瞳編 part6:理解
夜が明けると、二人は再び始発の電車に乗り、元の街に戻って来た。
本当なら、もっと遠いところに逃げたかったのだが、金銭問題的に無理が生じ、そして瞳が自分で言い出したのだ。
逃げずに、正面から立ち向かいたいと――。
二人は瞳の屋敷に帰る途中、SP達に捕まり、逃げるつもりはなかったが、強制的に屋敷の中へと連れ込まれた。
誠は苛立っていたが、瞳が首を振り、怒りを抑えた。
二人はすぐに瞳の父親である聖司の部屋へと連行され、誠は後ろで手首をSPたちに抑えられながら立っていた。
「お父様……」
瞳が口を開くと、窓から外を眺めていた聖司は、ゆっくりと振り返った。その目は鋭く、異様な怒りを込められていた。
「瞳……。自分がしたことをわかっているのか? お前は麻生家の名に泥を塗ったんだぞ……。お前はこのわしに恥をかかせたんだ!」
聖司の迫力ある怒声にその場にいた全員が体を硬直させた。
それでも、瞳は負けずと反論した。
「そのことについては、本当に申し訳なく思ってます……。でも、私は嫌なのです。会社の経営が苦しいことはわかります。でも……好きでもない人のところに嫁ぐのは我慢できません!」
瞳も心から自分の意見をぶつけた。瞳の誠意に誠は力強くうなずく。
そのとき、聖司は立ち上がると誠の前に立った。
「誠くん。君が瞳をそそのかせたのかな?」
「え?」
「いろいろ支援し、我が社にも君を入社させたにも関わらず、恩を仇で返すとはな」
そのとき、気づけば聖司は拳を握りおもいっきり振るっていた。
その大きな拳は誠の頬に直撃し、誠は勢い良く床を転げ回った。
「ぐっ……」
「お兄さん!」
誠は床にぐったりと倒れる。瞳はすぐに駆け寄り、誠を抱いてあげた。
「お兄さん、大丈夫ですか? お兄さん!」
誠の口からは血がしたり、痛々しさを物語っていた。
誠は苦痛の表情でコクッとうなずいた。
「……あ、ああ……大丈夫だ……」
「お兄さん……」
瞳の目に涙が浮かぶ。そしてぎゅっと抱きしめ、胸の中で泣いた。
「瞳……。そんなクズからすぐに離れなさい。バカが移る。お前はわしの言うことを聞いていれば幸せになるんだ。相手の方はすでに了承してくださっているんだぞ。こっちから申し込んだのに、今さら白紙に戻せなど、失礼にも程がある。さ、そんなバカは放っておいて、こっちに――」
「お兄さんをバカにしないでよ!」
瞳の怒りに聖司は黙り込む。
「何も知らないくせに……。お兄さんのこと、何も知らないくせに……勝手なこといわないでよ! お兄さんは、お父様が考えているより、ずっと優しくて、強くて、誰よりも私のことを考えてた……。私、ずっと好きだったんだから!」
瞳の言葉に、誠は呆然としていた。
「瞳、お前……」
「これ以上私の好きな人を侮辱したら……たとえお父様でも許さないから!」
そこで聖司は大声を上げて笑い出した。
「何をバカなこと言ってるんだ、瞳。そいつを見てみろ。どこをどう見れば立派な人間に見える? 一人じゃ生きていけん、コネがなくては満足に就職もできん、学校は平気でサボる、そんな人間のクズの、どこに好意を寄せるところがあるというのだ」
「お兄さんをバカにしないで! お父様なんかより、ずっと立派で、かっこよくて、優しくて……誰にも負けない思いやりがあるんだから!」
「ふん。そんなことはどうでもいい。もうそんな奴に用はない。さ、早くこっちに来るんだ」
瞳は歯を食いしばりながら、キッと鋭い目つきで睨みつけた。
「これ以上お兄さんをバカにするなら……ここで死んでやる!」
瞳は聖司の机の引き出しからハサミを取り出すと自分の喉元に押しやった。
聖司やSPたちに緊張が走った。
「瞳! バカなことはやめなさい! それをこっちに渡すんだ!」
「だったら謝って! お兄さんをバカにしたことを謝ってよ!」
「くっ! そんな必要あるか。さ、早く渡すんだ!」
「だったら私は――」
「瞳……」
誠はゆっくりと起き上がると、瞳の手からハサミを引取った。そしてそれを遠くに放り投げる。
「お兄さん……」
「落ち着け、瞳。こんなことをするために戻ってきたんじゃないだろ」
「お兄さん……。でも……」
「俺なら平気だから。自分でもバカだってわかってるし。それよりも、俺は瞳が傷付くところを見たくない。お父さんに言いたいことを、ちゃんと言うんだ」
誠は優しく瞳の頭を撫でる。
「……はい」
瞳は聖司に向き直ると、頭を下げてもう一度言った。
「お願いします。結婚の話しはなかったことにしてください。私は、まだ誰とも結婚したくないです。……どうか、お願いします」
すると、誠も一緒になって頭を下げた。
「俺からも、お願いします。結婚は、そんなことのためにあるんじゃないんです。もっと、幸せになるためにあると思うんです。そのことを、僕は瞳に教わりました。それを教えてくれた瞳を、不幸にしたくないんです。お願いします!」
二人の姿に聖司は黙り込む。
すると、ドアが開き、外から一人の美しい女性が入ってきた。その素顔は、瞳にそっくりだった。
「あなた。その辺で……」
「美鈴……」
「お母さん……」
瞳がそっと顔を上げて呟く。
紫色の着物に、サラッとした黒髪、煌く肌をした美鈴はふと笑みを浮かべ、聖司に向き直った。
「聖司さん、大人げないわよ。子供に手を上げるなんて」
「し、しかしだな――」
「そこまでいうなら、私はあなたと離婚してここから出て行きますよ」
美鈴は目を細めて唇を緩ませる。
「うっ……」
その言葉で聖司は口を閉ざした。
美鈴はそっと二人に近寄ってきた。
「瞳……」
「お母さん……」
美鈴はそっと瞳を抱きしめた。
「瞳、もういいのよ。ごめんね、こんなことになって。お母さんがもっとしっかりすればいいんだけど」
「お母さん……」
瞳は美鈴の腕の中で涙を流し、ぎゅっと抱きしめた。
美鈴は瞳の頭を撫でながら、未だに頭を下げている誠に向き直った。
「誠さんも、顔を上げて。本当にごめんなさいね」
誠は少し戸惑いながら、そっと顔を上げ、瞳の母親を直視する。
「誠さんにはいろいろ迷惑をかけたわね。いつかお礼をするわ」
「いえ、俺は別に……」
「それと、ありがとう」
「え?」
瞳の母親は柔らかく微笑んで見つめた。
「こんなにも瞳を思ってくれる友人は初めて見たわ。本当に、心からお礼を申し上げます」
「い、いえ、俺なんて、そんな……」
美鈴はゆっくりと首を振った。
「いいえ、あなたは本当によくやってくれたわ。これからも、我が社で頑張ってね」
そこで誠は頭を撫でながら呟いた。
「で、でも、俺、こんなことしたし、クビなんじゃ……」
「あら、大丈夫よ。私は社長よりも上だから」
「え?」
ようやく泣き止んだ瞳は、目じりを拭くと言った。
「お母さんはね、会長なんだよ。つまり、社長よりも位が上なの」
「そ、そうなんですか?」
誠は少し驚嘆な声を上げる。その表情に美鈴はクスッと笑う。
「そう。だから、私が認めればクビにはならないわ。これからもよろしくね」
「は、はい! ありがとうございます!」
誠は深々と頭を下げる。
「それと、瞳」
「はい」
美鈴は温かな眼差しで瞳を見つめ、サラッとした瞳の髪を撫でた。
「瞳は、本当に良い友達を持ったわね」
瞳は嬉しそうに、満面の笑みを浮かべてうなずいた。
「……うん!」
「そうね。結婚するなら、この子なら許してあげるわ」
「え?」
誠はきょとんとした表情で顔を上げた。
「お、お母さん、何言ってるのよ!」
瞳の顔は真っ赤になって美鈴をポコポコ拳を振るう。美鈴は手で受けながら上品に笑った。
「あら、さっき私の好きな人って言ったのは誰だったかな?」
「あ、あれは、違うの! 友達として好きって言ったの!」
「本当かしら?」
「もう、からかわないでよ~!」
そこの空間だけは、暖かな笑顔に包まれていた。
瞳はようやく、心からといえる笑顔を見せていた……。
騒動が一息つき、誠と瞳は屋敷を出て、湊の下に向かうことにした。
玄関の前で、美鈴は優しそうに笑みを浮かべて手を振っている。聖司は結婚が白紙に戻ったことで慌てふためいていた。
瞳は大きく手を振って応えると、誠と一緒に歩き始めた。
「これで解決したな」
「はい! 本当に、ありがとうございました、お兄さん」
「瞳が頑張ったからだろ。俺は何もしてないよ」
「いえ、お兄さんがいなかったら、私は何もできず、ただ逃げていただけでした。……今回は、本当に助けられました。麻生家の娘として、心からお礼を申し上げます」
瞳は丁寧に深々とお辞儀をする。
「や、やめろよ、瞳。そんなの、瞳らしくないぜ」
瞳は顔を上げるとクスッと笑った。
「そうですね。それじゃ、いつも通りに戻ります」
「そうしてくれ」
二人は楽しそうに笑い合う。
そこで誠はあることを思い出した。
「あっ、そういえば、瞳、俺のこと好きっていったよな? あれどういうこと?」
そこで瞳の顔を耳まで真っ赤になっていた。
「あ、あれは、その……だから、友達でってことです! 湊の次に、大好きな友達ということです!」
「へ~、そうか」
誠は可笑しそうにほくそ笑んだ。
「な、なんですか! 何笑ってんですか!」
「いや、瞳が俺のことをねって思って」
「だ、だから、違うっていってるじゃないですか!」
瞳がまた顔を紅潮させて反論する。
「まあ、そう怒るなって。でも悪いな。俺は湊一筋だからな。瞳とは付き合えないな。でも、ずっと親友だからな」
「……それはわかってますよ……」
瞳が少しうつむきながらボソッと呟く。
「あれ? 少し残念がってる?」
「別に、何でもありません。それより」
瞳は誠の前に立つと、ビシッと人差し指を立てて、鼻の上を指した。
「いいですか。私の大親友の湊を泣かすようなことがあったら、ただじゃおきませんからね。すぐに飛んでいって、お兄さんを処罰しますから」
「処罰って……。俺はそんなことしないよ」
誠は両手を前で振って苦笑する。
「絶対ですよ。万が一の時は湊は家で預かりますからね」
「おいおい、少しは信用してくれよ」
「……そうですね。お兄さんなら、大丈夫ですよね」
瞳はニコッと微笑む。
「それじゃ、行きましょうか。湊が待ってますし」
「ああ」
二人は再び歩き出した。
しかし、瞳はすぐに足を止め、深くうつむいてしまった。
少し前を歩いていた誠は振り返った。
「おい、どうしたんだ、瞳?」
瞳からの返事はなかった。誠は疑問に思いながら、そっと近づいた。
「おい、どうしたんだ? 腹でも壊したか?」
誠はしゃがみ込んで顔を覗く。
そのときだった。
「んっ……」
気づけば、誠の目の前には瞳の顔があった。
そしてだんだん大きくなってきたと思ったら、いつのまにか瞳にキスされていた。
熱く、柔らかな感触が伝わり、そして湊とは違うものを感じられた。
瞳はそっと離すと、少し頬を染めながら、誠を見つめた。
「お兄さん……。正直言えば、私はお兄さんのこと、ずっと前から好きでした。お兄さんと会って、少しずつ時間を共有し、好きだという感情がはっきりとしました。でも、湊も、お兄さんが好きだということはわかってました。私は、自分の恋より、親友の恋を優先し、譲ることを選んだんです」
瞳はそっと誠の顔を両手で包んで微笑んだ。
「これだけは覚えていてください。それだけで私は十分です。……私の初恋の相手は、お兄さんだということを……」
「瞳……」
そこで瞳は誠の頬を摘んでぎゅ~っと抓った。
「なにバカみたいな顔してるんですか。湊が待っているんですから、早く行きますよ」
瞳は浮きだった気持ちで歩いていく。
誠は痛んだ頬を擦りながら、呆然と瞳を見ていた。
「お兄さ~ん、早く~!」
瞳が数メートル先で大きく手を振っていた。
誠はふと笑みを浮かべると、腰を上げて走り出した。
「おう!」
「ほら、お兄さん。家まで競走ですよ。学園一番の足を見せて上げます。負けた方は奢りですからね」
瞳は楽しそうに、今まで以上の満面の笑顔で、走り続けた。
そして、そっと聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
「ありがとう、お兄さん」