表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旅路  作者: 青雨
1/4

 人はその音を、死神の足音と恐れた。

 本来ならば魔を払うはずの鈴の音は、忌避され敬遠され、やがて廃れていった。鈴は魔を払うものではなく、魔そのものとなり下がったのだ。

 数多いる傭兵の中でもブランシェットは腕利きとして知られていた。戦乱の時代、女傭兵は決して珍しい存在ではなかったが、それを考慮しても彼女の存在は抜きん出ていた。 あらゆる武器を使いこなす腕力と筋力とセンス、人間離れした運動能力、そして冷徹さ。 女は感情に流されがち、だから時に暗殺を任され或いは戦場を駆け回る傭兵には向いていないと、自身の苦い経験から愚痴る他の傭兵たちも、ではブランシェットはどうだと聞かれると、一様に口を噤んでしまうのだった。そのときばかりは酒場の主人たちは客がブランシェットの話題に触れるのを嫌がった。彼女の名が出れば、たちまち場は白け、飯はまずくなり、酒は苦くなった。ある場所では、ブランシェットの両足につけられた足環の鈴の音とともに、彼女の名前そのものが禁忌ですらあった。戦場ではその存在は敵を震撼させ、味方を鼓舞した。剣をひとふりすれば、必ず敵の影がいくつか倒れ、消えていく。 いつしかブランシェットは傭兵の中でもかなりの高額で雇われる戦士となっていた。ブランシェットの通った後は草も生えない、村の一つや二つ、平気で潰しているともっぱらの噂であった。黒という姓の通りの黒髪だが、戦士傭兵たちは戦場でその名を呟くことこそ恐怖と彼女を恐れた。

 そのブランシェットが、世界に名だたる大貴族・ラ=ヴォイ公爵の屋敷に乗り込んだ時、誰がこの先の悲劇を予測しえたであろうか。

 当夜、ラ=ヴォイ本人は幸か不幸か屋敷を留守にしていた。その留守もまったくもって予想外のもので、ラ=ヴォイの大叔母にあたる老夫人の乗っている馬車が、近くの路地で事故を起こしたというので、孝心強い公爵はわざわざ出向いたということらしい。

 警戒は、ブランシェットが堂々と正面口から入ってきたときには告げられていたはずであった。

 この女は、考えに考えて警備の目をくぐりぬけ人のいない時間帯を狙うなどという小手先を一切使わぬ。

 ザシュッ、という音と共に、壁に血が跳ね返った。それはブランシェットの頬をもぬらしていたが、本人はまったく気にするふうでもなく、ちらりと廊下の奥を見た。

 侵入して十分は経っていない。危うく警備の者が警戒を呼びかけるところであったが、それも消した。間取り図は事前に依頼人に渡され、頭に入っている。

 ―――この奥か・・・。

 その緑の瞳が危険に光った。よく見ると、右と左でわずかに色の濃さが違う。

 見当をつけた部屋の扉を乱暴に開けると果たして、そこは公爵の住処の中心たる部屋であった。息を飲むような小さな声と、幼い声が気丈にも誰何する声とが重なった。ブランシェットはそれに答えなかった。

 広間には女がいた。姿恰好すらして公爵夫人であろう。怯えと、強い警戒の瞳でこちらを睨み、その両腕には庇うように一人の子供を抱いている。

 ちらりと周囲を見た。公爵の姿はない。

 留守か。

 いや、探し足りないだけなのかもしれない。依頼は公爵を抹殺することとあった。が、それ以外のことには触れられていなかった。

 ブランシェットは長くは考えず、剣を振り上げた。

 それは、悲劇の始まりを告げる悲劇であった。




 何度か目が覚めて、その度に光景が違う、という、その記憶はある

 しかしそれがなんなのかと思い返すと、はてなんだったのかと思う。

 目を開けた時、それが真っ白な壁であることにしばらく気がつかなかった。ブランシェットはベッドの上でぼうっと、ただその壁を見つめていた。

 しばらくしてそれが壁だということに気がつき、次いで自分がその壁のある部屋にいること、ベッドに横たわっていることに気がついた。

 なんだっけ。どこだっけ。

 思い出したように深呼吸したが、気分がひどく悪かった。胸がどきどきして苦しい。起き上がろうとしたが、その胸の動悸でそれもままならない。ふ、と力を入れたが、力も入らない。仕方がないので寝返りを打ち、腕を下にして身体を持ち上げようとした。寝返りを打つのにも苦労した。なぜか、腕はふにゃふにゃとして力が入らず、呼吸もひどく浅くて、なにをしても苦しかった。横になっているのにめまいがする。一体何が起こったというのか。混乱しながらも周囲を見渡すと、ここはどうやら部屋のようだ。広くもないが、狭くもない。窓から空が見える。耳を澄ませば、人の声のようなものも聞こえる。時計がないのでどれだけ起き上がろうともがいていたのかはわからない。

 ようやくベットから出て、さあ立ち上がろうとして愕然とした。

 膝がくにゃ、となって力が入らず、そのまま落ちるようにして床に倒れこんだ。

 またか、と腹が立つのと、腕に力が入らない衝撃とが同時にきた。

 ようやく洗面台までたどりつくと、まずは顔でも洗おうと思い立った。鏡もちゃんとある。

 がんがんする頭を振ると、ますます痛んだ。目がちかちかする。その目で震える手を見て、いよいよ驚愕した。

 細い。

 ほとんど骨と皮だ。筋肉もすっかりなくなって、まるで老婆のようだ。しかし、なぜか首のあたりは浮腫んでぱんぱんになっている。これは。これは本当に自分なのか。信じられない思いで手に顔をやると、やはり鏡の中の老婆も己の顔に触れている。その手がわなわなと震えているのは、先程から続く頭痛やめまいや、息苦しさからくるものなのか、それとも。

 やせ細った顔の下の、まるで浮き輪のような自分の首に触れると、不快な感触がする。しかしその下から覗く、肋の浮き方にぎょっとして胸元手をやったとき衝撃は頂点に達した。

「―――――」

 胸に刻まれた、生々しい縫い跡。それは赤紫に腫れ、なにかが蠢いているようにも見える。

 絶叫が響き渡った。


 残酷なことに、意識はすぐに戻った。耳ががんがんする。触ると、気絶した時にどこかにぶつけたようだ、血が少し出ている。すぐには起き上がれないほどのふらつきを覚え、ブラシェットはそこに蹲った。耳の激痛は、しばらく待たなければ落ち着かなかった。がんがんする頭を押さえながら、這いつくばってベットまでたどり着くのが永遠のように思われた。乗り物にでも酔ったかのように吐き気がする。吐こうとしたが、何もでない。そこで初めて自分が恐ろしいほどの空腹だということにも気がついた。身体が震える。気持ちが悪くて、目が回る。一体なにがどうなっているのだ、どうにかベットにしがみつき、落ちそうになりながら横になれば少しは楽になるかと思いきや、強烈なめまいと吐き気で忘れていた、首をしめつけられる不快感が戻ってきた。息ができなくなるほど、というものではない、しかし、確実になにかが首に巻きついたまま、それが結構な強さでずっと首にいる、そんな感じだ。これは息苦しい。何度も何度も首の辺りに手をまわして糸なのか紐なのかわからぬままそれを取り除こうとした。しかしなにもない。なにもないし、なのに苦しい。とにかく何か食べなければ、と思った。が、身体が動かない。ベッドの側には簡素な机があったが、筆記具が置いてあるようにも見えないし、ましてや食べ物があるわけでもない。ようやくベッドまで這ってきたというのに、ちらりと恨みがましくあちらに目をやると、これまた簡素な台所のようなそれらしきものがある。とてもとても、目を覚ましてからというもの、そんなことにまで目をやることができないほどの胸の激痛と息苦しさであった。何かあるかも、とにかく果物でもなんでもいいから、何か食べられれば思考も働くし、このうんざりするほどの吐き気もおさまろう。それだけを励みに、文字通り死にそうになりながらそこまで這っていった。それには、無限とも思えるほどの時間がいった。

 台所のような場所は、焜炉がひとつあった。お粗末だが水道もある。しかし、貯蔵する場所はないようだ。側にテーブルがあって、縋りつきながらなんとか立ち上がると、干からびた果物が見えた。ブランシェットはそこで愕然とした。

 何も食べたくないのだ。

 手がぷるぷると震える。知っている、これは飢えだ。身体が震えるほど腹が減っているのに、目の前に辛うじて食べられるとはいえ食べ物があるというのに、それを目にしてどうして手が出ないのだ。苦しいのか。苦しい。次の呼吸で死ぬかと思うぐらい、息が苦しい。だからといって手が伸ばせないわけではない。手を伸ばした。林檎らしきその干からびたものを手にとると、腹が鳴った。手に取っている、林檎をその手に、見下ろしている。なのに、口にしようと思わない。なぜだ。自分はおかしいのか。是。確かにおかしい。一体何が起こっているのか、と思ったところで思考は途絶え、知らず知らずまた失神したようだった。


 同じことはたびたび起こった。とにかくこの身体の絶望的な状況は飢えだということだけは、ブランシェットは理解していた。だから次に起きたときに、身体が求めようが求めまいがとにかく食わねばこの悪循環からは抜け出せないと思い、まずくもない代わりに水気もなにもない林檎をどうにかして食べたのだった。それは思っていたよりも大変な作業だった。このおかしな息苦しさのおかげで、ものを噛み砕くことはできても、飲み下すという行為は困難を極めた。息もろくにできないというのに、どうやってものを飲み下すのか。そしてようやく飲み込むことができたとごくん、とやった途端に、ブランシェットは盛大にむせた。それはもう、これだけ身体が弱っていて、一体どこにそんなちからが残っていたのかと思われるほど物凄い勢いだった。その拍子に、少しだけ血を吐いてブランシェットはうんざりしてきた。

 傭兵だった。人を殺して生きてきた。

 名もないものもいれば、聞いてみればあっと驚いて声をあげてしまうような貴族や王族もいる。それらの報いならば受けるしかあるまい。それしか生きる道はなく、善いも悪いもなく、ただただ斬ってきた。しかしその言い訳が通じるとも思わぬ、文句はない。

 だがしかし、今おれに何が起きている。

 それを知る権利が、当人であるブランシェットにはある。

 気分が悪い。単なる身体的なものと、気持ちがおさまらないものと。とりあえず、怒りや不満は後回しにするとして、ブランシェットは誰かに助けを求めることにした。記憶はひどく曖昧で、寸前まで戦場にいた記憶はあるものの、自分がどうやって、誰にいつ連れてこられたか何もわからない。ついでに言うと、自分は長い間眠っていたようだが、どれだけの間そうしていたのかもわからぬ。三日寝ていたのか、ひと月なのか。

 栄養の供給を絶たれた身体は思っていた以上に弱っていた。ここは少なくともどこかの国の住民街で、敵はいなさそうだ。いるならば、ブランシェットはとっくに殺されているだろう。建物の外に出て、まずは医者にでも見せないことにはどうにもなるまい。考えるよりも前に、獣のように体は動いた。

 扉を開けるとそこは、思った通りの木造の廊下だった。壁に寄りかかりながら辺りに目をやる。それにしても、この胸の苦しさは一体どういうことなのだろう。ブランシェットの身体能力は抜群というよりはむしろ異常で、人間離れした跳躍力や筋力では傭兵達の間でもひときわ知られていた。ぽん、と大地を蹴れば、二階の階段の一番上まで到達することなどはまるで当たり前のことのようにできた。その体は風のように翻り、舞うようにして剣を振るった。身は軽く、鳥のようだった。

 それが今は、右手を動かすにも身体が震える。気力が湧かないし、だるい。胸は呼吸するたびにぜいぜいと苦しいくせに、休まろうとして横たわると今度は息ができなくなるような別の重苦しさを感じた。乾ききった、嫌な咳が止まらなかった。大抵は、ねっとりとした痰が大量に出た。それらの内三度に一度は血を含む赤いものだった。

 解せん。

 ブランシェットは歯噛みしながら唸った。おれは戦場で四日、不眠不休でいたこともある。その間に戦っていたこともあったし、人を殺していたことも、食事をしていたこともあった。今は眠る余裕があるのに、身体がそれでも休めないとはどういうことだ。眠い。 眠いし、とても疲れている。なのに眠れないのはなぜなのか。気が付くと時々失神しているし、肺病病みのような不愉快な咳が止まらない。血も吐く。

 ちらりと見やると、どうやら陽はまだそんなに高いわけではないようだ。寒くもないのにぷるぷると震えながら壁につかまって歩き、ぜいぜいと息も絶え絶えの自分ははた目にも異常だ。転がるようにして階段を降り、開きっぱなしの入り口を見ると、どうやらここは集合住宅であろう。注意を怠らずに周りを見回しても、誰もいないようだ。もっとも、今のこの普通とはとても言えない状態で、どれだけかつての勘や感覚が頼りになるかも疑問だ。目の前がくらくらする。外には出たものの、誰になにを言っていいのかもわからぬ。

「おいあんた、大丈夫かい」

 後ろから突如声をかけられて、不覚にもびくりとした。

「なんだ、すごい汗じゃないか。顔色もひどいぞ。医者に行くか?」

「ほっといてくれ」

 絞り出すように言った声もかすれ、相手に届いたとも思えない。くそったれが、と心中で罵った途端、あの嫌な咳が立て続けに出て、ブランシェットは盛大に血を吐いた。そしてそのまま失神した。

「あんた! しっかり・・・誰か! 医者につれてくぞ。手を貸してくれ!」

 遠のく意識の中で、誰かが自分を持ち上げる感触と、ヤブ先生んとこに行くぞ、と声がした。

 ヤブ医者か、やれやれ。

 覚えているのはそこまでだった。



 どこかで、ピッピッピッ、という音が聞こえてきているのはわかっていた。ただ、身体がだるくて動けない。動けないのなら、目だけでも開けてみるかとやってみた。案の定視界は霞がかかったかのようにぼんやりとしていた。ぼんやりしたまま視線を動かさないでいると、そのうちにそれはくっきりと見えてきた。思っていたとおりそこはどこかの天井だった。まったく見覚えのない天井。

 視線だけで辺りを見回す余裕ができると、自分の顔は立体の三角形のかたいものに覆われているのがわかった。正確に言うと、鼻と口を医療用のマスクで覆われ、それで呼吸を助けられているのだが、そんなことを把握できるはずもない。とりあえずそれが邪魔で、ブランシェットは無意識にそれをはずそうとした。

「おっと、それはやめてくれ。ようやく意識が回復するまでなったんだしな」

 はっとなって声のした方を見ると、くすんだ金髪に同じ色の無精髭をはやした男が立っていた。身長は高い方だろう。かなり使い古された感のある白衣を着ている。朦朧とした意識のまま、自分が最後に失神したときの誰かの言葉を思い出した。

 ヤブ医者。

 男は苦々しい笑みを浮かべた。

「ひでえな。あんた、今生きてられるのは俺のおかげだぜ。ヤブ医者はねえだろ。ヤブじゃなくて貧乏なんだよ」

 意識が遠のいてきた。最後の言葉がよく聞き取れない。

「お、単なるうねりだったか。まあいいや、よく寝てな。ここならまあ、大した設備はないけども死ぬことはないから。多分な」

 くそったれが。

 薄れゆく意識の中、もう一度男の苦笑いが見えた。



「あんたが『赤い死神』か」

 食欲は相変わらずなかった。腹が減っているのに、それが食べられない。力が入らない、立てない。吐き気はするが、実際に吐くわけでもない。目がぐるぐる回り、気分が落ち込む。食べられないというより、食べたくない。完全な鬱状態だったといえよう。ヤブ医者、と呼ばれている男は、名をカーティスと名乗った。

「いいか、あんた、心臓にペースメーカーが入ってるな。だから心不全があるはずだ。それから・・・」

 なにか言われたがよくわからない。肺の辺りが痛い。大きな木が肋骨の中心にあって、そこから太い血管細い血管が枝のようにじわじわと上部に伸びていき、それらがひりひりと明滅するがごとくに強烈に痛むのを個々に感じる。広がる枝は、無数だ。

「手術痕からして、最近だ。もっと大きな病院で・・・」

「詳しい話はいらん。おれを治せ」

 呼吸器のマスクをはずして吐いた最初の一言に、カーティスは虚を突かれて絶句した。

「金がないんだろう。いくらでも払ってやるから治せ」

 震える手で自分の身体を支え、ようやくのことで絞り出すように言う。現在の鬱状態で、一人で起き上がることそのものが驚異だ。それと同時に、彼女の要求が無茶すぎて、青年医師はしばらく呆然としていた。

「治せ」

 こほっ、と咳が出た。その拍子に血も出た。

「あーあー言わんこっちゃない。血を吐きそうならこっちに吐いてくれ。いいか、それからよく聞け」

 容器を渡し、ぜいぜいと音をたてる肺に苦しんで波打つ背中を、効き目がないと承知でなでる。

「金があるとかないとかそういう問題じゃない。あんたのかかった病気は完治しないんだ。あんた今、自分の身体がどうなっているかまるで知らないんだな?」

 彼はそれそのことにも驚いていた。そうか、おかしいと思った。自分の今の状態を知らないのなら、あれやこれやの無茶もよくわかる。無知なのだ。

 一方のブランシェットも参っていた。気持ちが悪い。吐きそうなのに、吐くものがない。 だから、この船に乗ったときのようなぐらぐらした気持ちの悪さもなくならない。永遠のものにも思える。それだけでぞっとした。船酔いは吐けば楽になるし、慣れればなんでもなくなる。しかし今のこの気持ちの悪さが、この医者の言う通りだとしたらどうすればいいのだ。別の悪寒が疾った。青年医師は自分の背中をさすりながら、さっぱりわからないことを説明し始めている。なんだか知らないが、ひどく悪いらしい。しかしそれだけのことになった理由が思い出せない。頭が痛くて吐き気がするのに、何が起こったのか思い出せようはずもない。最後には確か、どこかの戦場にいたような。しかし、戦場などいつもいる。どこの戦地にどれぐらいいたとか、あそこの戦でどれだけ殺したとか、そんなことはいちいち数えたり覚えたりしない。なぜならブランシェットの生活そのものが戦場で、戦のあるところで寝泊まりしている彼女からすれば、戦場は家と同義のものなのだ。

 吐き気が止まらない。どれだけ血を浴びてもどれだけ首を切ってもこんな悪寒など覚えたことなどないというのに。いつの間にか背中をさするのをやめて目の前の椅子に座っている青年医師は、椅子をギッとならして寄りかかると指を組んで、困ったように言った。

「しかしここでなにかをしてやることも難しい。見ての通り、貧乏なんでね。機器に注入する魔道石なんざ、ここらの住人を診てるだけじゃ手に入らん。自然、簡単な診察をして処方箋出してやるのが関の山なんだよ」

 それでついたあだ名がヤブ先生さ、とカーティスは自嘲的に言った。検査のための機器はなんとか購入できた、しかし魔道石を買うまでの資金は残らなかった。

 ブランシェットはこみ上げる吐き気とぐるぐるとまわる視界に耐えながらむ、と唸った。

 魔道石。すべての動力の源。

 医学の進歩と魔道の進歩は、一見相反しているように見えてしかし、共存して発展していった。魔道は人体の神秘の研究から始まり、医学と魔道とにまず分かれた。だからまず医師を目指す者は、同時に多少の魔道の研究をする必要があった。魔道石は宝石の一種だが、ただの宝石とは違いその存在そのものが膨大なエネルギーを秘めている。一見すればただの宝石だが見極めは簡単だ。じっと石を見つめていると、その中にちろちろと火のように燃えるものが見える。それが秘められた石の中に秘められた莫大なエネルギーで、それは半永久的に絶えるものではないともいわれている。生活を支える電気や水道などの動力は、すべて魔道石に支えられているのである。名だたる宝石鉱山のほとんどは上流階級が所有し、その中からごく稀に見つかる魔道石が彼らの権力闘争を激化させている局面もある。各地で起こっている戦乱のほとんどは、彼らの繰り広げているものであるといってもいい。小指の爪の半分ほどの大きさの魔道石でも強大なエネルギーにより、医療は進歩し、手術や輸血などの技術を確実に可能にしていった。

 個々の魔道石の持つ魔道力はそれぞれによって違うので値段は様々だが、最低でも千金貨すると言われている。銀貨百枚で金貨一枚、大学を出てふつうに働く男女がもらう給金は、だいたい銀貨十五枚から二十枚だとされているから、だいたいの価値が知れようというものだ。

 しばらく大きな病院で働き資金と経験を稼ぎ、独立して小さいとはいえ診療所を開き、必要最低限の機器を揃えたところで資金が尽きた。よくある話だ。

 診察料をふっかければ、おそらく魔道石一つぐらいは買えるようになるかもしれないし、あるいは銀行も金を貸してくれるかもしれない。しかし若い医師が小さな診療所を開いたとて、どの銀行の反応も知れようというものだ。

 そういうことか・・・。

 ブランシェットは瞳を閉じた。息が苦しいし、目をこうして瞑っているのにぐらぐらする。他の大病院に行ってもいいが、自分自身の身体だというのになにもわからないうちにこうなった状況を考えると、それは得策ではないと傭兵の本能が警鐘を鳴らす。

 ブランシェットは左足に神経を集中させた。ちりん、と微かに慣れた音がする。足首に当たる何かの固い感触も残っている。無意識に足首に手を伸ばし、つけていた足環についていた小さな涙滴型の石を引きちぎった。そしてそれを無造作にカーティスに投げてよこす。青年はおっ、と思わず声を出し、辛うじてそれを落とさずに受け取った。それが何なのか、よくわかりもせずに。

「診察料だ。とにかくこれでできるだけのことをしろ。おれを治せ」

 わからん女だな。治らないと言っているのにと苦笑しながら宝石の価値を確かめようと陽に透かして見てみた。稼いだ金貨を、宝石にして持ち歩く傭兵は多い。世界一の信頼を究める『鉄銀行』とて、信頼できないという少々ひねた考えは彼ら独特のものであろう。

 そしてカーティスは自分が透かして見た赤い宝石を見て、ぱちぱちとまばたきをした。

 中に何か入っている。内包物ではない、これは研修で一度だけ見たことのある炎だ。

「あんたこれ・・・魔道石か!」

 思わず叫んだ。叫ばずにはいられなかった。赤い死神と呼ばれるこの女の話は聞いたことがある。返り血で全身真っ赤になってもまだ殺し続けることからついた二つ名だという。 残虐非道、冷酷無比。血の代わりに流れているのははるか北の大地ソラージュの冷たい水と言われ、女でも子供でも老人でも平気で何人も殺す。この女の歩いた後には累々たる死体の山が足跡のように続いているとも聞く。殺人鬼。飯を食うよりも殺すほうがいいらしいとは専らの噂だ。

 しかし、研修で見ることしかできないような純度の高い魔道石を買うことができるほどの腕だとは!

「頭が痛いから大声を出すな。よくわからんがこれで機械が動くんだろう。これをやるから治せ」

 ごくり、と唾をのむ音がした。自分の唾だ。返答次第では、自分はこの莫大な価値を持つものを失うかもしれない。金銭的な問題ではない、これで助けてやれなかったあの子供、あの老婆を診てやることがことができるかねしれないと、そんなことが次々と浮かんでは消えた。しかし、同じだけ彼はまた医師だった。嘘はつけない。ごくり。もう一度唾をのんだ。

「いいか、ようく聞いてくれ。あんたのもってる病気は、完治できるものじゃないんだ」

「それは聞いた。しかしいくらか楽になるだけのことはできるだろう。投薬とか、手術でも」

「それはそうだが・・・」

 それには気の遠くなるような時間と、あんたの努力がいる。言っている自分の声もどこか遠くに聞こえる。ああ、そうか、衝撃で気が遠くなっているのだ。こんなものを自分が己の掌に持つことができようとは。情けなや、膝がわずかに震えている。

「それでいい。とにかくやれるところまでやってくれ。リハビリでも手術でもなんでもやる。頼んだぞ」

 そう言いながら、とうに限界がきていたのだろう、ブランシェットは文字通り倒れるようにしてがくっと横になった。気絶したのだ。いつもの自分なら駆け寄っていただろうが、彼女の失神は致命的なものではないということがわかっていることと、魔道石を手にした驚きと衝撃で、医師カーティスはその場に固まってしまっていた。

 未だに信じられない思いでそっと掌を見ると、一見小粒のルビーのような赤い石が、その中でちろちろと炎を燃やしていた。想像もできないような、莫大で強大なエネルギーを秘めた石だ。そして同時に、医師としての彼の行く末を大きく変えるものでもあった。

 午後の陽射しを受けて、ブランシェットの苦しそうな寝息と、医師の抑えきれない興奮を含んだ吐息だけが静かに部屋に響いていた。


地獄のような日々は容赦なく続き、ブランシェットを無慈悲に苛んでは消え、消えると同時に他の痛みと苦しみでもって痛めつけた。日によってそれは様々だった。咳が止まらず、肺が無数の棘に掻き毟られるような激痛が一日続く日もあれば、おまけのようにして吐血することもあった。血は見慣れた赤というよりは黒に近く、咳の拍子に出る痰とくれば、不気味なピンク色をしていた。毒に侵されればそんなこともあろうが、吐くたびに毒も吐き出され浄化されるのとは違い、それはいつまでたっても浄化されることはないようだった。身体が重く、だるいというよりはもう鉛の塊を全身に背負っているような重さだった。右手を動かすのにも何十分とかかる。ならばと億劫になりちょうど食欲もないことだしと食べないでいると、面白いように身体が弱る。当たり前だ、と傭兵の自分が言う。 食は基本だ。身体は随時機能している。寝ているときもなにも考えていないときも、全速力で自分の身体を支えている。支えることで供給しているというのなら、必ず供給に伴うものがいる。それは食べることだ。動いた分働いた分、脳も身体もエネルギーを要求する。

これだけ苦しみにのたうち回り、苦しみもがいては血を吐いているというのに、のたうち回りもがいた分失ったものを足さなければ身体が弱るのは当たり前だと。

 しかしだるいのだ。だるさは気力を奪う。気力は体力を上回る動機を与える。どんなに動くことができても、戦に行く気がなければ行かなかったのと同じであろう。

(くそ・・・)

 思わず唇を噛んだ。

 身体が重い。重いがゆえに、目の前の林檎の欠片すら食べる気にならぬ。しかし腹は林檎という食物を目の前にくぅと鳴る。本能は脳は、確かに目の前のものを食べたいと要求しているのだ。

 カーティスはそれをそう遠くはない場所から黙って見守っていた。食事の補助を、彼女は最初から断った。おれはおれの問題をいつも自分で解決してきた。刺されても切られても頭を割られても、救護が来る前に自分で焼いた刃を当て血を止め或いは縫ってきた。 どのみちここを出るというのなら、医者の手は最小限でいい。

 当の医者からすれば、それはあまりいい手段とは言えなかった。流動食や栄養点滴をも、彼女は固く断った。そんなものに頼っていると時間がかかる。時間がかかった分、戦場に戻るのが遅れると。その発言にも彼は驚愕した。病状を考えれば、現役の傭兵どころかふつうの生活もままならないというに、この女は一体何を考えているのか。なにも考えていないのか。医師は迷い、悩み、考えた。

 病状を教え、どういうものかを理解させる。考えあぐねた挙句に彼が出した結論はそれだった。

「いいか。ひとつひとつ教えていく。おれは医者だ。ひとの病気や怪我を治すのが仕事だ。 大学で医師の免許を許されたとき俺はそう誓った。健康でないものは弱いものだ。相手を選ばず弱っているものを全力でもってして治療する。約束はできないができることはすると、そう誓ったんだ。あんたは俺に法外な医療費を払った。俺はそれに報いなければならない。

「しかしだからといって俺は全能ではないし、金で治せる病気もない。仮に俺があの三流大学を出ずにもっとエリートの行く大学を出ていたとしても、その事実は変わらないんだ。 頼む、まずそこから理解してくれ」

 目の前の病人は起き上がるのもだるくて苦しそうなのに、肩を揺らし苦しげに息をしながら聞いていた。口をきくのも無理なはずだ。なのに彼女は呻くように

「わかった」

 とだけ言った。絞り出すような、こそぎ落したような声だった。

「そうか。そうしたらまず安静にしていてくれ。戦場に戻るつもりなのはよくわかった。 戻れる戻れないを判断するのは俺じゃなくあんたなのもわかった。だが頼む、そうするには半年後に復帰とかそういう短期間でどうこうなる状態ではないんだ。年単位で考えなくちゃいけないぐらいの病気なんだ。それをわかってくれ。わかったら治療方針を立てられる。方針があれば、それが目標になって目標のためにあんたは治療の仕方を理解する。 そうすれば復帰も早くなるんだ」

 彼女が最終的には怪我をし病気になる前と同じ状態になることを望んでいるとわかってからは、それは不可能だと理解させることはやめた。筋肉の状態や噂を聞く限り、この女の肉体は出来上がっている。そういう人間の肉体は、一度衰えてもバネが戻るのと同じようにすぐに元にあった状態まで戻ろうとする。それだけは確かだ。カーティスはつまり、彼女の身体能力に賭けたのだ。その上で、元に戻らない状態であるにはしても、同じ状態にある他の患者とは違うということに賭けたのだ。元に戻っていく上で、彼女はまた傭兵に戻るかもしれない。戻れないかもしれない。その時点でどうするかは彼女の選択と判断であって、それは医者の仕事ではない。

 彼女の要求と性格から、カーティスはそこまでの判断を下したのだった。

 なにしろ、あの魔道石を売ってからというものの、彼の診療環境は飛躍的に改良された。 病気は金持ちにも貧民にも平等に訪れる。金持ちは金で高度な医療処置を買うことができる。しかし貧民は金がないという理由だけで時に簡単に死んでいくのだ。そういう人間を助けたくて医者になったというのに、金がないばかりに人を救えないという矛盾に、彼がこの数年でどれだけ地団駄を踏み歯噛みしてきたことだろう。

 彼はまず、信用できるという評判がある数個の宝石屋を回った。宝石屋は宝飾品ではなく、石そのものを売り買いする。この星では庭先や畑で宝石がとれる。そういったものを小遣い感覚で換金する者は毎日途絶えることはないのだ。だから当然、百万とある宝石の中に含まれる超宝石・魔道石をも彼らは扱っているということなのだ。宝石屋の反応はどれも同じだった。どれどれ、見せておくれと言ってまじまじと見つめ、陽に透かし、ん? と呟いてから慌ててルーペで覗き込む。専用の電燈の下で、しばらく凍りついたようにじっと見つめる。そしてがばと立ち上がり、汗を浮かべながらあんた、これは一体どこで手に入れたんだねと掴み掛る勢いで訊ねてくる。

「なあに、ちょっとしたはずみでね」

 そう言えば、カーティスはそれ以上問われないことぐらい知っていた。そして当然、そうなった。彼はどの店とどの店をまわったと言い、その上で一番いい使い方と値段を表示してくれた店にこの石を売ると言った。いくら強靭な力を持つ魔道石とはいえ、金だけを目的とするのでないのなら一個持っていても意味はあまりない。それを売り、あるいは半分の値の分だけそこそこの力を秘めた魔道石に交換することで、金で医療機器を、それの数だけの魔道石を手に入れれば、この先金の心配をせずに治療していくことができるのだ。 それを含めた条件を出して彼は交渉を始めた。宝石屋たちに、今後の魔道石のメンテナンスを頼みそれに伴う相応の礼金も出すと伝えるのも忘れなかった。彼は若かったが、それだけの知恵をはたらかせるだけの苦労はしていた。

 そうしてしばらく、三日おき程度で彼は宝石屋を巡り、交渉を続けては帰るということを半月ほど繰り返した。宝石屋はその商売柄、個々で独立したルートで商売をしているため、裏で話し合って値段を操作するという工作をしない。結局、カーティスがいくつか目を通した医療カタログの中からこれとこれは最低限欲しい、といういくつかの機器をを厳選し、さらに彼が話した業者の内からどの会社のものが優良で、どの会社のものが一番経費がかからないかを考え抜いて、それらの医療機器の価格と、それを稼働させるために最も適した魔道石を適正な数と質でもってして換金及び魔道石を譲渡してくれる宝石屋から、彼は両手に少し余る程度の魔道石と相応の金を手にした。彼が取り引きした宝石屋はとても良心的で、彼が見せた医療機器を見て、それではこの魔道石ならいいでしょう、ということを、機器がどれだけコストがかかりどのように稼働していくのが一番機能的だと教えてくれるばかりか、月に一度魔道石のメンテナンスのために診療所に来てくれることを約束してくれ、大金と複数個の魔道石を持って帰るカーティスのために自腹で用心棒をつけてくれた。彼が売った魔道石がもたらした儲けから考えれば、そんなことは微々たる出費だった。

 一方のカーティスは興奮していた。それも、目一杯。

 ほくほく、どころではない。医者になりたいと奮起して大学へ行ったものの、年々募る不信感と諦めで、彼がどれだけの間理想と現実の差に悩まされたことだろうか。金さえあれば容易に生き延びたであろうあの産まれたての赤ん坊や、かからなくていい肺病にかかって悶え死んでいった老婆の顔。転んだだけなのにそこから化膿して菌が全身に回り、叫びながら死んだ少女。無数の顔、無数の命がよぎっては消えた。救えたはずの命。どれだけ悔しい思いをしてきたことだろう。どれだけ唇を噛みしめてきたことだろう。あまりにも多くの死を見てきた。見る見るうちに冷たくなる身体、赤みが消えて青白くなる肌。こんなことなら、医者など辞めてしまった方がいいのではと思ったことは数え切れなかった。 救えぬ命のために立ち尽くすしか出来ないのなら、そんな過酷なものからは目を背けてしまえと、実際不貞腐れて朝寝を決め込んだ日など数え切れないほどあった。しかしそういう日に限って、入り口の扉を乱暴に叩いて彼を叩き起こす人々の声があった。先生、大通りで台車と馬車の事故でさあ、怪我人が大勢いるんだ、早く来てくれ。先生、河の裏通りの母ちゃんが難産で死にそうだ。助けてくれ。俺はもう辞めたんだと言う前に彼らはまくし立てた。そして医者である以上、カーティスはそれらの声に背を向けることは出来なかった。よしや辞めたと言ったところで、日常的な危険や怪我や死は彼を逃さなかった。 辞めただぁ? 寝言を言ってる暇はねえんだよ、さ、早く来ておくれ。

 握りしめたら潰れてしまいそうな小さな赤い宝石が、ある日自暴自棄になりかけていた彼の人生にひとひらの希望を与えた。胸の高鳴るような希望であった。希望は見る見る現実になった。

 運転にコストのかかる、それそのものも高額な医療機器。彼はそのコストに気を揉むことも、医療機器があればと歯噛みすることも、まったくなくなるわけではなかろうが、その心配は今までとは桁違いに少なくなるだろう。後ろ暗いことなどなにもない。運び込まれた厄介な女を助けようとしたまでのことだ。医者をやっていてよかった、皮肉にも彼はその日初めてそう思ったのである。

 裏通りのヤブ医者先生は、どうやらヤブなんじゃなくて単なる貧乏なだけだったらしい。 本人が何度訂正しても直らなかった隣人たちの言葉は、日に日に変わっていった。今じゃ貧乏でもなくなったらしい。いかにも高価そうな機械やらなんやら、運び込まれているのを見たぜ。俺はレキ通りの宝石商が妙にごつい男たちとあそこに入っていくのを見た。 なんだ先生、やばいことでもしたのかね。いや本人はやましいことはしてないから、今まで通りに来てくれと言っていたぞ。なんでも、治療費はただにはできんが今まで通り、ある時払いでいいらしい。ヤブ先生、お金持ちの暇を持て余したご婦人かなんかつかまえたって専らの噂だぜ。へっ、そりゃああの人は背は高いしああ見えてまあまあのお顔だしな。やろうと思えば二、三人はざっと余裕だろう。

 などと、噂はとどまるところを知らない。

 取り立てて名医というわけではないが、一応は医者だ。三流大学とはいえ、受けるべき教育は受けている。治療費は生活に困らない分を、ある時払いでいいという。俺は日々食えるだけでいいと言ったら、孫の喘息を見てもらった老婆が毎晩夕食を運んでくれるようになった。腰痛もちの農夫が、来るたびにきゅうりだのとうもろこしだのを持ってきてくれる。火傷をして火ぶくれを治療してやった漁師は、次の日バケツ一杯の魚を持ってきてくれた。これこそ、カーティスが夢に見ていた医者と隣人たちとの関係だった。命にかかわらなくてもいい、治す。命にかかわることでも、精一杯のできるだけの努力を。彼は幸せだった。

「さて・・・」

 転んで膝を擦りむいた少女を道の向こうまで見送ってから、彼はひとり呟いた。

「検査でもするか」

 今の彼に望んでいたものをもたらした、あの死神の治療が残っている。課題は山積みだ。

「今日はCT検査をするぞ」

 咳き込んで血を吐いていたブランシェットは唇の端から血を垂らしながら

「しー・・・?」

 と呟いた。

「胸部X線とCTも撮る。あんたの身体がどうなっているかをもう一度きちんと調べるぞ」

「必要ない」

「ある。あんたは俺に法外な治療費をくれた。俺はそれに報いるだけの治療をする義務がある。どうせ動けんだろう。勝手にやらせてもらうぞ」

 ひょい、と抱き上げたその身体はぎょっとするほど軽かった。この女の噂を色々と聞き調べたところ、物凄いを通り越した、ある種神がかった、異様な運動能力の持ち主だということがわかってきた。元のような鬼神にすることはできないが、普通の傭兵ぐらいになら、もしかして戻れるかもしれない。世間的にそれはどうなのか。世界最悪の殺人者が一人減るか増えるか、そういった話だ。しかしまた、この女は好んで殺しをするわけでもないという背景をも彼は知った。ならば、やはり患者の望む治療を施すべきだ。良心と散散に話し合った結果がこれだった。検査は数度にわたってする必要がある。

「動くなよ。大きい音がするが、あんたは大丈夫だ」

 動くなと言われても、好きなように動けないんだったな、と思って苦笑した。

 ごいんごいんごいん、という大きな音がする。

(くそう・・・)

 観念して目を閉じた。自分が乗せられているベッドのようなものがそのまま機械の中に入っていくのが見える。

 一方のカーティスは興奮していた。勤務医時代までしかお目にかかれなかった、高機能の機材だ。これが今俺の、俺だけの診療所にある。俺が診察する俺の患者に使うんだ。

 歓喜は顔にも出たらしい、機械の中に移動しつつあるブランシェットが

「変態・・・」

 と小さく呟いて、おもわず

「うせるえ」

 と苦笑で返した。



 浮かれ気味だった彼はすぐに真実という冷たい現実をつきつけられた。

 結果は、惨憺たるものだった。高価な機器を得て初めての検査結果、それは彼にとって生涯忘れられないものとなるだろう。皮肉だった。このこの女がもたらした最新鋭の機械の数々が、次々に彼女の身体的問題をこれでもかと指差している。間違いであってほしい、それを確認したいがために意味もなく検査結果を印刷してみた。結果は同じだった。それをまじまじと再読に再読を重ねて、彼は両手で頭を抱えていた。髪の毛が毟れるほどに強く。

「なんってこった・・・」

 呟きは虚しく響いた。呟いたところで、現実は変わりようもなかった。

 翌朝、彼はすっかり自分の診療所に住み着いたようになってしまったブランシェットを訪れた。彼はここの二階に住んでいるが、近々土地ごと買い取るつもりだ。そうすれば入院患者を数多く受け入れることができる。その前にはまず、この女を治療し、出て行ってもらわない事には計画は成り立たない。戸惑い、困惑する日々だった。しかしもうそんな暇はない。自分は医者だ。人々が自分を待っている。治療を開始せねばならない。

「どうだ具合は」

 ブランシェットは相変わらず早い呼吸をしていた。うっすらと額に脂が浮いている。 苦しそうだ。

 そんなことを聞かれたのは初めてだったので、ブランシェットは浅い呼吸の中、む、と呻いた。何かがわかったらしい。この男のどこかが変わった。

「苦しい」

 と一言だけ言った。男は側の椅子にギッ、と音をたてて座った。

「うん。そうだろうな。それがどうしてか、これから教えてやる。まず、あんたは片っぽ肺がない。呼吸が全速力で走った後みたいに早いだろう。それは肺が一個しかないからだ」

 なんだと・・・呟いたように思えたが、よくわからなかった。肺が片方ない? 肺というものは二つで一つではないのか。片方がなくなったからといって機能できるもなのか。

「大きな特徴はまずはそれだ。あとはな、恐らく肺が片っぽないのはな、戦場がどこかで刺されたろ。そのとき、心臓の一部も一緒に刺されてる。或いは、いくつかそういう刺し傷があるからかもしれんが、とにかくそのせいで心臓の一部が動かなくなった。CTでよかったよ。あんたの心臓はペースメーカーがついていて、強い磁場には耐えられん」

 ペースメーカー?

 というと貴族の死に損ないのじじいがつけているあれか。

「そういうことを言うもんじゃない」

 男は苦笑いして言った。思ったことがつい口に出たらしい。寝込んで以来、その区別がよくわからなくなった。

「そうだろうな。あんたは今、結構な鬱状態だ。長い間昏睡状態にあったからな」

 そうして男は説明を始めた。

 まず最初に言ったように、戦場で刺された際の傷が原因で肺が片方ないこと。その時、刃が心臓の下の方に刺さり、そのせいでその周辺の心臓が損傷を受け、ペースメーカーをつけているということ。片肺全摘。呼吸が早く、いつも全速力で走った後のような苦しさはこのせいだという。両心不全。座っている方が横になるよりも楽なのはこれによるそうだ。リンパが周らないため下半身が浮腫んでいるのもそれのせいだというが、これはじきに元に戻るという。

 戦場という、ひどく不衛生な場所で複数個所を刺された。そのせいでいくつかの病気になった。

 額に手をやった。よく覚えておらぬ。戦場など、いつもいる。昨日はなにをしていたどこにいたその前の週はと聞かれれば、戦場にいたとしか言いようがない。自分の居場所は戦場で、死に場所も戦場である。戦場は家なのだ。

 まずは気管支拡張症。慢性的に咳が出る、血の痰が出る。発熱や喀血はすべてこれのせいだという。ブランシェットが詳しいことを聞きたがらなかったので男は病気の詳細な特徴をこれ以上説明しなかった。当たり前だ。聞いたところでよくわからないし、聞いて治るならば三百万回でも聞いてやるところだ。しかし現実はそうではない。そして、非結核性抗酸菌症。なにやらまた小難しい病気になったものだ。なんでも、これは水や土壌など自然界のあらゆる場所に存在し、やはり肺血痰が出るのが特徴だという。泣きっ面に鉢だ。 男が言うには、抗結核薬が効かないため、除菌できず難治科しやすいとか。よくわからん、と言ったら男はむ、と言ってそうだろうなと呟いた。治らないことだけはわかった。 それと、感染性心内膜炎。

「だるいだろう。なにをするにもけだるい。熱も出る。頭痛はするし、吐き気もするし、実際あんたげえげえ吐いてるしな。貧血もひどいはずだ」

 風邪と変わらんではないか。それはまた言葉に出たらしい。男はそれが風邪だったらいいんだがな、と真顔で言った。いつものように苦笑いで済むようなことではないらしい。 運動すると血を吐くから長期的なリハビリが必要だと男は言った。

 肌がざわついた。治療が必要だからというのでこうしてここに留まっているというのに、こんなにも時間がかかりそうだとは聞いていない。おれはいつ戦場に戻れるのだ。

 カーティスも説明している内に鬱々となっていた。もう一度説明することで、自分に死刑宣告をしている気分になった。両心不全というだけで、もうかなりの重傷なのに、まるで呪われたかのようにこの女にはそれ以外の症状が診られる。新しい、いくつもの刺し傷。 この女は一体どういう戦場にいて、どういう戦い方をしてきたというのだ。誰がしかの恨みをかっていなければ、こんなに深く何箇所も刺されないのではないか。それともそれは自分が民間人だからで、傭兵というのは普段、そういう戦い方をするものなのか。勘弁してくれ。医者が何人いても足らない。自分の日常は民間人のそれでいいと思った。

 カーティスはその時、金持ちの医者たちが対面している現実を知った。連中はより悲惨な生と死とを見つめて高価な機器類を得ているということに気づいたのだ。その途端吐き気がした。彼らを羨んでいた。どこかで嫉妬し、同時に見下してもいた。しかし違うのだ。 風邪だの転んだ傷だの、機器がなくてもなんとかなるものたちに、奴らは向き合っているわけではない。吐き気がするほどの、臓器と血と病原菌との対面。それが金持ちの医者の、つまり医療機器に恵まれた医者たちの現実だ。それは果たして幸せなことなのか。横町のばあさんの咳が止まったと言って喜び、川の向こうの長屋のおかみが難産だといって走り回る、そんな自分の日常とはかけ離れた濃いものだ。濃ければいいのか。薄くて何が悪いのだ。俺とて遊びでやっているわけではない。しかし吐き気が止まらずに、彼はすまん、とブランシェットに言ってから席を外し、盛大に吐いた。守ってきた平穏な日常。平凡な静かな日常を、どこか憎んでも、疎んじてもいた。しかしそれは大間違いだった。貧乏な医者は救えない命に直面して貧乏を恨むが、金持ちの医者は救い難い命に直面して金持ちを恨む。清貧は正義だと思っていた。しかし違った。命に正義もなにもないのだ。

 そして彼は今、貧乏な医者から、金持ちではないにしろ貧乏ではなくなった。今まで無意識に蔑んでいた医者になることになって、戸惑っている暇すらもない。目の前の女をなんとかしなくてはならないのだ。吐いている場合か。

 部屋に戻ると、彼は治療方針を書き出した。そうでもしないと頭が混乱して何事も捗らなかった。気管支拡張症。マクロライド少量長期療法、気道分泌物、つまり痰の排出を促進する。止血薬の投与。血管強化薬としてはカルバゾクロムスルホンナトウリウム水和物、抗プラスミン薬、トラネキサム酸。去痰薬には気道粘液溶解薬にプロムヘキシン塩酸塩を、気道粘液修復薬としてカルボシスラインフドステイン、気道潤滑薬にアンブロキソール塩酸塩を充てる。頭が段々と整理されてきた。非結核性抗酸菌症は除菌できず、難治化しやすい。抗結核薬が効かないという難点がある。肺葉切除という外科療法を考えられた。両心不全に関しては原因疾患の治療・酸素投与、利尿薬、カテコラミン投与により血行動態の改善を図ることができるだろう。また、長期予後の改善の為にβ遮断薬、アンジオテンシン変換酵素阻害薬、アンジオテンシンⅡ受容体拮抗薬などを用いたほうがいいだろう。 尚、カテコラミンは急性憎悪時には有効だが、長期予後には悪化するため注意が必要だ。 ジギタリスは予後の改善はみられないが、強心薬として多用できるだろう。

 一般的な治療としては前負荷の軽減とうっ血の改善の為に塩分・水分の制限、低カリウム血症やジギタリス中毒を予防するためにカリウム補給、そして運動制限だろう。過度の安静は心不全の悪化を招く。

 カーティスの中で医師としての何かが燃え始めていた。それは、自分の中にあった金持ちでしたい治療を施せる医者に対する嫉妬と羨望と蔑みに気が付き、その蔑視の対象こそに自分が突然なってしまったという戸惑いと怒りの中から、医師としての使命がそれらの感情をかき分けるようにして芽生えてきたということであろう。

 彼は綿密な治療方針を書き出すのと同時に、処方箋を書き出した。ふつうの処方箋は一度出して薬を貰えばなくなるが、特別処方箋というものがここに存在する。ブランシェットのように慢性的な難病を抱えた患者で、しかも自分の元にずっと通うとは限らない人間は少なからずいる。それを、マイクロチップにして皮下注射することによっていつでもどこでも同じ薬が処方される。機器としてはそう高価なものではなかったのでこれは購入した。下町には喘息もちやらなんやらで突然カーティス以外の医者にかからねばならないことがある。それを見越して購入したが、暗にブランシェットのためだけを考えていたと言っても過言ではない。邪魔になるものではないし、あればあったで使うこともあるからと、金に余裕ができて初めて考えたことでもあった。皮肉な。

 検査に次ぐ検査の日々であった。治療には万全を期さねばならない。間違った処方箋を書けば、それはそのままブランシェットの生命を直接左右することになるのだ。慎重に、完璧に。カーティスの診療所の灯りは連日遅くまで消えることがなかった。

 俺は金持ちが嫌いだった。金持ちの医者はもっと嫌いだった。あいつらを軽蔑していた。 しかしそれは僻みからくるものだというものも心の中でどこか知っていた。医者になってわかったことは、貧乏人は食えなくて死んでいき、金持ちは食いすぎて死んでいくということだった。だから俺は清貧を善しとしてやってきた。しかしもうそれはやめた。貧乏人を相手に、金をとらない医者だった。しかしこれからは違う。金持ちも相手にする医者になる。しかし金持ちからは充分すぎるほどの金をもらって治療していく。下町の医者は、実は金持ちにとっては業界のことがバレないので使いやすいという利点がある。もちかければ、肺病病みの愛人の定期的な面倒や、隠し子の一人や二人の引き取り手など、引きも切らない仕事は山とあるはずだ。それらの仕事の料金が法外だとて、金持ちには痛くもなんともないのだ。ならばとればいい。その充分すぎる余った金で、病気の赤子を診せられない母親や咳が止まらない老婆を救って何が悪いのだ。したくてもできなかった。だから斜に構えて、清貧を気取っていた。しかしもう違う。とるところから充分以上にとる。それを貧乏人に充てる。それこそが自分の目指していたものではなかったのか。切り傷だの転んだだのの治療は、大学に行ってまで学んだ人間の主な仕事ではない。

 転がり込んできた死神が、彼に転機をもたらした。それは幸運の転機だった。無気力な医者は今日で終わりだ。

 カーティスの仕事は、今日も遅くまで続きそうだった。



「こんなことができるかくそ野郎が」

「あんた死神なんだろ。じゃ地獄は見てきたわけだ。これぐらいできないと戻れないぞ」

 む、と睨み、大粒の汗を額に浮かべながら、ブランシェットは前を見据える。光に当たると時々、左右微かに色の濃さの違う瞳に目が行く。

 リハビリは文字通り地獄の様相を呈した。普段なら、カーティスはこんなメニューを組まないぐらいの無茶をブランシェットにさせた。理由は知らんが、この女は早く戦場に返りたいらしい。ならば相応のリハビリをさせなければ、身体は適応できない。できないのであれば、させればよいのだ。

 しかし意識が目覚めてカーティスの元に運ばれるまで、彼女は昏睡状態だったわけだ。 植物状態だった間に、鬱の症状は確実に彼女を蝕んでいた。鬱というのは要するに、脳が健全になるための色々な化学物質が運ばれる血管が何らかのストレスによって詰まり、それが滞るせいで脳が機能できないことである。脳がきちんと機能しないとどうなるか。

「・・・だるい」

 死ぬほどだるい、と死神は呻いた。目の前の段差が越えられない。階段すら、手すりに両手で掴まって手の力で身体を持ち上げるようだ。それもえらく時間がかかる。吐き気もひどい。実際、カーティスが見守る中で道路の向こう側に行くのに、陸橋を渡らせたら片道で十五分近くかかった。健常な身体ならば三分程度でできることだ。しかし鬱は、どうしても乗り越えなければならない課題でもあった。肺がなかったり、心室不全を抱えたこの身体は、大量の投薬治療を長年に亘って続けなければならない。副作用も多少あろうが、運動ができなくなったらすぐに鬱になる。そのために治せるものから手を出したかった。鬱なぞ、投薬で治るものなのだ。肺がないのよりなんぼもマシだぞ。カーティスは言っていて自分で嫌になるほど言い続けた。

 彼が彼女の旅についていけない限り、そして彼女が旅を続ける限り、ブランシェットが自分の病気を理解し、それと向き合い、自分である程度コントロールできるようになるということは必要不可欠な課題でもあった。座学ともいえる治療の説明は懇々と続けられた。 患者が失神することも多い当初は、治療そのものが困難を極めた。身体がどう機能してどう機能しないかがわかっている医師のカーティスですら、もどかしいと思われるほどの時間と気力がいった。ブランシェットはよく耐えた。時にやりすぎと思えるようなことにも、彼女は唇を噛みしめて耐えた。くじけそうになっても、そんなことじゃ戦場に戻ってもすぐに取られ首だな、と冗談まじりで言ったのに、む、と呻いて大抵は立ち上がった。 カーティスはある時期から、それを冗談にしなくなった。血を吐きながら、ブランシェットは転んでも転んでも立ち上がった。自分に限界を作ってこなかったのか、平気で失神するような真似をする為、身体がこれこれこうなったりこう感じたりしたらやめるんだ、戦場で失神したら命とりだぞ。と度々言わねばならなかった。

 食欲の減退も大きな課題だった。なにしろ鬱だと食欲がなくなる。ブランシェットは片肺がないということをよく理解せずに、とにかく食べれば良かろうとものを詰め込み、詰め込みすぎてむせては吐いた。あまりにも無茶をするので、

「医者は掃除が仕事じゃないんだぞ」

 と言ってやらなくてはならなかった。この女は、そういった通常通るものの道理というものが、言わないと通じないらしかった。

 ブランシェット本人も辛くないといえばそれはまったくの嘘だった。まず、辛いと辛くないの境目がわからない。無理をするなとこの医者は言う。しかし自分はいつもこうしてきたのだ。無理などしていない、これが自分にとっては普通なのだ。

 しかし思うように身体が言うことを聞かないことだけは無視しようのない事実だった。 身体が鉛のように重い。気分が晴れないし、気持ちはどよどよしている。吐き気がとまらないのに、特に吐くものがないのも鬱陶しい。食事をしなくてもまったくのく平気だが、そうすると身体がぐにゃりとなって途端に立ち上がれなくなる。無理に食べようとすると吐く。

 胸も相変わらず痛い。じりじりじりじりと、乾ききった血管が腫れているかのようにひりひり痛いのだ。枯れた木。自分をそんな風に感じた。いつの日か見た、砂漠で渇ききってそこに立ち尽くす死んだ木。力を入れれば、枝などいともやすやすとぽっきり折れる。

 ちょっと動いただけのつもりが、すぐに血を吐くようになった自分の身体の変わりようにもうんざりしていた。片方の肺がない、ということがよくわからない。肺というのは二つで一つのものであろう。なぜ片方がなくて機能できる。待て、片方ない代わりに、残った片方が二つ分の仕事をするということなのか。それに、心臓の一部も機能していないらしい。胸にあった生々しい手術痕は、一部はペースメーカーを入れた後のものだという。

「磁石とかな。方位磁針とかならいいが、強い磁場のあるものはだめだ。MRIをとらなくてよかった。あんたのマイクロチップにはそれも書いておいたが、緊急というときに検査されないよう、あんたも知っておいてくれよ」

 と、若い医師は言った。

「近づくとどうなる」

「不整脈で死ぬよ」

 いともあっさりと彼は言った。ふせいみゃく、というものがブランシェットにはよくわからなかったが、心臓がきちんと機能しないもののようだ。説明は求めなかった。求めたところでわかろうはずもない。

 あられもない衝動がブランシェットを襲う。戦場に戻りたい。なぜかはわからぬが、戦場に戻りたい。その衝動が彼女をいつも突き動かす。なぜだろう、と自分でも思う。こんなに苦しいのに、こんなにしんどいのに、なぜか戦場に戻りたくてたまらない。自分の居場所は戦場にこそある。理由も根拠もない衝動が彼女を困惑させる。

 しかしそれは自分でも納得できようというものだった。ついぞこんなに長い間、街中にいたことなどないのだ。それがどうも落ち着かない。いてはならない場所にいるような、場違いな気がしてならないのだ。そわそわする。人々が自分を見る目が気になる。なんであんたこんなところにいるの? ここは人ごろしのいる場所ではないよ。掴み掛られる妄想に駆られる。リハビリもつらい。

 鬱とやら、厄介だ。どうしてこんなに陽の光が眩しくて、身体がだるくて重いのだ。物事が前向きに見えない。後ろ向きにしか捉えられない。食事が喉を通らない、そもそも食べたくならない。食べたくない。しかしそうするとごん、という音がして頭を壁に打ちつけるほどのひどい眩暈が起こり、遠くでがたーんとかばたーんとか大きな音が起こっているな、と思っていたら自分が卒倒していたりする。まったくもって話にならない。若い青年医師は言った、鬱の症状は必ずよくなる、他の病気と違ってこれは治ると唯一保証できる。ならばまずこれから取り掛かろうと単純にブランシェットは決意した。定刻に起きる、日光を浴びる、食事を摂る。無理をしない。この、無理をしないというのがブランシェットには理解がなかなか難しく、しょっちゅう無理をしては倒れたり気絶したり吐血したりして若い医者を困らせた。頼むから無理をしないでくれ、と言われて、む。と呻いた。

「おれは無理をしているつもりはない」

「だが身体がこう反応してるんだから無理になってんだよ。あんたはどうやら無理を無理と思わないで生活してきたようだな」

 カーティスはやれやれと溜息をついた。ほとほと困っているようだった。おや、と思った。なるほど、無理をしておれが倒れるとこの男は困るらしい。それはそうだ。毎回吐瀉物や吐いた血を片づけ、倒れた拍子にあちこちのものを薙ぎ倒しているのではあちらも仕事になるまい。平生自分は医院の奥の部屋で休んでいるが、この男を訪ねてくる患者はひきもきらない。大抵は大したものではないようだが、なかには長患いで困っていたり治療が困難、或いは可能でも多額の治療費がかかるような病気の者もいるようだ。具合が悪く眠っていたが、なんとなくやりとりが聞こえた中でもおや、と覚えているのは、

「これからはもうちょっとちゃんとした治療をしてやれるようになったから、諦めないで頻繁に通ってきてくれ。治す保証はできないが今よりは良くするから」

「おやおや若先生、一体どうしたんだい。最近ずいぶん景気がいいようじゃあないか。見たところ、なんだか小難しい機械が置いてあるけれどあれかね、あの噂は本当だったかね」

「なんだい噂ってのは」

「先生が金持ちの未亡人といい仲になって援助してもらってるってこの辺じゃもっぱらの噂だよ。そうなのかね」

 激しくむせる音。

「婆さん勘弁してくれ。そんな才能俺はついぞ持ち合わせちゃいねえんだ。出来てたらとうの昔にもっと偉くなってる。ほれ、処方箋。ちゃんと薬局でもらって飲むんだよ。ついでにそのいんちきな噂も大きなデマだって吹聴しておいてくれ」

 へいへいと老婆が腰を上げる気配がして、その後は眠りが深くなったのか、よく覚えてはいない。

 なるほど市井の医者というものはこういう者もいるのだ。おれのやった魔道石、あれは庶民にはよほどの値段だったらしい。しばらくばたばたとしていたのはそのせいだったのかもしれない。あの程度の石、三回位の戦で得たようなものだった記憶がする。多くの傭兵たち同様、ブランシェットは『鉄銀行』を信用していない。連中の守りは固く、それは強度な要塞のようで、それでいて相手を選ばないということもある。あいつらが信用するのは金のみで、かの大乞食ローレンですら利用しているあたり、なるほど金を預ければ名の通り鉄の保証をしていられるらしい。しかしその保証をすら、ブランシェットは信用しない。信用なぞ、とうの昔に鉄のごとく錆びたのだ。しかし今皮肉なことに彼女は、あの若くて親切な医者を信用しないことには居られないのだ。民間人は傭兵の集まる酒場や口寄せ所などという物騒な場所には行かない。そういった場所は民間人の行く場所とは少々かけ離れた場所にあるし、だからこそ噂も耳に入らない。しかし戦場に生きてきたブランシェットの本能が、何か物凄く大きな危険が差し迫っていることを随時警告している。戦場に戻らねばという焦りはそのためだろう。自分がいて一番安全な場所は、いつもいる場所、つまり戦場なのだ。そのためには、一刻も早い治療が望まれる。

 戦場--------ああ、思い起こすだけで戦慄する。

 顔を上げると、累々たる死体があちこちに散らばっている。それを踏みしめ蹴り出し、走り回る兵士たち、或いは傭兵たち。ああ、空が赤い。

 ワー・・・

 ワー・・・

 耳鳴りがする。人の叫び声と、砲弾の轟く音。時々落ちる影は、多分戦闘機だろう。それぞれの音が合わさり、不協和音となって耳鳴りとなっている。もうそれは慣れた。隣で誰かががなっている。不思議なことに、そういった近くの人間の言っていることだけはなんとなくわかるのだ。唇を読んでいるせいもある。

「右から大勢来るぞ! こっちの魔道隊はどうした!」

「大砲で時間を稼ぐぞ! 構え!」

 後ろから気配がした。大砲が来たのだ。大砲の前に立っていてもあまりいいことはない。 ブランシェットは慌てて大砲の後ろへ動いた。顔見知りが二、三人いる。目と目、うなづきあってそれで終わりとする。前の戦では敵同士だったかもしれぬが、今はこうして同じ砲台の後ろで支度する味方同士だ。砲弾が籠められたようだ。火がつけられた。耳を押さえるが、目は閉じない。打った後の様子を見守る必要がある。

 ずぅん、という胃の腑からひっくりえるような凄まじい衝撃のあと、世界が無音になった。同時に、目の前が真っ白な煙に覆われ、次いで向かって右方で大きな爆発が起こった。 ちかちかする目をしばたいてどうにか誤魔化しながら立ち上がる。硝煙が目に染みて涙が出た。土が巻き起こり、顔が赤く照らされる。飛び散る身体の数々。行くぞ、と側で誰かが言うのと同時に飛び出していた。反射的にブランシェットも飛び出す。蟻の巣を壊したように、右手の丘から兵士たちが飛び出してきた。味方と敵と、少しこちら側でぶつかり合った。ブランシェットは素早く動いた。下から突き上げて払うように一人。生死を確認せずに左の三人の首辺りを薙ぎ払う。一番右だけ仕留め損ねたが、顔に傷がついていたので短剣を引き抜いて腹を刺した。顔が生ぬるい。返り血を浴びたようだ。耳鳴りはまだ止まない。それなのに、左斜め方向から大声で飛びかかってきた男には気がついた。振り返ったときには、男は大きく飛び上がって大上段に構えていた。む、思わず声が出る。  膝を曲げて飛び上がった。そのまま空中で腹を裂く。これが、ブランシェットを知るすべての傭兵たちが恐れる彼女の超人的な跳躍。この女は、ひと飛びで地面から二十段以上の階上まで行くことができるのだ。ブランシェットは地上に目を向けた。戦っている味方、自分を見上げている敵、絡み合う視線と目線。空中で身体を丸めた。次の瞬間の衝撃で、着地したことを確認するとそのまま腰の両方に挿していた短刀を抜く。短剣よりも短く、鋭い。身体を丸めていたせいで着地のダメージはほとんどない。群がってきた敵の二、三人の肝臓近くを瞬く間に刺した。人を殺すのに、一番簡単なのは腹だ。心臓を狙ってくる新兵たちがいるが、それは大きな間違いだ。肋骨が邪魔しているせいで、刃を横にして平らにして狙わねばならない。しかも、それでも骨に当たる確率は高い。よしや成功したとして、引き抜くのに両足でもって踏ん張らないと抜けない。肉は刃を受け容れると食い込んで、簡単に離したりはしないのだ。心臓を狙うなどと、阿呆のすることだ。と、突然頭上後ろからごぉんごぉんというけたたましい轟音が鳴り響いた。

 軍艦だ。形は小さい。

「伏せろ!」

 近くの溝に飛び込むか飛び込まないかの内に、足元が熱くなってぱちぱちという刺激がした。火花ぐらいにはやられたか。同時にバラバラになった誰かの身体が飛んできて、ブランシェットはペッ、っと口の中に入った肉片を吐き出した。足を見た。火傷はしていないようだ。

 バリバリバリバリバリバリ、という轟音は遠くなっていったと思っていたが、また戻ってきて上を飛んだ。そのたびに地面が吹き飛び、人が吹き飛んだ。

「どん詰まりだな」

 這い寄るようにして隣まできた味方の傭兵が話しかけてきた。

「ああ」

 ブランシェットも答える。こうして上から爆弾を巻き散らかされては、出られるものも出られない。吹き飛ぶのが落ちだ。土が顔まで飛ぶほどの爆発がするのと同時に、世界はなくなったのかと思うような轟音で耳が聞こえなくなった。しばらくするとその音はまた遠のいていった。

 ブランシェットの本能が叫んだ。彼女は立ち上がり、

「誰か! 大剣だ!」

 と叫んだ。

 大剣? 大剣だと? という呟きの向こうから、おう、と大音声が届いた。それと同時に、大きな何かが空気を引き裂いて大きな大きな剣が空を飛びそのままそこに転げ落ちた。 刃の幅はおよそ三十センチ、刃渡りは二メートルにも及ぶその名の通りの大剣だ。重さは四十キロ。それとわかっていて、男たちは一部は訝し気に声にしたのだ。こんな細い女が大剣をどうしようというのだ。持てるはずもなかろう。しかしそんな彼らの思惑を無視して、がらんがらんと地面を跳ねている大剣をブランシェットは両手で拾った。そのまま、大きく身体を動かしてぶん回す。どけ! 誰かの声が近くでした。ここは窪みになっている。戦闘機はここに爆弾を落そうとして近寄ってくるだろう。初めは、大剣を両手にふらふらとしているようにしか見えなかった。しかそれも、見守っているとすぐに、遠心力でもってしてぐるぐると回り始めていることに気付く。

「来るぞ! 二時に北三度だ」

誰かの声を頼りに、ちらりと空を見る。二時の方向。

「数えろ!」

 叫んだ。

 五・・・

 ごぉんごぉんと空が唸る。四・・・

 三・・・・・・

 ばりばりばりばりばりばりばりばり、という例の音が轟轟と耳を刺す。ああ、うるさい。 うるさいのは嫌いだ。二・・・

「今だ!」

「でぇぇぇぇええええいいややああああああああっ」

 回るのをやめたその勢いに任せて、ブランシェットは大剣を上に突きつけたまま飛んだ。

 ごぎぎぎぎぎぎぎぎぎ、という不愉快な金属音と共に、手が抑制できないほどの振動に襲われた。自分は今飛んできた鳥に槍を突いたが如く、大剣を飛行船に突き立てているのだ。がががががが、という手応えと音。叫び声、エンジンが爆発する音、悲鳴、火。ちらりと下を見た。飛行船はバラバラと音をたてて傾きつつある。黒煙が出ている。墜落する前に降りねば、と思うのと同時に、手が大剣を放していた。風の向きが見える。ひらり、それに乗り、ブランシェットはそのまま膝を曲げて大きく着地した。その次の瞬間であった、左手で衝突音と同時に大地がひっくり返ったような轟音がとどろいた。さっきの飛行船が墜落したのだ。

 ブランシェットが飛行船を落としたぞ! 今日の一番手はブランシェットだ!

 誰かの歓声が聞こえた。ふん、と呟いて、ブランシェットはちょうどそこに落ちていた剣を拾って走り出した。

 向こう側に見えるのは夕焼けなのか、或いは爆発の名残なのか、

 それとも血の空なのか・・・----------

 と、そこで目が覚めた。窓から今の今まで見ていたような赤い空が見える。夕方なのだ。

 夢か。

 起き上がるのも億劫であった。しかし周りを見渡す余裕程度はあった。静かだ。いや、よくよく耳を澄ますと、遠くで子供の者であろう声と足音がする。家路を急いでいるのか。目をじっと閉じた。

 子供などという存在は、決して身近なものではない。身近なとき、それは殺す対象が子供のときに限られる。

 子供だけを狙って殺したことは、記憶の中ではない。皆殺しを命じられて行った先に子供がいた、そのパターンが一番多いだろう。ブランシェットの生活の中には究極的な意味で生きる、生き延びるということと、同時に殺すことで生き永らえるという矛盾があった。 誰でも持ち合わせる矛盾であった。そう、金がないと治療ができない貧乏な医者のように。顔にじっとりと汗をかいているようだ。手で反射的に拭おうとしたが、手がうまく動かない。ブランシェットはうんざりした。またか。頭で命じる。動け、手、動け。

 こんなことでは戦場に戻れないぞ。

 すると不思議なことに、手はそれに従うかのようにする、と軽くなったようにも感じられた。そうだ、戦場に、おれは一刻も早く戻らねばならん。なぜかとあの医者は聞く。なぜかなどと考えている暇はない。答えは戦場にあるだろう。

 これでも自分の回復力は驚異的らしい。元のようには動けないが、日常生活ならなんとかなると医者は言った。ブランシェットの日常とはつまり戦うことだ。彼の言う民間人の生活ではない。ブランシェットはそれ相応の覚悟をもってして日々の治療を受けていた。 自分の筋肉は限界まで鍛えられているから、元に戻るのにそう時間はかからない。ばねをおさえつけていても、手を離せば反動で戻るのと同じだ。問題は抱えている傷と、その傷によってもたらされた多くの病。それをきちんと理解して時に自分を騙し時に病そのものをも騙し、付き合っていくことを考えていかねばならぬのだ。これは弱点だ。致命的な弱点。しかし弱点をすら、ブランシェットは強みに変えようとしていた。弱者のふりをしていれば、相手の油断はいくらでもつけようというもの。

 ふう、と息をついて起き上がってみた。案外容易くできた。その際、ふと見やると、左手の中指に指輪があるのがみてとれた。

(これは残っていたか)

 それは瞳の形をした指輪だった。輪郭をぐるりに持ち、中心に青い石をあしらっている。夕日に透かして見ると、それは左から右にかけてグラデーションを描き、水色から濃い青になっている。魔道石ではない。ただの宝石だ。ちょうど戦が終わり宝石屋に行ったとき見つけたものだ。左右違う自分の瞳に似ているような気がして、値札も見ずに手に入れた。 どこの宝石屋でもそうしているように、ただの宝石を買う客には加工を勧める。ブランシェットも勧められた。初めは興味がなかったが、身に着けていないと失くしてしまいますよと言われそれもそうだと大して考えもせずに指輪にした。首から下げると邪魔だし、手首回りにものがあるのも嫌だったが、肝心の剣を持つ手になにかをつけることには拘らなかった。それでも、なるべく付け心地がいいように、つけていてもつけていないようにしてくれと注文した。職人はよほど腕が良かったのだろう、今の今までつけている自覚もなかった。どの戦場でも、この瞳は自分を見つめていた。血を浴びる自分、鬼のように髪を振り乱して暴れる自分を。

 裁量の目だな、と誰かに言われたことがある。まるで俺たちのやっていることをじっと見つめて裁いているようだ。ふん、と鼻で笑った記憶がある。

「戦場に善悪なんぞあるか」

 と。

 事実だった。善悪は勝敗によって決められ、戦を手配した貴族たちにこそ降りかかる。自分たちはただ戦うだけ。彼らの持っている、末端の駒に過ぎないのだ。いいか悪いかで誰かの目を気にする間などない。戦い、生き延びるだけだ。

 身に着けられる指輪と違って自分の愛剣は戦場で失くしたようだった。長い間をかけて探し、少なからずの金をかけて作った剣。片刃で、切っ先だけがゆるやかに反り返っている。握り手を掴むと、まるで初めからそこにあるかのようにしっくりときた。その握り心地は絶妙で、持っていて持っていないような感覚をもたらした。振り回すのに軽すぎず重すぎず、まるで空気を纏うかのように手袋のように誂えた。時間も金もかかったが、それに応えた出来だった。今頃はいずれかの地で錆びてほうられているか、或いは誰かの手に取られてまた血を吸っているやもしれぬ。惜しいことをしたとも思うが、同時に今の自分に扱える代物ではない。なら無いも同じだ。要らぬものは無くてよい。人生のほとんどを家も持たずに暮らしてきたブランシェットの、これが考え方であった。物に固執しても仕方がない。いずれは壊れるか、手元を離れるかのどちらでしかないのだ。

 剣は離れ、指輪は残った。ただそれだけのこと。

 それにしてもあのに混乱の中よく残っていたものだ。足環の魔道石同様、おれを捕らえた奴らはそんなことにはこだわらなかったと見える。

 次第にではあるが、ブランシェットは思い出しつつあった。

「・・・--------・・・」

 自分はあの日、刺されたのだ。

 


 ワー・・・

 ワー・・・

 飛び交う怒号と爆撃の音。戦闘機の唸り、味方の怒鳴り声。遠くから聞こえる、閧の声。

 うねりのように轟き、波のように響く。普段のようにあの愛剣を振り回していた。もう何人手にかけたことだろう。

(・・・・・・・・・)

 飛び散る血と汗。何か違和感があった。向かってくる兵士、共に立ち向かう傭兵、彼らの視線が気になる。ちらり、と自分を見る。普段はそんなことはない。兵などは、ただの風景だというのに。今日はなにか違う。目だ。皆の目が違う。自分を見るあの目。なぜ、あんな目で見るのだ。まるで獲物が目の前にあって、いつ獲ろうかと思いあぐねている獣のように。狙っているかのように。

 狙われる?

 おれが?

 何故?

 そんな疑念は頭を振るのと同時に振り払った。余計なことを考えると、それが雑念になる。雑念は判断を鈍らせる。それは即刻死を意味してしまう。

 剣戟をかわし、何人かを倒し、導かれるようにブラシェットは丘の上まで来ていた。ここから向こうまで見渡せる。空が赤い。血のように赤い。

「いたぞ!」

 誰のことだ。誰か、狙うべきがいたのか。

 その瞬間、腹の底から突き上げるような衝撃が奔った。ご、という音がした。今思うと、それは骨を貫かれた音であろう。なにが起きたのかわからなかった。身体が動かないのだ。 ごふっ、と血を吐くような音がして、誰かを刺したのかと目をやると、自分の手が真っ赤になっていた。口の中が鉄の味がする。熱い。待て、血を吐いているのはおれだ。

 そうして顔を上げると、自分は左右を二人の男に挟まれている。途端に激痛を覚えた。

 刺されたのだ。しかも両脇から。

「ぐ・・・」

 呻いた。無様な。刺されるとは。そう思ったのを覚えている。無様。

「獲ったぞ! ブランシェットを獲った!」

 自分を刺した男の片方が叫んだ。どういう意味だ。獲った?

「俺もだ!」

 片方も叫んだ。耳鳴りがして、それ以外のことは聞こえない。頭に血がのぼったのか、顔が熱くなり、すぐに寒くなった。身体が意味もなく震えている。

 獲ったぞ! 大金貨一千万枚だ!

 そんな声が遠くでした。その後は覚えていない。崩れ落ちたのか、なにか大きな衝撃が全身を打つ。全身を大きく打つ痛みが奔る。

 闇----------。



 その後の記憶は途切れ途切れだ。喚く男たち、フードを被った何人もの男たち。これは魔導師か、或いは医導師たちであろう。担架。

 閣下、出血がひどすぎます。お屋敷までは、もちますまい。

 輸血がある! 保たせろ。死なすな、必ず生きて連れて行く!

「この女は-----」

「この女はわたしのものだ!」

 閣下とは誰だ。マスクを被せられる。呼吸が苦しい。寒い。ごぅん、ごぅん、という地響きとともに、がたんがたんと地震のような揺れが襲った。直後、地面から無理やり引き剥がされるような重圧を感じた。これは経験がある。飛行船が離陸したのだ。ごふっ、と咳と共に血が出た。側にいた白衣の男がなにかを叫んでいる。無理だ、こんなの------死ぬぞ! 死ぬとはおれのことか。そうとも両脇を刺されて死にかけている。おかしな戦場だった。目くばせをしあう男たち、自分を伺い見る兵士たち。何かがおかしい。新たな重力が加わって、途端に意識を失った。何も聞こえなかった。

 ピー・・・

 ピー・・・

 規則的な音が遠くで聞こえる。なんだ、病院か? 消毒液の匂い。それに、ローブの人間が何人もいる。ここは高等病院だ。魔道から力を得る医学は魔道の一部でもある。よって医師になる者は基本的な魔道の知識を持たねばならず、そこから興味が移り変わって魔導師になる者も多いと聞く。また、魔導師の立場から医学を学び指揮を執る者もいるため、高等病院には医導師が多く見られるのが特徴だ。なにがあった。刺された。刺されてそこで、高等病院で治療を受けているのか。なぜだ? 一介の傭兵であるおれの命を、そうまでしてなぜ救う。おれはただの人殺しだぞ。

 身体の感覚が一切なかった。指を一本動かすこともままならぬ。目を薄く開けて、また閉じた。

 耳に神経を集中させる。

 ピー

 ピー

 ツッツッツッツッ

 それ以外には何も聞こえてこない。いや、時折囁き声のようなものが聞こえる。聞こえるが、なにを言っているかまではわからない。

 感染が・・・それに・・・・・・部分の損傷が・・・のままでは・・・・・・・

 なんだ、と思った。

 ここまで連れてきて、助けるぐらいしろ。

 そこへ被せるように、誰かが怒りと共に歩く足音が聞こえた。それぐらいわかる、相当怒っていないと、あんな足音はたてない。足音の主はまたて怒鳴ってもいた。お怒りなのだ。声が遠いから、部屋の外かなにかであろう、何を言っているかはわからないが、どうにかしろというようなことだけは辛うじてわかる。そう、どうにかしろよ。と思っていたら、バタン! という乱暴な音と共に誰かが入ってきた。音が急激に増える。

「閣下、困ります、絶対安静です」

 だから閣下って誰だ。

「話が通らんぞ。生きてはいるのだろう。助けろ! このまま死なせるわけにはいかぬ」

「そのお話ですが、非常に・・・」

「助かる、生き延びるという話以外聞かぬ! 必ず助けろ」

 そう言って閣下はどすどすと出て行ってしまった。そうだ、誰だか知らんがこの閣下様の言うとおり、ここまでするならちゃんと助けてくれよ。

 ピーッという音がして、その後音が不規則になった。途端、意識が落ちた。

 覚えているのはここまでだ。


 完全に横になると苦しいので、ブランシェットはクッションをたくさん入れて半ば起き上がっているような寝方しかできない。そうすると呼吸は横になっているときよりは楽だが、いまいちきちんと睡眠をとれている気がしない。横になっていろ、とは言葉ばかりで、横にはなれないからこうして半分起き上がって休んでいるというわけだ。そうやって休みながら、ブラシェットは考えていた。あれはただの夢ではない。あれが断片だとしたら、あの閣下様は一体誰だ? そしてなぜ、あそこまでしておれを助けようとした? あの青年医師は、おれの状態は生きているのが奇跡のようだと当初言った。死んでいてもおかしくないほど重傷だったと。生きている方が不思議だと。つまり、あの日の閣下様の願い通り、医導師たちや医師たちが奮闘しておれは助かったわけだ。ならばなぜ、おれは今ここにいる。閣下様の側にいるはずだ。彼が、なぜそこまでおれを助けようとした理由もわからぬままに。

 頭に手をやる。

 世界中、閣下と呼ばれる男は山のようにいる。はて、閣下とまで呼ばれる格の高い男に命を守られるようなことはした覚えはない。接触もない。助けられたのに、ある日突然知らない部屋に放置されるような関わりを持った覚えもない。

 青年医師が調べてくれたことによると、あの部屋は一年のみの契約で、匿名で大金を積んで一方的に契約を申し込んできたので、大家もよくは知らないらしい。金さえ払えば、この世はなんとでもなってしまうのだ。

 呼吸が荒い。自分が一生懸命息をしているのが嫌でもわかる。肺が片方ないからだ。なのに、自分は戦場に戻りたくて仕方がないのだ。危機感すら覚えている。今、戦場にいない自分に危機感を持っているのだ。青年医師は普段の生活が戦場だったからだろうと言った。それもあろうが、果たしてそれだけだろうか。何かが呼んでいる気がしてならないのだ。しかし、身体の自由がきかない今は、治療に専念するしかない。とにかく、できることを片っ端からやっていって、できる限りでいいから動けるようにならねばなるまい。そのためには文字通り、何度血を吐いたところで構うまい。

 記憶はそのうち戻るだろう。筋力もそのうち戻るだろう。では体力をつけるしかない。 かつての自分に戻ることはできないが、今の状態から脱することは可能なはずだ。身体がだるい。熱があるのだ。ぼやける視界のまま左腕を見る。手の甲から手首の間辺りに指をめぐらすと、慣れた感覚があった。きゅ、と押すと、そのまま半透明の窓が手首から出てきた。マイクロチップに埋め込まれた自分の既往症と持病、それに対応する現時点の治療方法と投薬方法と治療薬の種類が記録されている。これは変わればその都度更新されるそうだ。たとえば、現在は気管支拡張症の治療のため止血薬の投与をしていることが詳細にわたって書かれている。血管強化薬といって、カルバゾクロムスルホンナトリウム水和物、抗プラスミン薬などが投与されているが、新しく処方されたり現在の体調によって投与の量が変わることもこの先あるはずだ。それも微細に更新してくれる、高性能のありがたいものだ。赤字で書かれているものは、自分の持っている今の病気。気管支拡張症、非結核性抗酸菌症、感染性心内膜症、両心不全。心臓の一部に損傷を受けたために、ペースメーカーが入っている。そのゆえ、強力な磁場には近寄れない。若い医師は素晴らしいといっていいほどの忍耐強さで彼女にこれらがなんなのか、どういうものなのかを根気強く教えてくれた。筋肉馬鹿では戦場を生き抜くことはできない。素人でもわかるような説明をされれば、それはブランシェットにも当然理解できた。なにをどうすればよいか。なんの薬がどういう効果でどの病気に効いているか。なにをしてはいけないか。患者としての心得は徹底的に教え込まれた。

 ブランシェットは立ち上がった。のろのろとだが、歩くことはできるようになった。気晴らしがしたかった。大通りの、その辺の食堂に入った。時間が早いせいか、客はまばらだ。おかみらしい女がいて、なにかカウンターの中で作業している。水を持ってきたのは若い娘だった。顔立ちからして、親子だろう。

「いらっしゃい。メニューはこちらよ。今日のお勧めは子牛のロースト」

 何も答えずに、ブランシェットは水を一口飲んた。

 途端、強い衝撃がまるで向かい風のようになって彼女を襲った。ただの幻だ。しかし彼女は言わずにはいられなかった。

「・・・甘い水だな」

 娘はえ? という顔をして、それから持っていたトレイを抱き締めた。ふふふ、と花が綻ぶように笑う。

「おかしなことを言うお客さんね。砂糖は入っていないわ。ただの井戸水よ」

「・・・そうか」

 サラダを頼んで、ブランシェットは待っている間肘をついて表を眺めていた。眩しい。

 こうして風景をつくづくと眺めたことなどあったろうか。飯なぞは、かきこんで腹が満ちればよいもの、水の味に気づいたことも気づくはずもなかった。

 世界は光に満ちていた。百花の季節である。

 花水木の並木道が続いている。

 それを過ぎると、今度は植え込みに一面の躑躅が咲き乱れている。さらに角を曲がると、薔薇が咲いている。なんという香りだ。小手毬、石楠花、芍薬、牡丹、菖蒲、藤の大木、梔子------

ブランシェットにはこれらの花の名前など知ろうはずもなかったが、目にははっきりと映っていた。これまで、花などどうでもよかった。薔薇という花すら、彼女には判別ができなかった。ただ花とのみという認識しかできない。しかし、その美しさは今はわかった。

 花が咲いていても、今までそれに気づくようなことはなかった。無視していたのではない、気が付かなかったのだ。花のある世界に、ブランシェットは身を置いていなかった。

 だいぶ歩けるようになったのをいいことに、ブランシェットはふらふらと花に誘われて歩いた。時々疲れて道端のベンチで休息をとった。完全な筋肉を持っていたブランシェットの肉体は元に戻りつつある。あとは、病とうまく付き合いながら体を動かすことだけを考えればよい。しかし息がすぐに上がる。呼吸が苦しい。甘い香りがした。花の香りだろう。世界は晴れやかだった。こころは、晴れない。

「おやおや元気になったもんだな」

 青年医師の元へ戻ってくると、彼は呆れたように迎え入れてくれる。

「外で食事できるまでになったか。あんたの身体は驚異的だな」

 ベッドに倒れこむようにして横たわるブランシェットに、彼はもう驚きもせずに言った。驚くのにはもう、慣れた。

「教科書に載せたらさぞかし興味深い資料になったろう。検体する気はないかね」

「くそくらえだ」

 がっはっはっは、と笑いが返ってくる。む、冗談だったのか。この男の冗談はよくわからん。

「おれはいつ旅に出られる」

 うん、とうなづくような聞き返すようなこもった声が聞こえた。カーティス、この質問をされるのはもう数えるのはやめたほどだ。

「旅の過酷さにもよるな。あてはあるのか。目的もなく旅ができる身体じゃあないぞ。この先ずっとだ。そうだな、一日出歩いてここに戻ってきても死んだように眠らないぐらいになれば俺としては退院してもいいと言ってやろう」

 今日の彼女の様子を見て、彼はそう答えた。この女、現役の頃は殺人機械のような肉体をしていたに違いない。完璧な体力。超人的な筋肉。彼女がここへ転がり込んできたのは暖炉に火が点もる季節であったが、今や初夏だ。約四か月が過ぎたわけだが、この回復ぶりにはカーティスは医師として天を仰ぐほどの驚きをもって見せつけられていた。病が治ることはないが、元の通りの筋力を取り返せば、かなり不自由なりにも一般生活を一人でやっていくことは充分に可能だ。

 それも、あくまで「一般生活」という意味合いでの話なのだが、この女、頭がいいのか悪いのか、それとも単なる頑固者なのか、戦場に戻るといってきかない。肺が片方ないのにも関わらずだ。心臓にペースメーカーが入っているのにも関わらずだ。そんな身体で戦闘など無理だといっても戻ると言う。だいたい戦場は、戻る場所とか、そういう類のものではないだろう。いや、彼女にとってはそうなのか。だとしたらやっかいだ。戦闘を目的とした肉体ではない。彼女は重病人なのだ。

 なにから言えばいいのかわからなくなってふと見ると、彼女は既に眠っていた。疲れたのだろう。

「まあ、これじゃあまだまだまだいいとは言えないね」

 彼女の手をしまいながら、カーティスはそっとうそぶいた。この女はまもなくこの手を離れる。それまで、自分がなにをしてやれるのか。医師として。人として。カーティスは小さくため息をついた。


 ブランシェットは思い出していた。

 だいぶ前になるが、殺しの依頼をされたことがある。ラ=ヴォイという、公爵の殺しだ。 目的や理由など、いちいち知る必要はない。知る必要は標的のみだ。ブランシェットはその日、屋敷に忍び込んで殺すだけ殺した。特に人目を忍ぶよう言われなかったので、見つかった場合は先頭になるし、そうなれば相手を殺さざるを得ない。ラ=ヴォイ公爵本人は留守でいなかった。その代わりに家族を含む屋敷の人間すべてを殺した。依頼人はそれが不満だったようだが、結果は結果としてそれなりに気持ちが満たされたようで、約束の報酬の六割をくれた。本人を仕留めなかったのだからこれは仕方がないとブランシェットも納得の上での仕事だった。

 ラ=ヴォイといえば、誰もが知る資産家だ。多くの宝石鉱山を所有し、それらの中からは無論魔道石も多く産出されているという、個人資産は小さな国の国家予算を遥かに凌ぐという男だ。だからといって野心家かというとそうではなく、むしろ逆に篤信厚い男として知られている。その財力でもって貧しい土地の開拓や、人材の積極的な雇用など、慈善家といってよい活動をしている。そんな男にも敵がいるというわけか。依頼を受けた時にはそんなことしか考えなかった。だがしかし、思うと公爵、しかもラ=ヴォイ程度となれば閣下と呼ばれることもあろうあの夢、夢というか、思い出してきた記憶の断片の閣下とは、ラ=ヴォイのことではないのか。彼に動機はある。自分は彼の妻と、幼い息子を殺したからだ。計画を練って忍び込んで、ラ=ヴォイがいなかったため自分の機嫌は良くなかった。妻子はいた。腹いせもあったかもしれぬ。

 しかし、だとしたら自分は憎悪の対象でこそあれ、救済の対象にはどうしてもならない。 必死というよりはむしろ狂気を含んだ勢いで、閣下様は自分の命を助けようとしていた。 なぜだ。

 それをつきとめるためにも、自分は戦場に戻らねば。答えは戦場にある。

 答えを求めるため以外にも戦場に戻る理由はあった。戦場こそが、自分がいた場所。戦場にしか、自分は存在していないのだ。帰る場所、在る場所。街中にいたところで、一体自分になにがあろう。なにもないのだ。帰るべき場所へ帰る、そのためには一刻も早く回復しなければならない。

 ブランシェットの日々の血の滲むような努力はそれだけのためにあったといってもよかった。いるべき場所へ。この、居心地の悪い場所から脱出するために。その選択は果たして正しいのか、誰にもわからない。

 赤い死神、か。

 休んでいてふと思う。それは或いは、全身に血をかぶった時についた名前かもしれぬ。または、任地が酷暑の場で、日に日に髪の毛の色が金色になっていくなか、血をかぶったときに髪も赤く染まったことから始まったあだ名かもしれぬ。どのみち、こけおどしのような名前だ。しかしそう呼ばれるだけのことはしてきた。恨みも買おうというものだ。

 リハビリの日々は順調に続いた。街を歩き、食欲がないながらも食べ、花を見、人と話す。当たり前のようなことがブランシェットには新しかった。水が甘い。花の匂いが甘い。 人と話すことが新鮮だ。この食材はどこどこの港で獲れて新鮮だとか、この芋は近所のおばさんが農家をやっていて分けてもらっているとか、食べるだけが目的の日々とは違う情報が入ってくる。そんな日常は数か月続き、とうとう若い医師からブランシェットは退院してもよいとのお達しをもらった。カーティスはカーティスで、彼女の超越した身体能力と、その根拠のない戦場へ戻りたいという強い意思に舌を巻いていたのだ。この女、ただ者ではないとわかってはいたが、ここまでとは。

「じゃあまあ、元気でな。くれぐれも言っておくが薬を飲んでくれよ。あとはこう言っても聞かないだろうが、無理だけはしないでくれ」

「わかった」

 まったく話を聞いていない様子で、ブランシェットはただそう答えた。そう答えないと、この若い医師が自分を行かせてくれないのを知っていて適当に答えただけであった。

 見え見えである。

 カーティスは苦笑してどこへ行くつもりだ? と聞いた。

「とりあえずは東に行こうと思っている。あとはその場のなりゆき次第だ」

「そうか。気をつけてな」

 別れは呆気ないものだった。

 路地の向こうまでのろのろと歩いていくブランシェットの背中を、カーティスは見えなくなるまで見送っていた。それが消えるか消えないかというぐらいになって、彼は呟いた。

「まああんたが戦場に戻るのはわかりきってるけどな・・・あんたには感謝してるよ。だから、あんたが置かれてる状況は教えないでおいてやるよ。難儀だからな」

 やがてその背中が見えなくなって、カーティスはじっとそちらの方を見ていたが、やがて診療所に戻っていった。彼はやるべきことはした。ブランシェットの置かれている「難儀な状況」は、彼には関係のないことだ。彼は治すべきものを治す。それだけだ。そして彼には、治すべき患者が待っているのだ。やることは山のようにあった。

 余計なことに巻き込まれている場合ではなかった。


 街を出て、言ったとおりに東へ向かったブランシェットは、言われた通り無理はしなかった。乗り合い馬車に乗って移動には体力を使わないようにした。街に着いたらすぐに、薬局に一番近い宿を探してそこに身を置いた。退院してから最初の行程は、自分の身体と相談しながらの手探り状態であったが、まずまずの滑り出しであった。

 街はそこそこの大きさで、ブランシェットはまずその大きさを把握するために歩いて回ることにした。酒場、武器屋、宝石屋。どこの街にも必ずあるものだ。それらを脇目に、ブランシェットはひたすら歩いた。歩くことこそが身体を元に戻す一番近い、手っ取り早い方法だとあの若い医師に聞いたからだ。そしてそれは効を奏していた。それがわかっているからこそ、彼女は毎日日課のようにただひたすら街を歩いた。

 それが悪かった。

 ある日、いつものように歩いていて、少し疲れたので建物の角にもたれかかり休んでいたところ、

「おいあんた、もしかしてノワールか?」

 と、肩をぐいと掴まれて聞かれたのだ。瞬時に相手の声の含まれる悪意を読み取って、ブランシェットは相手の喉を突いた。相手はごふっ、と音をたててそのまま倒れ、それを確かめる前にブランシェットは走り出していた。危険だ。本能がそれを知らせる。走り走って、路地を抜け、裏道を走り、でたらめに逃げ続けた。心臓が破れるように痛い。いきなりこの距離を走ったからだ。

 はあ、はあ、はあ・・・

 順調かと思っていたが、自分の身体はこの程度なのだ。ちょっと走っただけで息が切れる。身体が苦しい。膝が、重い。裏路地を建物につかまりながらふらふらと行くと、後ろから誰かが走ってくる気配がした。まずい。ふと見ると、建物に入る扉が開いている。ブランシェットは何も考えずに中へ入った。

 湿っぽい、薄暗い廊下にはいろいろなものが置かれていた。農具や藁、梯子に椅子。パチ、と火を焚く音がして、ブランシェットはそちらへ吸い込まれるようにして向かった。

 夕暮れの日を浴びながら、暖炉の前に女がひとり、座っていた。微かに歌声が聞こえてきた。


       茶色の瞳は魅惑の瞳

       黄色い瞳は獣の目

       緑の瞳は安息の瞳

       黒い瞳は正直者


       紫の瞳は魔性の瞳

       赤い瞳は怒りの目

       白い瞳は非難の視線

       灰色の瞳は孤独な瞳

       青い瞳は裁きの瞳



 歌を歌っているにも関わらず、女はぴくとも動かない。パチ、パチ。火が爆ぜる音だけが、静かな部屋に不気味に響き渡る。

 ブランシェットはなぜか引き寄せられて、黙って側に寄った。気配を感じたのだろう、女はちらりとブランシェットを見たが、何も言わなかった。

 ブランシェットは女を観察した。若い。まだ三十代か、その手前ぐらいだろう。おおきな茶色の目をしていて、眉はまるく、色は透けるように白い。美人の類に入ると言ってよい。しかし瞬きもせずに暖炉の火を見つめる女は妙に老けていて、赤い光は女を五十代にも六十代にも見せた。不自然な沈黙が部屋を覆った。

「わたしはね、昔ある伯爵様のお屋敷に仕えていたんだよ。小間使いとしてね」

 突如として女は言った。その声は見かけとは相まってしわがれていて、少なからずギョッとする。誰に言うでもなく、女はぽつりぽつりと話し出した。

「まだ若かったよ。十五にもならなかった。下にきょうだいがたくさんいてね、うちは貧しい農家で、わたしが働きにでるしかなかった。よくある話さ」

 微動だにせず、女は訥々と話し続ける。火を見つめる様は老婆のようにも見える。

「お屋敷の使用人部屋に住まわせてもらってさ。食事は朝晩出たよ。でもね、家にはお腹をすかせたきょうだいたちが五人もいたんだ。新しい弟も生まれた。わたしは給料のほとんどを家に送っていた。だから着たいものもろくに買えなかった」

 ブランシェットは、自分はなぜこの女の話を聞いているのだろうかとぼおっと思っていた。なぜこの女は自分にこんな話をするのか。

「そんなある日、わたしは奥様の引き出しにあったきれいな宝石のついたブローチをポケットに入れてしまったのさ。ほんの出来心だった。売ったりなんかしない、誰にもわからない場所にそおっとしまっておいて、時々ひとりでいられるときにそっと見つめていたのさ。その宝石を見ていると、日々の掃除や洗濯や、あかぎれのひどいのやそんな自分の手に塗る軟膏も買えないことやお給料をみんな家に送ってしまうことや家族が手紙の一つも送らないことやそんなことがなにもかも忘れられたんだ。きらきらきらきらしていて、そこだけまるで夢のようだった」

 パキ、と薪が爆ぜた。言いようのない緊張感に包まれて、ブランシェットは話を聞いていた。

「奥様は宝石をたくさんお持ちだから、小さなブローチが一つなくなったことぐらいには気づかなかった。わたしはね、それで満足すればよかったんだよ。でもね、どうしても生活が苦しかった。他の使用人はお昼に昼食を食べに行ったりしていたがわたしはできなかった。同じ部屋に住む子はたまにある休みの日に買い物に出かけていたがわたしは行けなかった。家からは次の給料はまだかと手紙がくる。また妹が産まれたとね」

 ブランシェットには想像もつかない生活だった。およそ、戦うばかりの傭兵からすれば無縁の世界だ。

「ある日、わたしは旦那様の財布から銀貨を七枚盗んだんだ。大金持ちの旦那様からすればはした金だが、わたしにとっては大金だった。ちょっとだけなら、一回だけならいいと思ったんだ。それで手に塗る軟膏を買った。欲しかった靴を買った。穴があいて、雨が降ると足が冷たくて仕方がなかったからね」

 銀貨七枚。銀貨七枚など、ブランシェットには鼻紙程度の金額だ。それを、盗む人間などいるのか。

「でもね、一度それを覚えると、止まらなくなっていった。一度が二度になり、三度が四度になった。旦那様は気が付かなかった。量が多いと、少しばかり減ってもわからないもんなんだよ」

 女は相変わらず動かない。動くことを忘れてしまったのかもしれぬ。

「ある日、旦那様が掃除をしているわたしの後ろから襲い掛かってきた。犯されたんだ。十六だった」

 ブランシェットはごく、と息をのんだ。ばれたのか。

「最初は、盗みがばれたのかと思ったんだよ。ところが違ったんだ。旦那様は盗んだ金のことはふれなかった。ご存じなかったんだよ。ただ、奥様には絶対内緒だぞ、内緒だぞってそればっかり言うんだ」

 ブランシェットは立ち尽くした。ばれていないのに、なぜそんな目に遭うんだ。

「一度じゃすまなかった。盗みと同じさ。一度が二度になり、三度が四度になった。痛くて気持ち悪くて、わたしはいつも部屋に戻る途中で吐いていたよ。でもそうする内にね、わたしは妊娠してしまったんだ。旦那様の子供だよ。一年も経たなかった」

 パチ、パチ、パチ・・・

 薪が音をたてる。抗議するかのように。

「奥様にはすぐにばれてしまったよ。奥様はそりゃあお怒りになって、わたしは馬の鞭でぶたれて裸足で表に放り出されたりした。でもおいだされることはなかった。お二人にはね、子供がいなかったんだ。だんだんと大きくなっていくわたしのお腹を見て、奥様はもうわたしをぶたなくなった。毎日、最低限の労働だけしてればよくなったんだよ」

 ちらりとあたりを見回した。子供がいる気配はない。

「毎日不安ながらも、わたしは少しずつ母親になるってこんな感じなのかって思っていたよ。ああ、お母さんになるんだって、男の子かな女の子かなって、産まれたからどんな名前にしよう、どんな服を着せようとか、そんなことばかり考えていた」

 ギッ、という音が聞こえた。女が座っている椅子を揺らし始めたのだ。

 ギッ、ギッと音をさせながら、ゆらりゆらりと女が揺れる。

「お産はね、母親のを手伝ったことがあるから知っていたよ。でも知っていたつもりだったのさ。あんな痛くて辛くて苦しいもんだとは思わなかったよ。足の間が裂けてそこから大きな大きな瓜が出てくるような感じがして、血は止まらないし、お医者もろくに来ないんだよ。ひどいもんだろ」

 ギッ、ギッ、ギッ。

「男の子だったよ。ちょっと小さかったけど、元気な男の子だった。息子だ、息子が生まれたと思った。あんまりうれしくて痛みも忘れて泣いてしまったよ。ところがね」

 ギッ。椅子の動きが止まった。

「奥様はおっしゃったんだ。『この子は主人の子供だ。だからこの子はうちの子、お前の子供じゃない』ってね。取り上げられたんだよ。息子を、せっかくあんなに待ってあんなに痛い思いをして産んだ子供を、取られてしまったんだ」

「----------」

 そんなこともあるのか。ブランシェットは立ち尽くした。そんな日常は、おれとは無縁の場所にある。

「それから、着の身着のままで放り出されたよ。そりゃそうさ。旦那様のお世継ぎが産まれたってのに、その母親が使用人として働いてちゃなんににもならないからね。奥様はわたしが息子と接触して悪い影響を与えるのを嫌がった。坊ちゃま、ほんとうのお母さんはわたしなんですよなんて言われたらたまらないだろ」

 返す言葉がなかった。

「そりゃあ泣いたさ。泣き叫んだ。返してくれ、わたしの子供を、息子を返してくれって泣き叫んだ。でもね、奥様にこう言われたんだ。『泥棒猫のくせに図々しい』」

「------」

「『主人を盗っておいて何様のつもりなのか。子供まで持つだなんて許さない』ってね。 そこでわたしは思ったんだよ。ああ、わたしは盗むくらしをしてきた。だから、盗み返された。わたしのからだも、わたしの人生も、わたしの息子も、盗み返されてしまったんだ。でもね、だからって文句は言えないよ。だって最初に盗みをはたらいたのはわたしだからね。だから、盗まれても文句は言えないんだよ」

 ブランシェットは立ち尽くした。

 この女は、何が言いたいのだ。

 と、その時、表から騒がしい声が聞こえてきた。いたか? いやいないぞ。もっと探せ!

 びくりとした。追手だ。なぜだか知らないが、自分は追われているのだ。さっきの男の仲間に違いない。側に置いてあった鋏が目に入った。反射的に髪をざくりと切って暖炉に放った。しなり、と蛋白質の燃える嫌な匂いがしたが、女は微動だにしなかった。



       茶色の瞳は魅惑の瞳



 またも歌いだした女をひとり置いて、ブランシェットは奥の木戸から逃げた。路地に出ると、向こうの方から騒がしい声が聞こえてきた。それから逃げるように、ブランシェットは道を抜けて行った。



       黄色い瞳は獣の目



 建物の中からは、未だ女のかすれた声で歌が聞こえてきていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ