第1話
北方騎士団の朝は早い。
まだ太陽も昇らぬうちから、魔獣たちの唸り声と襲撃を知らせる鐘の音が城内に響くのだ。死んだ魚のような目をした騎士たちは各々矢や石を放って城外の魔獣の侵入を防がなければいけない。
ようやく一息つけるようになるのは太陽が昇りきり魔獣たちが北の針葉樹の森に逃げ去った昼頃の話だ。
だが、魔獣たちが攻めてこないからといって騎士たちが休めるわけではない。騎士たちは森を開墾し、領地の村落を見回り、行商人と商談をし、鍛錬に励んだりと仕事に追われる時間を過ごす。
そうして、夕刻になると休めるかというと、そんなはずがない。
森の魔獣は城の騎士たちが油断するのを虎視眈々と見計らい、隙あらば襲撃をかけてくるのだ。およそ一晩につき五、六回ほどだろうか。だから、くじ引きで選ばれた不幸な騎士たちは寝ずの番で森の監視をしなければいけない。
このように、北方騎士団の毎日は死の危険と隣りあわせ、神経がすり切れてしまいそうな艱難辛苦の連続なのだ。
しかし、このベルゴグラード城を拠点とする北方騎士団なしには王国の北の国境を守ることはできない。北方騎士団こそが王国の安寧の礎であるのだ。
北方騎士団、万歳! 北方騎士団の騎士たちは、王国中の語り草に違いない!
かつて北方騎士団に入団したばかりのころの僕はそんな幻想を抱いていた。
僕も北方騎士団に入って手ごろな手柄の一つや二つ立てれば称賛の嵐が巻き起こるだろうと。
もしかしたら王国中の美女からモテるかもしれない。そんな妄想をした僕は鼻の下をのばして北方騎士団へと入団した。
今の僕がその場にいればかつての僕をぶん殴って絶対に止めておけと説得しただろう。
北方騎士団に入団した僕を待っていたのは王都の貴族や騎士からの蔑みと毎日を生きていくのが精いっぱいの安月給だった。
愚かなかつての僕は知らなかったのだ、北方騎士団とは、中央での政争に敗れたり跡継ぎになれなかったりした貴族や騎士を捨て駒として使い潰す辺境の掃き溜めだということを。
気がついた時にはもう遅く、僕は毎日死人が出るような激しい戦いに投入される使い捨ての駒の仲間入りというわけだ。僕の目が周りの騎士たちと同じように死んだ魚の目になるのに、一週間もかからなかった。
新兵の瞳から輝きが消えるのに今年は何日かかるだろうか。城の中庭に集められている、まだ鎧がピカピカの初々しい騎士たちを横目に見ながら、僕はかつての自分を思い起こしていた。
堅固な石造りの要塞、ベルゴグラード城の最奥には騎士団の雑務を行う騎士たちの部屋が集まっている。この北方騎士団の実質的な指導者にあたる副団長の個室もこの一角にあった。
固い樫の木で出来た扉をノックする。しばらくして中から明瞭な短い声がしたので、僕は室内にお邪魔した。
机の上の羊皮紙の山に埋もれた背の高い神経質そうな女性が一人、羽ペンと格闘している。
鎖帷子を脱いで礼装に身を包んだその姿は、生真面目そうな雰囲気と相まって宮廷の文官と見間違えるほどだ。
しかし、その机の脇に立てかけられた幅広のロングソードが、その者もまた騎士であることを指し示していた。
胸に手を当てて礼をとる。
「北方騎士団が剣、ショルツ・ド・バイヨン、副団長の要請に応じ参上いたしました。ご用件は何でございますか。」
僕の名乗りを聞いた副団長は羽ペンをインク壺に立て、顔を上げた。
「北方騎士団が副団長、シナトラ・ド・モンタギュー、我が要請に応じられたショルツ卿の寛容に感謝する。実は困った事態に陥っていてな、卿に頼みたいことがある。」
副団長、シナトラ卿はごそごそと羊皮紙の山を漁り始める。そのうち一枚の羊皮紙を取り出すと僕に放ってよこした。
僕はそれを手で捕まえて目を通す。
「この封蝋は王家の印章ですね、いったい何の用でしょう?
………辞令ですか、どうやら後任の騎士団長が選ばれたようですね。」
この北方騎士団は三百年ほど前に“征服王”グラシニアス三世が北方支配のため結成した騎士団であり、その団長の任命権は代々の王家が握っている。
もっとも最近は失脚した貴族の左遷先としてしか使われず、騎士団の実権は僕の目の前の副団長が握っているのだけれども。
「この前の団長は一か月持ちませんでしたもんね。ましな貴族が飛ばされてくるのを願いますよ。」
前の第六十三代騎士団長は高齢だったこともあり、このベルゴグラード城の過酷な環境に耐えきれずに流行り病にかかって就任直後に倒れてしまったのだ。
いくらお飾りの団長だといえども、そうコロコロと変わってもらっては僕たち騎士も困る。
そんな風に呑気にしていた僕と違って、副団長は頭痛をこらえるように指でこめかみを押しながらため息をついた。
「その後任がとんでもなく厄介な御方なのだ。私も目を疑ったのだがな、それは正真正銘王家からの手紙だった。まったく高貴な方々の考えることは読めん。
後任の第六十四代騎士団長はパトリシア・トゥルモンド殿下だ。現国王アグラシウス七世のご息女であらせられるれっきとした王族、それも王女よ。」
「…はい?」
僕は自分の耳を疑った。
王族が騎士団の団長を務める? しかもよりにもよって王家お抱えの騎士団の中でもとびっきり危険で辺鄙な北方騎士団の団長に?
僕はどうしても悪い冗談としか思えなかった。
副団長は整った顔を歪め、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。
「無下に扱うわけにもいかん。かといって王家が我らにいったい何を期待しているのかもわからん。私も八方塞がりで途方に暮れておるのだよ。」
確実に胃を痛めているであろう副団長に僕は同情した。
副団長は宮廷貴族の出身で代々法曹を担ってきたお堅い家柄の出だ。それが没落の果てに今やこんな辺境の大地で荒んだ騎士団と中央で政争に明け暮れる貴族の板挟みとなる毎日とは。
僕だったら確実に心を病んでしまって魔獣の群れにでも突撃しただろう。
「とにかく、何があろうとパトリシア殿下が傷ついたり気を害されるようなことがあってはならん。殿下の一挙手一投足がこの騎士団の運命を左右する。
何を隠そう、卿にはパトリシア殿下の警護を任せたい。この北方騎士団にあって三本指に入る卿の剣の腕を見込んでのことだ。」
警護、ときたか。僕は誰かを背後で守りつつ戦うのは苦手で、気乗りはしないけどなぁ。
ただ、副団長から命を下されればそれに従うのが騎士の務め、仕方がないか。
「北方騎士団が剣、ショルツ・ド・バイヨン、その使命承りました。この命に代えましてでもパトリシア殿下の命お守りいたします。」
再び胸に手を当てて礼をとる。
「北方騎士団が副団長、シナトラ・ド・モンタギュー、卿が我が命を全うすることを祈る。話はこれで終わりだ、退室してよろしい。」
薄暗い副団長の部屋から出ると、中庭から差し込む日光に目が眩む。新しい騎士団長の就任に、なぜか僕は嫌な胸騒ぎがおさまらなかった。