雫編 part1:帰宅
電車のホームで発車ベルの音が鳴り響いた。
駅員が笛を鳴らすと、電車はゆっくりと進んでいき、やがて姿が見えなくなってしまった。
そこには一人の少女が立っていた。
長い髪が風でなびき、それを手でそっと抑える。
少女は駅から出ると、そっと空を見上げた。そして軽く笑みを浮かべる。
「懐かしいな。帰ってきたんだな。……元気にしてるかな、誠くん」
その少女はそっと微笑むと、誠がいる街へと、歩き出した。
夏休みが終わり、数ヶ月が経ったとき、少し肌寒い日が続いた。
夏の残暑を残さず消し、新しい秋が訪れようとしている。木々に生っている紅葉は色を変え、地へと舞い落ちていく。
十月に入り、誠は生徒会室に訪れ、残り少ない仕事をこなしていく。
前生徒会長である汐風雫が転校し、代わりに雫の親友であり、書記を勤めていた古池霞が就いた。
誠は前と変わらず、副会長として会長のサポートをしていく。
誠は副会長の席に着き、書類記入をしながら雫のことを思い出した。
雫は学園で全生徒から人気のある生徒だった。
容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能、おまけにピアノが弾けて歌もうまい。密かにファンクラブもあり、生徒からの信頼は大きかった。
その圧倒的な支持から生徒会長に選ばれ、生徒会役員を集めるとき、副会長に誠を任命した。
それから雫の下で仕事をし、仲良くなった。
誠はそっと窓から空を見上げた。
あれから一年。雫は元気にしているだろうか。
「誠くん。早く仕事終わらせないと帰れないよ」
霞が意地悪そうに言い、誠は我に帰ると仕事を再開した。
今日も放課後は生徒会室に向かった。誠の生徒会役員としての仕事も残りわずかだ。最後の仕事を仕上げなければ。
生徒会室の中に入ったとき、誠は何か違和感に気づいた。
「ん?」
誠は会長の机に触れた。
さっき会長の席には書類のプリントの整理をするために引き出しから出していたのだが、机の上にはなく、すでに綺麗に整頓され、引き出しの中にしまってあった。
「あれ? いつしたっけ?」
誠は後ろを振り返り、お茶を淹れている霞に問い掛けた。
「霞さん。机の上にあった書類、直してくれたんですか?」
霞は振り返った。
「え? 私は何もしてないけど」
「あれ? おっかしいな」
誠は首をかしげながら、会長席を見ていた。
放課後、湊は先に帰ってしまい、誠は一人神社の方へと歩いていた。髪をなびかせる肌寒い風が吹きつけてくる。
実はいうと、今日は誠の誕生日である、十月十日なのだ。せっかくなので、今日は散歩して帰ろうと思った。
というよりも、湊が誕生日の準備ができるまでふらついてろといったのだ。
「まだ時間あるな。久しぶりにあそこにいくか」
誠は目的地に歩いていくたびに、一年前を思い出していた。
頭の中は、雫との思い出が甦っていた。
去年の誠の誕生日、音楽室で華麗にピアノを奏でる雫と出会った。
そして生徒会長である雫は、誠を生徒会副会長に推薦し、一緒の時間が多くなった。
毎日が楽しく、仕事は大変だったが、充実した日々を送れていた。
だが、事件は突然起きた。
雫が幼いころ、雫と雫の母親に暴力を振るっていた雫の父親が、お金も行くところがないからと、突然雫の元を訪れ住み始めた。
一人暮らしの雫は、しょうじきいうと嫌だったが、自分の肉親であり、父親である人物を放っておくわけにはいかなかった。
だが、それが間違いだった。
雫は父親のせいで再び地獄のような生活が襲った。暴力と罵声を浴び、つらい日々を送っていく。
それに気づいた誠は、どうにかして雫を助けようとした。そのためにあらゆる策を練り、警察まで行って相談した。
しかし、最終的に、乗り越えなければならない壁は、高く、厚く、頑丈な物だった。
それは、雫の意志だった。
雫が自分は虐待を受けている、父親と過ごしたくない、助けて欲しい。そんな意志が、必要だった。
でも、雫はそれを望まなかった。なぜなら、雫は優しく、そして誰よりも幸せを願っているから。
自分の意志を見せれば、父親は寂しい思いをするはず。自分の父親にそんなことを思わせたくない。
雫は、最後まで首を縦に振ることはなかった。
だが、誠は諦めなかった。
そんなのはおかしかった。間違っているはずだ。親という者は、誰よりも自分の子供の幸せを願うはず。そう教えてくれたのは雫である。
なのに、雫の家庭状況の立場はまったくの逆だった。
そしてなにより、雫が幸せそうではなかった。
誠は意を決し、雫の父親に直接会い、説得することを選んだ。
しかし、それは逆効果で、誠は殴られ、ぼろぼろになった。
そこで雫が助けてくれた。雨の中、雫は誠を抱きしめた。そのとき、誠は雫に問い掛けた。
『お前の幸せって、なんだ?』
この言葉で、雫は初めて自分の幸せを考えた。そして、意志を見せた。
そしてようやく、雫の親は警察に捕まり、再び幸せな日々が戻った。
でも、それも束の間。
そのことを知った雫の母方の祖母が、雫を引取ることになった。
そして雫は、誠に最後に想いを伝え、電車に乗って行ってしまった。
誠は立ち止まった。目の前には神社へと続く階段が見える。そこでふっと息を吐き、にじみ出てきた涙を袖で拭き、すっと顔を上げた。
もう会えないというわけではない。いつか会うと、二人は誓い合った。きっと、また会える。
誠は笑みを浮かべると、階段を一つ一つ登り始めた。
頂上に着くと、誠は大きく背伸びをした。目の前には大きな神社がそびえ立っている。その隣には母屋がある。以前雫が住んでいた家だ。
誠はお参りをして家に帰ろうと思い、本堂の方に顔を向けた。
そこで誠は足が止まり、目の前の状況に混乱してしまった。そして呟いた。
「……雫」
目の前には確かに雫がいた。
長くサラッとした髪、整った顔立ち、綺麗な瞳、間違いなく、元生徒会長だった、汐風雫だった。巫女の服を着、箒で本堂の前を掃いている。
誠は信じられない気持ちでいっぱいだった。まさか、こんなにも早く会えるとは思っていなかった。
「雫……」
誠は再び呟いた。
その声で、雫は誠に気づいた。同じように目を見開き、持っていた箒をつい落としてしまった。
「ま、誠、くん……」
雫はそっと歩いてきた。一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。そのスピードが徐序に速くなり、最後は走ってきた。
「誠くん!」
雫は勢いよく誠に抱きついてきた。ぎゅっときつく、そして温かく、腕いっぱいに誠を包み込む。
誠はわけがわからず、未だに立ち尽くしていた。
「会いたかった。会いたかったよ。誠くん」
雫は顔を誠の胸に押し付けていう。
「し、雫。本当に雫か? どうしてここに? 母親の実家に帰ったんじゃ……」
「うん。帰ってきたんだよ。戻ってきたんだよ。といっても、一週間くらいだけどね」
雫はそっと誠から離れると見つめた。
「信じてたよ、また会えるって」
そこで誠はようやく笑みを浮かべた。
今受け止めた。夢じゃない。目の前にいる人物は、たしかに自分が知っている雫だ。
「ああ。俺も信じてたよ。絶対会えるって。……お帰り、雫」
雫は満面の笑顔になっていった。
「ただいま、誠くん」