雫編 part6:回答
誠は学校をサボり、一日中屋上に居た。
少し肌寒いが、日の照っている今日はいくらか温かい。
今日は月曜日。明日、雫は母方の実家に帰る。
それまでに、あの答えをださなければならない。
雫の記憶を消すか、否か……。
普通に考えれば、そんなことはしたくない。でも、ならばそれ相応の返事をしなければならない。
もし、雫が納得する回答ができなければ……。
雫は死ぬ――。
誠はその場にうずくまり、頭を抱えた。
こんな窮地に陥り、過酷な選択をしなければならないとは思わなかった。
「どうすればいいんだ……」
誠はふるふると震える拳を握る。満足に呼吸もできない。息苦しさを覚える。
陽は傾き始め、約束の時間へと刻一刻と近づいてくる。もう、時間が残されていない。
そのとき、屋上の扉が開き、湊が入ってきた。
「兄さん……」
後ろから弱々しい言葉が耳に入ってくる。誠はそっと振り向いた。
「湊……」
湊は雫の事情を知っている。昨日、帰ったあと、全て話したのだ。
「兄さん、大丈夫? 顔色悪いよ」
「ああ……」
湊は隣に座ると、誠の肩に触れ、顔を覗き込む。誠は顔に手を当てた。
「湊……。俺、どうしたらいいんだ……。わからないんだ」
誠は目を閉じ、苦しみに耐える。
「兄さん……」
湊は空を見上げながら、そっと呟いた。
「兄さん。兄さんは、今までどうしてたの?」
「え?」
湊は誠に向かって微笑んだ。
「今まで、兄さんは自分のしたい通りにしてきた。どんな苦難も、どんな困難も、自分の思ったこと、自分の力で、いつも乗り越えてきた。だったら、今回も、自分の力を信じればいいんじゃないかな?」
「湊……」
誠はうなずいた。
そうだ。いつもそうしてきた。今まで、自分はそうやって、どんなことでも乗り越えてきたはずだ。
ならば、今回だって……。
誠は立ち上がった。
「ありがと、湊。俺、やっぱりこの答えしかない」
湊は満面の笑みでうなずいた。
「頑張って、兄さん。それでこそ、私の彼氏だよ」
誠はグッと拳を見せ、勢いよく屋上を飛び出した。
雫は本堂の前に座っていた。約束の時間はまだだが、すでに一時間くらい前から待っていた。
これがデート前の待ち時間なら、心が躍り、わくわくもするのだが、今はそんな気分ではなく、どこか複雑な気分になっていた。
誠は、自分の記憶を消してくれるだろうか。消さなければ、自分は死ぬのだろうか……。
雫は自分の左手首を見た。そこには頚動脈を切った痕がある。
綺麗に一本の線が入ってあり、痛々しさを物語っている。
雫はふと笑みを浮かべた。
誠が記憶を消さないのなら、自分は死んでもかまわない。
自分の願いを叶えないというのなら、それは自分をふったということに等しい。
誠が自分を捨てるなら、死んだほうがマシである。
雫はポケットの中にあるカッターを握った。
これで、サヨナラかもしれない……。
そして約束の時間になり、誠は本堂の前に立った。目の前には雫がいる。
雫はニコッと笑みを浮かべると、誠の前に立った。
「来てくれたんだね、誠くん。それで……返事は?」
誠は真剣な面持ちで口を閉ざし、雫を見つめる。
「ほら、逃げないでよ。ちゃんと返事して。誠くんが私の願い叶えないと、私死んじゃうんだから――」
そのとき、雫の顔は横を向いていた。乾いた音が辺りに響き渡る。
雫はそっと自分の頬に触れた。だんだんと傷みが滲み出てくる。
雫は誠に頬を叩かれていた。
誠はぎゅっと目を閉じながら、雫から目を逸らしていた。
「誠くん……」
「……逃げるなよ……」
「え?」
誠は顔を上げると、雫を睨みながらはっきりといった。
「お前はいつまで逃げる気なんだ!」
誠の怒声に雫はたじろいだ。
「前のお前はそんなんじゃなかった! 誰よりもしっかりして、みんなから慕われて、……一番俺が尊敬していたのはお前なんだ! なのに……!」
誠はキッと睨みつけた。
「お前は、いつからそんなに弱くなったんだ!」
「誠……くん……」
雫の目から涙が零れた。その量が多くなり、頬を伝って落ちていく。
雫は顔を両手で抑えると、嗚咽を漏らしながらも口を開いた。
「誠くんには、この気持ちわかんないでしょ……。湊ちゃんと付き合っている誠くんには、私の気持ちなんて、わかるはずないじゃない!」
「わかる! 俺だって、お前の気持ちはわかる!」
誠の反論に、雫は口を閉ざした。
「俺だって、お前の気持ちはわかる。お前は寂しいだけなんだろ……。一人が、孤独が苦しいんだろ!」
誠の目から涙が溢れた。それを無理矢理拭いながらも続けた。
「俺は、幼い頃、ずっと一人だった。孤独だった。毎日苦しかった。だから、今俺には湊がいるんだ!」
そこで雫は思い出した。以前、そんなことを誠から聞いたことがあった。
「覚えてるか、雫。一年前、俺はお前に、幸せになるようにと、お前のスカイで願った。その願いは、外敵からはお前を傷つけない。でも、今のお前は自分で自分を傷つけている。……お前は、そんな弱虫じゃなかったはずだ!」
誠は雫の襟を掴み、鋭い目つきで睨みつけた。
「そんなお前なら、俺は一生嫌いになる! お前と同じ境遇のやつはたくさんいるんだ。一人だけいい格好して逃げんじゃね!」
雫の唇は震えていた。何か反論したいようだが、それもできず、ただ耐えるしかできない自分。
雫は歯を食いしばり、手で口を抑えると、その場に座り込んだ。
誠の言うとおりだ。確かに自分は逃げてきた。子供のように、駄々をこねて、勝手にいい訳を作り、人のせいにして逃避していた。
自分は、いつからこんなに弱くなったのだろうか……。
「雫……」
誠はそっと雫の肩に手を置いた。そして優しく微笑む。
「頑張れよ、雫。俺、絶対お前のこと忘れないし、湊と付き合っても、お前のことは好きだ。つっても、友達としてだけどな。その中じゃ、めっちゃ上位なんだからな」
誠は照れ笑いを浮かべた。
「雫……。人生わかんねーよな。いろいろあって、苦しいことだって、たくさんある。でもさ、それを乗り越えるから、強くなるんだ。雫は、そんなところで妥協するやつじゃないだろ」
雫はゆっくりとうなずいた。誠はそっと雫の頭を撫でた。
「……寂しくなったら、いつでも遊びに来い。待ってるからさ。それで」
誠は雫の涙を拭いた。
「あっちの高校卒業したら、またこっちに戻ってくればいいだろ」
その言葉に、雫は希望が見出した気がした。
そうだ。高校を卒業すれば、こっちに来ればいい。一人暮らしをすれば、こっちに来てもいいのだ。
雫は顔を上げた。震えながらも、必死に口を開いた。
「私……頑張る。……頑張って、またここに帰ってくる。また……会えるよね?」
誠は一番の笑顔を見せながら、親指を立てた。
「もちろん!」
雫は安心した表情になると、ようやく心からといえる笑顔を見せた。
二人はそこで大声で笑い合った。
二人は駅前にいた。もう少しで雫は列車に乗って母方の祖母の家へと帰る。
雫は切符を買い、誠の元に戻ってきた。
「忘れ物はないな」
「うん。大丈夫だよ」
「それじゃ、元気でな」
「うん……。また、会いに来るからね」
「ああ。いつでも来い」
雫は少し頬を染めながら嬉しそうに微笑む。そしてそっと頬に触れた。
「あのビンタ、ちょっと痛かったな」
その言葉に、誠は少し戸惑いを感じた。確かに、女の子を叩くのはまずかったかも。
「いや、あれは、仕方なく……その、わ、悪かった。本当に、ごめん」
誠は雫の手を合わせて頭を下げる。雫は軽く笑った。
「別にいいよ。罰が下ったんだよ」
雫はそっと手首を見た。
「あんなことしたからね……」
雫は目を細め、悲しげな表情をする。誠はあるアイデアを思いついた。
「雫、お前から貰ったスカイ、今使うよ」
「え?」
誠は手を握り合わせ、お願い事を唱えた。
「雫のスカイの力が、無くなりますように」
その瞬間、雫の体が青白く光り始めた。そして少しずつ収まり、元に戻った。
「誠……」
誠はふと笑みを浮かべた。
「スカイなんて、あるからいけないんだ。簡単に叶うスカイがあるから頼って何もできなくなる。スカイに頼らず、自分の力で乗り越えるんだ」
雫はそっと胸元に手をやる。
「……嫌だったか?」
雫は首を振った。
「ううん。良いと思うよ。なんだか、誠くんらしい」
「そっか。よかった」
そのとき、列車が到着した音が響いた。これでお別れだ。
「それじゃ、いくね。またね、誠くん」
「ああ、またな。雫」
雫は手を振りながら、列車の中へと歩いていく。席に座ると、窓を開けた。
「誠くん! 湊ちゃんを幸せにするんだよ! 頑張って!」
「お前も頑張れよ! きっと、雫なら大丈夫だから!」
「うん!」
列車は徐序に進んでいく。雫は大きく手を振り続けていた。誠もそれに応える。
そして列車はとうとう見えなくなり、消えてしまった。
誠は上げていた手を下ろすと、ふっと息を吐いた。
「頑張れ、雫……」
列車の中で、雫は椅子に座り、外の景色を眺めながら、一週間にあったことを思い出していた。
誠にはいろいろ迷惑をかけた。それは悪いと思っている。
でも、そのおかげで、自分は目指すべきこと、やるべきことを見つけた。
思えば、これがベストの答えだ。
それを教えてくれたのは誠だ。
雫は軽く口元を緩ませ、気合いを入れ直した。
「これから頑張らなくちゃね」
雫は晴れ渡る空を見上げながらそっと呟いた。
「ありがと、誠くん」