! このままじゃ串刺しだ」

 しかし味方もそれだけでただ待っているわけではなかった。盾の陰にいてもわかるほどの地響きがした。大砲だ。大砲が来たぞ。呟くと、そっと剣の柄を確かめる。ぐっ、と頭にかぶっている盾が重くなった。矢が降り注いでいるのだ。くそっ。もつかどうかわからん。

 つーん、と一瞬耳が聞こえなくなった。反射的にかぶっていた盾を放り出して飛び出す。 ブランシェット! 誰かが叫ぶ。目の前は既に真っ赤に燃え上がっている。次の矢が放たれる前に、大砲がもう一発。飛び散る手足。血飛沫。足元に気合いを入れて、そして放つ。

 ズザア!

 剣圧が放たれると、そこから歪んだ空気が飛ぶ。一瞬置いて、大砲でもないのに敵が吹き飛ぶ。

 それが隙を呼んだ。味方が一斉になだれ込んでいく。混沌------。

 そんな日を、どうこなしたかなど覚えておらぬ。気がついたら生きていた、それだけだ。

 風に短く切った髪が揺れる。

 足を組んで、そんな戦いもあったかと思いを馳せたところで、身体が元に戻るわけではない。

 しかし思いは戦場に馳せられる。今思えば、無茶とも思えるような戦い方をしてきたものだ。


 それはいつのことであったか、横に広い台地のような戦場で、高台もなければ勾配もないだたっ広い場所であっちたことはよく記憶している。戦うこと数時間、敵と味方はいつしか二つに分かれ、互いににらみ合いを続けるという膠着状態にあった。それには兵士たちの士気も下がり、後方では円座になって座り込みどちらが先に手を出すか賭け事を始める輩まであった。

 その中にはブランシェットもいて、彼女は賭け事すらしなかったものの、どっかと地面に座って剣を抱え談笑に興じているという有り様だった。

「しかし動かねえな」

 隣にいた誰かが水を飲んで言う。さすがに酒を飲む者はいない。双方にらみ合いが数時間続いているとはいえ、ここは戦場なのだ。しかし、そうはいってもこの緊張状態、あと数時間ももたぬだろう。ここらが限界だとはいえ、突破法が見当たらぬ。

「退屈だなあ」

「そうはいってもよ、前の方はすげえぴりぴりしてるだろうさ。なにしろ、誰も譲らないんだから」

「・・・・・・」

 ブランシェットは愛剣の握りをいじってそれをなんとなく聞いていた。不景気な話題が嫌いなブランシェットからすれば、酒も飲めぬ、かといって動くわけではないという矛盾した状況にいつまでも耐えられるはずもなかった。

「誰も動かねえのか」

 誰に聞くともなしに聞く。

「ああ、動かない。双方にらみ合いだ」

「もう三時間だ。そろそろ限界だな」

「どう動くかだなあ。前の奴らはかちこちに固まってるだろうよ」

 その時であった。前方で動きがあったと伝令があった。野次馬ばかりの傭兵たちは我先にと前へ見に行く。そこには敵陣から数メートルこちら側に来て立ち止まり、槍を持った背の高い男が立っていた。

「なんだあいつ」

「槍を持ってるぜ」

 と、男が大きな声で叫んだ。

「我はシュトヴァイア兵・上級大佐アレツト・ウァイア。今より槍をもってしての一騎打ちを申し込む。どなたかおらぬか」

 これには味方の陣もどよめいた。

 一騎打ち? 面白そうじゃねえか。

 いや待て、シュトヴァイアのアレツトといえば遥かラーツ大陸からその腕を見込んで修行に来る奴がいると噂の猛者だぜ。命がいくつあっても足りない。

 ああ、ありゃあやり手だぜ。死にに行くのがわかってるようなもんさ。

「どなたかおらぬか」

 しかし味方側、誰一人として名乗りを上げる者はおらぬ。臆病なのか自信がないのか、どちらにしても一国の兵士が一騎打ちを申し込まれて立ち合わぬとは。

「誰も行かねえのか」

 ブランシェットは唸るようにして言った。見る見るその顔が歪んだ。

「誰か! 槍を持ってこい」

 持ってろ、と側にいた男に剣を預けた。

「おれが出る」

 おおおおおおおお、とどよめきが上がった。

「早くしろ! 槍だ」

 怒鳴った。わらわらと人が動く。槍を運ぶよう伝えているのだろう。

 ブランシェットだ、ノワールが行くぞ。一騎打ちだ。

 間もなくして槍が運ばれてきた。

 ジャキン! と鞘を払うと、円筒状の持ち手の先から鋭い刃が出てくる。

「どけ!」

 ブランシェットが通ると、大槍を持っている彼女を誰もがよけていく。味方の兵士もだ。

 腰抜けどもめが。

 ブランシェットはずかずかと進んでいった。

「エレイリュコフ傭兵のブランシェットだ。姓はノワール。一騎打ちに応じる!」

 ブランシェットは女にしては背が高い。が、アレツト・ウァイアは二メートルにも近い背丈の大男である。長い大槍を持っていることもあり双方が向かい合うと大人と子供のように見えた。

「おお、ブランシェット・ノワールといえば味方も恐れると噂の傭兵だとか。相手にとって不足なし」

「抜かせ! 御託はいい。さっさと始めようじゃねえか」

 ブランシェットは槍を構えた。

 アレツトの後ろに控える数百という兵士たちが緊張するのがわかった。事態が急変しようといている。背にしていて見えぬが、恐らく味方の陣にも何か変化があったことだろう。

「参る!」

 ザッ、と音がしたかと思うと一瞬後に衝撃があった。踏み込んで耐えたが、ずずずずず、とそのまま後退した。早い。すかさず飛んだ。おおっ、と背後からどよめきが上がった。ブランシェットの跳躍力は人間離れしている。これが味方も恐れる脚力だ。

 ザアアアアアアッ!

 風を切って、ブランシェットは上空から突きを入れる。む、と唸って、アレツトは槍を構え直した。そのまま受ける気なのだ。ならば突く。ブランシェットの動きに迷いはなかった。

 ギギギギギ

 嫌な音がしたかと思うと、槍と槍の刃が鬩ぎ合った。普通ならば、そこから槍先を裂いて勝負は終わっている。音に聞く槍師とは噂だけではないのだ。

「面白れえ!」

 着地とともに後退してブランシェットは叫んだ。息のひとつも乱れてはいない。

「こっちの陣についたのは間違いかもな。一騎打ちに応じる胆力もねえ兵士ばかりときた」

「何を。貴殿のような方がいればこそ」

 ブランシェットは笑った。貴殿ときた。

 ガシン!

 踏み込んで打ち合いに入った。上に打てば上に、下に打てば下に返ってくる。相手も負けてはいない。洗練された動きと息もつかせぬ速さで打ち込んでくる。筋力で上回るアレツトと、速さで上回るブランシェット、双方の戦いはお互い一歩も譲らぬものとなっていた。

 果てのないような戦いは三十分近く続いた。

 その時であった。

 ブランシェットめがけて、一斉に矢が放たれた。射手は四、五人であろうか。気配に気づいたブランシェットは槍で払ってそれを除けた。が、場の空気はそこで一気に乱れた。 どちらかの兵士が先かはわからぬ。が、どちらからともなく、その矢が放たれるとともに緊張の糸もプツンと切れたのであろう、双方の軍勢が入り乱れて互いに攻め込んできた。

「ちょ・・・待て! こっちが終わっていない」

 ブランシェットの声は行き交う怒号にかき消された。見る見るあふれる味方の兵士たち、知らぬ間に握らされた自らの剣、たちまちブランシェットは相手を見失った。

 ドドドドドドドドド・・・

 剣戟の音。叫ぶ声。大勢が走る地響き。仕方なくブランシェットも戦いに参じた。一騎打ちは未消化に終わった。

 アレツトのその後は、わかっていない。


 相手に興味がないからだろう。ブランシェットは思い出しながら思った。しかし死んだのなら必ず話題にのぼるほどの男ゆえ、死んではいないはず。数え切れないほどの戦場を駆け抜け、そのほとんどは覚えていないブランシェットであったが、この勝負に関しては忘れられない一番であった。確かあの時の戦いは、ブランシェットのいた方、エレイリュコフ側が負けたと記憶している。一騎打ちに応じるだけの兵士がいないだけあって、目に見えたような負け方であった。

 顔を上げると、抜けるような空が広がっている。

 今日もどこかであのような戦が繰り広げられているとは思えない平和な青い空だ。

 世界は未だ混沌としていた。貧富の差はそのまま寿命の差になった。殆どの人間はごく一部の富裕層の者の為に生まれ、死にゆくようなものであった。富裕層はその勢力を維持拡大するために戦を続け、その手足としてあらゆる形態の兵士が存在した。曖昧な倫理、金で買える正義、信念は死語となった。

 さて行こうかと進みだした時、いきなり肩に手を置かれた。

 ぎくりとして固まっていると、わはははははという笑い声がかぶさってきた。

「ブランシェット、久しぶりだな」

 聞いたことのある声だった。振り返ると、やはり見覚えのある顔だ。が、名前までは思い出せない。顔を覚えているということは、いくつか戦場を共にしたのだろう。言葉に詰まっていると、向こうもわかっているのか自分から名乗った。

「俺だ、グラディだよ。懐かしいなあ」

 そうか、グラディといったか。調子を合わせる。

「懐かしいほどの顔でもないだろう。元気か」

「俺は元気さ。お前、髪を切ったから最初はわからなかったぞ。こんなところでなにしてるんだ」

 ぐ、と言葉をのんだ。なにをしているかと言えば、静養しているとしか言えない。そんなことが言えるものか。

「まあいいや。こんなところじゃなんだから、どこかで飲まないか」

「そうだな・・・」

「おお、俺の宿が近い。部屋に年代物の蒸留酒があるんだ。来いよ」

 蒸留酒のことなど、思うだけで噎せ返る。噎せるだけで血を吐くというのに、酒など飲めるだろうか。男の歩く速さも早い。そうか、自分はこんなに早足だったのか。

 話している内にグラディが人懐こく話が好きな男だと思い出し始めた。金茶色の瞳が日に透ける。

 グラディの宿は本当に近くにあった。しかし今の自分では考えられないほどの早い足取りと彼の振ってくる話のせいで、宿に着く頃ブランシェットは額に軽く汗をかいていた。 このまま二階にいくなどと、冗談にも程があると思いながら階段をのぼった。肺が悲鳴を上げていた。咳が出る。

「おいおい、ひどい咳だな。酒よりまずは水だな」

 グラディがグラスに水を入れてくれた。なによりも有り難い。ブランシェットはちびちびと、しかししっかり一杯水を飲んだ。大分落ち着いた。

「落ち着いたか。俺は先に一杯もらうぜ」

「ああ」

 透明な液体がグラスに注がれていくのをじっと見る。かつては瓶で飲んだものだった。 今は、飲みたいとすら思わない。

 二人であてもなく話をした。さすがに遠いところまで来ただけあって、グラディはブランシェットが追われていることなど知らないようだった。

「水をもう一杯もらおうか」

 話すうちに喉が渇いてくる。

「おう。タダだぜ。どんどんいけよ」

 こくこくこくこく、音をたてて水を飲むブランシェットを、金茶色の目がじっと見守っている。

「それにしても久し振りだな。どうしてた」

「いやあ、色々さ」

 誤魔化す。グラディも深く突っ込んでは来ない。やれどこそこの戦では大荒れだったの、あっちの戦場で誰それが活躍したの、世界中の戦場の話をされた。肺がようやくおとなしくなってきたことを感じながら、ブランシェットは適当に相槌を打ったり、時には質問したりしていた。

 ふらっとめまいがしたが、気にしなかった。いつものことだったからだ。

 ところが何かがかしいと気が付き始めた。

 最初は両足が痺れてきたことからだった。やがて手の感覚もなくなり、貼りつけたような笑顔が保てなくなる。おかしい、と思って立ち上がろうとした時、そのまま足の自由がきかずに倒れた。

「効いてきたか。毒を盛ったんだ」

 先ほどまでの笑いに満ちた声とは打って変わって、氷のような冷たい声であった。

 しまった。

 ブランシェットは出来ないながらも歯噛みした。

 世界中の戦場の情報があるのなら、おれのことも知らないはずがないのだ。はめられた。 身体がどんどん冷たくなっていく。なに、死にやしないよ。ちょっとばかり身体が痺れるだけだ。冷たい声が言う。

「あんた、自分じゃ知らないみたいだけどな。手配書が世界中に回ってるんだ。ラ=ヴォイ侯爵がかけた賞金首ブランシェット。大陸という大陸、街という街にあんたの詳細が書かれた紙が貼ってあるぜ。遠くはソラージュ大陸まで手配されてるってよ。よっぽど恨まれたようだな」

 身体が痺れる。顔面がうまく動かない。麻痺してきているのだ。

「あんたの意識がなくなるまで話していることにするよ。生け捕りが重要だからな」

 屈んでこちらの顔色をじっと見る。金茶色の、黄色の瞳が自分を窺っている。黄色の瞳は獣の目だ。グラディはその言葉通り、なんでもないようなことを訥々と話し始めた。どうでもいいようにことばかりを、思いついたままに言っているようだった。

「そういや、リュヒト王国には待望のお世継ぎが産まれたんだとよ。あの王子様も立派におなりだねえ」

「オレストって覚えてるか。あいつ今死にかけけてるらしいが、噂ではあんたに会いたがってるとか」

「魔道石が最近よく獲れるらしい。相場は下がる、戦争は増えるで俺たちみたいのはますます大活躍だよ」

「向かいの宿にな、ちょいといい女が泊まっているんだ。なんとか話しかけてみたいもんだが、あれでなかなか隙がない。もしかして素人じゃないのかもな」

 まだ生きてるか? と聞きながらまた屈んできた。まだ生きている。身体が震える。もう、足が動かない。ちらり、と台所を見た。ナイフが一本、洗い場にある。しかし遠すぎる。ここからでは届かない。ふ、ふ、ふ、と息が漏れた。息が苦しいのだ。ふと見ると屈んだ男の腰に短剣があるのが見えた。あれなら。あれならなんとか。

「ずいぶん頑張るな。お前、自業自得だよ。人を殺してきたんだから、殺されても文句は言えない。そうだろ?」

「そういえば隣の大陸でもうすぐ戦があるらしいが・・・俺にはもう関係ないことさな。なにせあんたの首には大金貨一千万枚がかけられてるんだから」

 だいきんか・・・

 意識が遠のいた。あと少し。もう少し。

 まだか? 焦れた男が屈んで様子を見に来た。

 ------今だ。

 ガタン!

 自分でもびっくりするほどの大きな音をたてて、上体を起こした。それと同時に言うことをきかない腕が腰の短剣めがけて飛ぶ。冷たく、硬い感触がした。握る感覚すらままならない。しかしすべてを勘に頼り、ブランシェットは最後の力を振り絞ってそれを男の首に刺した。大した力は入れていなかったが、それでも頸動脈をかすめることは出来た。

 ぐ・・・と声を立てただけで、男は首から血飛沫を上げて倒れてきた。

 ブランシェットの意識も遠のいた。


 医導師ザルダ・リカエロスは廊下を急いでいた。

 医導師とは医学を学ぶ上で魔道に興味が傾き、結果として医者になるのをやめて魔道で以て医学を志す者のことをさす。絶対数は、また少ない。

 彼はまだ若かったが、誰もが嫉妬するほど有能だった。医者になるには有能すぎて医導師になったのだ、と誰かが言うほどに、彼はよくできた。感情の起伏はあまりなく、淡々としていて冷徹である。いかなる事態にも動揺せず、人の死にあっても眉ひとつ動かさない。そのザルダが急いでいるとあれば、よほどのことがあったといえた。

 それは、傍から見れば大したことではないようなことだった。しかし彼からすれば、大きな一歩であった。数か月の間低迷していると思われていた研究の成果が、ようやく良い方向へ向いてきたのだ。それを侯爵に報告すべく、ザルダは急いでいるのだった。

「閣下、お喜びください。研究の結果が出ました」

 ノックもそこそこ彼は扉を開けるなり捲し立てた。しかしぎょっとして言葉をのんでしまった。薄暗い部屋、部屋の真ん中でぐつぐつと煮え立つ怪しげな壺、その側に立つ魔導師。

「閣下・・・!」

 事態を察して、ザルダは机の向こうで立ち尽くす男に向かって叫ぶように呼びかけていた。ラ=ヴォイはザルダなどいないかのように壺を睨み据えていた。げっそりと窶れ果て、目は落ちくぼみ、瞳だけがぎらぎらと光っている。

「ザルダ、どうした報告か。ならば早くいたせ」

「閣下、これは一体何事です」

「見ればわかる。あの女の行方を捜しているのだ」

「閣下・・・」

 ザルダは絶句した。まさかとは思ったが、ラ=ヴォイは彼の心配を突き抜けて行動していたのだった。

 そこに立っている魔導師はザルダも知らぬ顔で、また噂を聞きつけてやってきた得体の知れない魔導師の一人かと思われた。壺を使って何をしているかというと、遠視という魔道で人探しをしているのだ。しかしこの方法、魔道をやっているザルダですら首を傾げる怪しい魔道で、最早魔道と呼ぶことすらためらわれるものだ。こういう、主人を持たずに怪しい外法で人を惑わす魔導士たちをザルダは「野良魔導師」と呼んで普段から忌避している。まさかその野良魔導師が閣下の部屋にいるとは。

「して結果は見えたのですかな」

 どういう結果が見えたかわかっていて、ザルダは魔導士を見据えながら皮肉に聞いた。 老いているようにも見えるがこの野良魔導師、まったく年齢のほどがわからない。野良魔導師はくつくつと笑いながらこたえた。

「そこはそれ、金貨をもう百枚も頂ければ必ずや」

 バン! と扉が乱暴に開いた。野良魔導師がびくりとなる。ザルダが一方的に『力』を使ったのだ。

「今すぐ出ていきなさい」

 冷徹に言い放つ声も低い。その迫力に圧されて、野良魔導師は慌てたように出て行ってしまった。若いザルダの放つ迫力は本物であった。

「またおかしな者をお入れになりましたな」

 ため息とともにザルダはその背中を見送った。ラ=ヴォイ侯爵はというと、乱暴に椅子に座っただけで何もこたえない。また、ということは、これが最初ではないということだ。

「閣下・・・魔道でできることには限界があります。あの女を探すのであれば、もっと多くの手配書を各国に」

「しかし見つからぬではないか!」

 ラ=ヴォイの声がそれを遮る。苛々として両手を握る、その手が白い。

「なぜ見つからぬ・・・! これだけ賞金をつり上げているというのに」

「手は尽くしております。必ずやあの女は戦場に現れましょう。その瞬間まで、あと少しのご辛抱です」

 ラ=ヴォイは苛立って机の上の本を払った。

「なぜ見つからぬ! まさか話が知られておるのではなかろうな!」

「それはございません。本人に知られてはならぬ、もし知られた場合は賞金の話はなしと固く申しつけております」

「ならばなぜだ!」

「閣下。焦ってはなりません。時間はかかっても必ずやあの女は張り巡らした罠にかかりましょうぞ」

「ならばなぜ今になっても見つからんのだ」

「戦場です。あの女は戦場にしか現われない。戦場に集中して罠を巡らせるのです」

 ラ=ヴォイはふう、とため息をついた。薄暗い部屋で、彼の顔だけが白い。

「ならば待とう。しかし私はどんな方法も使ってみせるぞ」

「ご随意に。必ずやあの女は我らの手に落ちましょう」

「今日は何をしに来た」

 ザルダはにやりと狡猾に笑って見せた。

「そのことでございます。研究の結果が出ましてございます」

 ザルダは研究の結果を話してみせた。それは、画期的な内容だった。おそろしい内容でもあった。およそふつうの良心を持った人間なら、想像もつかないことであった。そう、医師として倫理的に問われることでも、魔道となると曖昧な境界線になってしまうことは多々ある。ザルダが医導師になった理由もそれだった。なにゆえ人は、こと人を助けるという面に突き当たると善悪を持ち出すのだ。助けることに、善いも悪いもない。あってはならないのだ。倫理観が皆無という面にあって、その頭脳と共にザルダに勝る者はおそらくいないであろう。ラ=ヴォイも以前のラ=ヴォイならば、眉を顰めてザルダのようなものなど相手にしなかったはずだ。ラ=ヴォイという男は、善悪で言うのならば全き善に与する男であった。あの事件が起こる前までは。あの事件以降、人が変わったラ=ヴォイはザルダのようなものを積極的に登用し、自らの恐ろしい計画を進めてきた。

 それは、恐ろしい以外言いようのない計画であった。誰もが止めた。止めた者は容赦なく投獄された。なぜ追放されずに投獄かというと、計画が追放した者によって漏れることを防ぐためという徹底ぶりだった。

 ザルダという男は、天才であった。頭脳もさることながら、その倫理観を無視した考えや人を操る才能に到るまで、彼が計画を遂行しようとする時に発揮される能力は、善いか悪いかで言えば善い方では決してないにしろ、天才的であった。ラ=ヴォイに注進した医導師や魔導師たちを投獄することを指示したのもザルダの案によるものだった。言うなれば、今のラ=ヴォイの暴走は彼のしわざによるものといってもよかった。ラ=ヴォイ侯爵は、莫大な資金をつぎ込んでザルダの計画に乗った。侯爵は良心を捨てたのだ。あの日、あの女にすべてを奪われた日に、涙も果て善い心もそれと共に尽きた。

 ザルダは巧みにそれを利用した。ラ=ヴォイに対する忠誠心は本物であったが、野望も劣らず本物であった。医師になるのをやめ、医導師になることを志した早い段階で、自分の野望を果たすためにはどうすればよいか、この男は結論を出していた。金のある、それでいて自分が仕えるのにふわしい貴族といえば、ラ=ヴォイをおいて他にいなかった。目論見は当たった。ラ=ヴォイは素晴らしい人格を持つ高潔な男で、自分の大望をとげるにふさわしい人物であるといえた。自分の人生を賭けた研究は、並の人間に扱える代物ではない。それにふさわしい人間の助力によって果たされなければならないのだ。ラ=ヴォイにはその器がある。

 まずはブランシェットを見つけ出す、その日まで、ザルダにはやることが山積している。ただ待っているだけでは時間が足りないのだ。することはいくらでもあった。


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