竜胆は渡さない
「向日葵の花をあなたに」のアベル視点です。
読んでいなくても話は分かるようにしたつもりですが、読んだ方が話が分かると思います。
俺の世界は二人でできていた。
自分よりも大切な存在がある。
主のマリーシア。
乳母をしていた母を通して知り合った彼女とは、幼い頃からどこに行くにも一緒で、一番大切な存在だった。
夜盗に襲われた時、マリーシアと自分は暖炉の裏に隠れていた。
お互いを抱きしめ合い、恐怖から来る震えをお互いの体で押さえつけて。彼女の父が嬲り殺され、自分の母が陵辱されている横で、俺たちはただそこにいることしかできなかった。
悪夢のような時間が終わり、夜盗が去った後も暫く俺たちは離れられなかった。互いの手をがっちりと組んでしまい、そのまま握りこんでいたからなかなか外れなかったのだ。混乱と、恐怖と、死から逃れたという安堵と、両親を失った哀しみから暫く2人で泣き続けた。
そのときの世界には俺たちしかいなかった。
俺と、マリーシアだけ。
それにどこか救われたような気がしたのは、きっとあの時から俺が狂ってしまったからだろう。
その後マリーシアと俺は彼女の父親の友人であるというトゥアレグ家に身を寄せることになった。そこである少女に出会った。
彼女の第一印象は悪かった。
「初めまして、お姉様。
マリーシア・トークセファと申します。」
マリーシアがそう挨拶しているのに、その少女はマリーシアにどうでも良さそうな目を向けていた。そして俺を見て驚いたように目を見開いた。
なぜこんな顔をされるのか。
薄気味悪かったがマリーシアに言われて渋々挨拶のために頭を下げる。再び少女と視線を合わせた時、彼女の目は嘘のように輝いていた。
正直関わりたくなかった。けれど同じ家に住んでいて関わらないというのは難しく、また何故か彼女はあれほど興味が無さそうにしていたマリーシアとよく話をしていた。
「お姉様がすごく優しい人で安心した」
マリーシアはそう言って笑っていた。
どうやら彼女は新しい家で上手くやれるか不安だったらしい。俺がいるのに。
「よかったな」
けれどこの気持ちをそのまま言うつもりは微塵もなかった。マリーシアが笑っていることが重要で、それ以外はあまり意味が無いと思ったからだ。俺がそんなことを言ってしまえば、彼女の顔は曇るだろう。それなら言わない方がずっといい。
俺がそう答えればマリーシアは嬉しそうに笑うのだ。
ある日、少女が友人たちを招待してパーティを開くと言ってきた。
「マリーシアもよかったら参加しない?」
そう言った少女が、俺には悪魔に思えた。
「本当!?良いのですか、お姉様!」
「もちろん。マリーシアにもお友達ができるといいわね」
「ともだち…」
マリーシアはきらきらと目を輝かせて俺を見た。ただよく見るとその瞳の中には不安もある様だった。
「私にも、友達できるかなぁ?」
───やめろ。
そう言いたかった。
自分と同じくらいの歳の少女を殴りたくなった。
この女はこの世界を壊そうとしていると直感で分かった。
──マリーシアを連れて行くな!
「………できるといいな」
少女は何故か顔を歪めた。
少女はパーティを度々開いた。そのどれもにマリーシアを呼び、マリーシアは喜んで参加した。
マリーシアには友達ができたらしい。
庭の東屋でこっそりと何かの準備をしている彼女に声をかけた。
「……何してるんだ、マリー?」
「あのね、今度友だちと…」
話を聞けばどうやらお忍びで街に行くという。
危ないからやめろと止めたが、彼女は言うことを聞かないだろう。しょうがないので、秘密裏に護衛を手配しようと頭の片隅で考える。
俺の予想は当たってしまった。
マリーシアの世界はどんどん広がっていった。
マリーシアは強くて優しくて好奇心旺盛だ。おまけに見た目もいい。いずれこうなるだろうとは分かっていた。けれど。でも。
「マリーシア」
「なあに?どうしたの?」
「あまり遠くに行くなよ」
「もちろん、街の中だけよ。遠くには行かないわ」
可笑しそうにマリーシアが笑う。
あの女が憎かった。
マリーシアと俺の世界を壊したあの女。マリーシアに外の世界を教えたあの女。
けれどでも、ともう一人の俺が囁く。
俺はマリーシアが笑っていればいいのだ。だからあの女がした事は間違いではない。寧ろ2人だけの世界を望む俺が間違っているのだと。
あの女は正しいことをしたのだと。
憎い。だが憎く思う俺がいけないのだ。
マリーシアが笑っていればいい。
それだけでいいはずなのだから。
だから俺は─…
「私のものにならない?」
あの女がそう言ったのは、マリーシアが友だちと遊びに行っている時だった。
──私のもの?
唐突過ぎて女の言う意味が一瞬分からなかったが、直ぐに気づいた。
そうか、この女は俺がほしいのか。あの気味の悪い視線はそういうことだったのか。
だからマリーシアを外の世界に連れ出したのだ。俺を手に入れるために。俺たちの世界を壊すために。
怒りで頭が真っ白になった。
誰がお前の物になんてなるか。
「勿体ないお言葉ですが、辞退させていただきます。私はマリーシア様の世話係ですから」
殊更丁寧にそう言い返してやる。
女が怒り狂えばいいと思ったのだが、そうはならなかった。
「そう…残念だわ」
ただ静かにそう言って去って行った。
どんな表情をしていたか覚えていないのに、輝く瞳が嫌に頭に残って離れなかった。
──あの女の悪癖を知ったのはそのすぐ後だ。
マリーシアが友人のパーティに行っていたので、俺は1人で屋敷の前の庭を掃除していた。
気分は最悪だった。
パーティに行くと聞いた時は、当然俺も連れて行ってもらえると思っていた。今まではそうだったからだ。
だがマリーシアは「女の子同士の話があるからだめ」と拒否したのだ。それは衝撃だった。感情よりも前にただショックだった。
「おい、そこのお前!」
そんな最悪の気分のまま、落ち葉を集めていれば門の外からそう声をかけられた。
声の方を向けば、自分よりも少し年上に見える男が立っていた。
身なりはいい。少なくとも使用人という格好ではなかった。
「なにか御用でしょうか?」
しかし門を直ぐに開けようとは思わなかった。
そもそも位のあるものであれば、普通は供を付けずに一人でいるなんて有り得ない。その点でこの男は不審だった。
「門を開けろ!」
「その前にお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「そんなのいいから早く!見つかるだろ!!」
なるほど、この男は供を撒いてきたらしい。
だからと言って易々と開けるつもりは無いが、位はある者のようだ。
「お名前を…」
「ああもう!ショーンだ!ショーン・ノート!!」
苛立ったように叫ぶ。
名前を聞いてもピンと来なかったため、俺は他の使用人に聞いてこようと踵を返した。
門の外で何やら喚かれたが仕方がない。不審人物を中に入れるわけにはいかなかった。
「ノート様!?」
ショーン・ノートの名を告げるや否や、メイドは悲鳴のように叫んだ後、はっとして声を潜めた。
その反応を見る限りどうやら全くの他人ではないらしい。
メイドはすぐさま使用人頭にそのことを伝えろと言ってきたので、言われた通りに使用人頭にも話に行く。
「ショーン様か…」
使用人頭はため息ついたあと、ふと視線を上げた。
「お嬢様はどちらに?」
マリーシアの事かと思いを口を開こうとしたら着いてきたメイドが言った。
「お部屋に居られます」
どうやらお嬢様とはあの女の事らしかった。
あの男はあの忌々しい女の関係者らしい。
「お知らせしますか?」
メイドが言った。使用人頭は迷っている様だったが、頷いた。
「お伝えしない訳にもいかないだろう…
お前はショーン様をお連れしろ」
「はい」
使用人頭はメイドにあの女を呼びに行くように、俺にはショーンを屋敷に案内するように命令した。
門の前に戻るとショーンに罵倒されたが聞き流す。それよりもあの女との関係が気になっていた。
使用人頭たちの反応を見るに、ショーンとあの女の関係は決していいものでは無いようだ。
かと言って無下に追い返せるようなものでもない。……だめだ、分からない。
喚くショーンを応接室に通したあと、俺はそばに居た別のメイドに聞いてみることにした。
「ショーン様はお嬢様が欲しがったものなのよ」
メイドは辺に人がいないことを確認し、更に声を潜めてそう言った。
「ああ、あなたは知らないのね…最近は無くなったから……
お嬢様は欲しがりで、例え人のものでも一度欲しいと言ったら諦めないの。どんな事をしても手に
入れてしまう、あれは病と言ってもいいくらい」
「そんな、大袈裟な…」
欲しがり?
ただそれだけのことで病だなんて。
「あなたは知らないから。ショーン様だって元はお嬢様のお姉様、ディズリーナ様の婚約者だったのよ。
それをお嬢様が欲しがって…それでお二人の婚約もなかったことになったのに」
「そんな……ですが、婚約の破棄なんて」
あの女に年の離れた姉がいることは知っていた。その人が嫁いだということも。嫁いだにしては珍しく部屋が残されており、毎日掃除もされていたから余程仲のいい姉妹だと思っていたのに。
それに婚約は家同士の契約だ。
本人たちの意思は正直に言えば無視されている。それをたかがあの女が、当主でもない、まだ成人したばかりの女が覆したなんて信じられなかった。
「信じられないでしょうけれど、有名な話よ。お嬢様は成し遂げた。それからお嬢様とディズリーナ様の関係は最悪よ。あんなに仲のいいご姉妹だったのに」
「……ではショーン様はお嬢様の、」
「お嬢様に婚約者はいない。
ショーン様のことをお嬢様は捨てたのよ」
メイドは顔を顰めた。更に声を小さくしたため、その口元に耳を寄せた。いつの間にか、憎い筈の女の話を求める自分がいた。
「お嬢様は欲しがりで…けれど手に入れた途端捨ててしまう悪癖がある。
どんなに欲しがったものでも、自分のものになった途端見向きもしなくなる。興味が無くなる。
そういう悪癖があるの」
正直に言えばメイドの話を全て信じるのは難しかった。
何しろ自分はその場面を見た訳ではなかった。それほどまでに執着していたものに対して、人はそう簡単にその感情を捨てられるだろうか?
きっと捨てるのは捨てたものの愛情を測っているだけなのではないか。わざと自分の元から離し、相手の出方を伺っているだけなのでは。自分の元に戻ってくるか試しているだけなのだ。だからきっと、ショーンが会いに来るのを心待ちにして─…
俺のその想像は間違っていた。
あの女はショーンに会おうとしなかった。
メイドが呼びに行ったが、会うつもりはないと断ったらしい。
それに何故か腹が立った。
「あっ、どこに…!」
「俺がもう一度呼びに行ってくる!」
普段は寄り付かないあの女の居住スペースを走る。
途中すれ違った使用人たちがギョッとした顔を向けて来たが頭に血が上っていてそれどころでは無かった。
「お嬢様!失礼します!!」
ほぼノックと同時にそう言い放って扉を開ければ、ぽかんと口を開けるあの女の世話係と、ソファに腰掛けて本を読んでいるあの女がいた。
「えっ!ちょ、ちょっと何…」
「お嬢様、お嬢様にお会いしたいという方がいらっしゃっていますが!」
狼狽えているメイドの言葉を遮る。女は俺の声に初めて本から視線を上げた。
「あら、どうしたの…?貴方がここに来るなんて…」
本を閉じて不思議そうに首を傾げた。
その呑気な様子に更に苛立ちが増した。
「ですからお嬢様、お嬢様に会いにショーンという方が…」
「ああ、そのこと。聞いているわ」
「会われないのですか」
「ええ。特に用事もないし…私、今日中にこの本を読んでしまいたいの。わざわざ来てくださって申し訳ないけれど」
「なっ…、!」
言葉を失うというのはまさにこういうことを指すのだろう。
理解ができない。分からない。
この女のことが、分からない。
会いたいんじゃないのか。だってお前は姉からその男を奪ったのだろう?
大切なものだったのではないのか?欲しかったのでは無いのか?
どうしてそんなにどうでもいいという顔ができる?
俺には理解できない。
それから俺は他の使用人にも話を聞いた。あの時のメイドは真実を言っていた。
あの女は姉の婚約者を欲しがって捨てた。
女と姉は大層仲の良い姉妹だったらしいが、そのせいで関係は悪化し、あれ以来姉妹が揃った事は無いほど。姉は別の男に嫁いだが、あの女には便りの一つも寄越さず、結婚式にすら呼ばなかったらしい。
じゃあ女は姉のことが憎いのかと思えば、恐らくそうではない。
姉の部屋は片付けられておらず、いつも綺麗に掃除されているからだ。それを命じているのはあの女だった。普通は嫁いだ者の部屋は他の用途に使うことが多い。しかも姉と入れ替わるようにマリーシアと俺がやってきたのだから、マリーシアの部屋にしてもよかったはずだ。
なのに女は別の客間を潰してマリーシアの部屋にした。姉の部屋をわざわざ残した。毎日掃除もさせて。それは憎んだ相手にすることじゃないはずだ。
あの女のことが分からなかった。
「好きな人ができたの。……恥ずかしいけれど、多分これが恋、なんだわ」
マリーシアはそう言って照れくさそうに微笑んだ。
「世界が変わったように見える。こんなにも綺麗だったなんて。お父様が殺されたときは世界が憎かったけれど、こんなにも綺麗だなんて。
………ねえ、笑わないでね」
笑えないよ、マリーシア。
俺が笑うのはマリーシアが笑うときだ。彼女が美しい笑顔で世界を美しいというのなら、それは俺にとっては嬉しいことのはずだ。だから今は笑うべきだ。なのに笑えない。
「よかったな」
笑えない。なぜだ。笑え、笑え。
「よかった、マリーシア」
「ありがとう」
俺はようやく笑顔を浮かべることが出来た。
マリーシアが立ち去ったあと、あの女がやってきた。
「マリーシアから話は聞いた?」
使用人としてはあるまじきことだが、俺はその言葉を無視した。今すぐこの場から立ち去りたかったのだ。
「ねえ、そろそろ私のものにならない?」
小さな呟きだったはずなのに。
その声を拾ってしまう自分がいた。
マリーシアの好きになった相手は、中々癖の強い人物だった。容姿端麗で権力もある男だったので、ひねくれ者で臆病だった。
マリーシアは正直で強い女だったからその男に正面から告白をしたらしい。
家柄ではなく、見目でもなく、貴方のことが、貴方の性格に惹かれたのだと。
それを男は断った。臆病だから、マリーシアの言葉を信じられなかったのだろう。それでもマリーシアは諦めず何度も何度も思いを告げた。男が信じられるまで。何度も何度も。
「もう!!!だから好きって言ってるのに!!!どうして信じてくれないんだと思う!?!?
こんの臆病者!馬鹿!!」
「知るか。だから臆病者なんだろ?」
「悪口言わない!!」
「マリーが先に言ったくせに…」
「うるさい!!ううううう!!ばかーっ!!!!大好きーーっ!!!!!」
「………よくそんな小っ恥ずかしいことできるな」
いくら広大な庭の中とは言え、いきなり大声で叫び出したマリーシアに俺は正直慄いた。
ぷんすか怒りつつもマリーシアは手紙を認め始める。いくら尋ねていっても会おうとしないあの男に送り付けるつもりらしい。
──もしこの時に戻れたら。
この手紙は男の手に渡り、マリーシアの元に返事が届き、あんなことになると知っていたら俺はこの時のマリーシアを止めただろうか。
マリーシアが誘拐された。
何も考えられなかった。
午前中、マリーシアは笑顔で出かけて行ったはずだ。あの男に会いに。ついにあの男から返事が来たと喜んで。
知らせにきたのはあの男──マリーシアが思いを寄せていた相手だった。
高位貴族だという認識は頭からすっぱり抜けていた。
頭を下げて申し訳ないと謝る男の服の首元を掴む。
「マリーはどこだ!?
お前は何をしていた!!マリーに何かがあったら殺してやる!!」
「やめろ、不敬だぞ!!!」
マリーシア。
俺の主。俺の世界のすべて。俺の最も大切なもの。
俺の命よりも。この世界の何よりも。
──例え彼女にとっては、違くとも。
決死の捜索の末、マリーシアは見つかった。
かすり傷程度の外傷はあったが、大きな怪我はなかった。
怖かったと泣いたマリーシアは男に抱きついた。男が抱きしめ返す。
彼女の震えを止めるのは俺じゃない。
暖炉の裏で2人で抱きしめ合い、お互いの震えを抑えたのはもう遠い過去なのだ。彼女にとっては。
ずっと見て見ぬふりをしていた。
もうとっくに俺の世界は、俺とマリーシアだけの世界は壊れていた。
そのときようやく俺はそれを認めた。
「あなたはいかなくていいの?」
抱きしめ合う2人から踵を返した俺に声をかけたのはあの女だった。
「マリーシアが無事ならそれでいいんです」
そう答えると女は何か言いたげにしていたが、結局それ以上このことについて何かを言うことはなかった。
代わりに別の言葉を吐いた。
「ねぇ、じゃあ私のものにならない?マリーシアは無事だったのだから」
「………………生憎、俺はマリーシア様の世話係ですから」
どうせお前も捨てるくせに。
マリーシアの想いはようやく報われた。
誘拐事件を切っ掛けにあの男はマリーシアを失う怖さを知り、遠ざけることをやめたらしい。それどころか過保護と言ってもいいくらいに彼女を囲いこもうとしていた。
「ねえ聞いて!あの方がね、私を好きだって言ってくださったの!!結婚して欲しいって!!
夢じゃないわよね!?ねえちょっと私の頬を抓ってみてくれない??」
「落ち着けってマリー!!わかった、分かったから!」
「私は十分落ち着いてるわ!!いいわ、貴方がやらないなら自分でやります!!いたっ!いたい痛い!!!夢じゃない!!」
「いや落ち着け本当に…自分で自分のほほ抓って笑ってるやつが落ち着いてる訳ないだろ…」
マリーシアは自分の頬を抓っては笑っていた。白い頬に赤い跡が着く。必死にそれを止めさせて紅茶を飲ませれば、ようやく落ち着いた。
「………それでね、あなたに聞きたいことがあるんだけど」
改まった様子でこちらを伺ってくる彼女に、なんとなくどんな話か検討が着いた。
「俺もついて行くよ。マリーシア様の世話係だから」
「そう……でもその役目に囚われてない?お父様とあなたの母─ゾフィーがあのとき私をあなたに託したから」
2人が死ぬ間際に俺にマリーシアを託したのは事実だった。死んだ人間の言葉を忘れることは多分一生出来ないだろう。
けれどそれを囚われた役目だと思ったことは一度もない。
「俺は俺の意思でマリーシアについて行くよ」
そうすればあの女─あの憎い女とも離れられるはずだ。
あの女の声や目やその態度に煩わされることもない。
女が俺を手に入れることも、今よりいっそう難しくなるはずだから。
ひと月後、マリーシアは男と婚約した。
異例の速さだった。
「式は3ヶ月後ですって。成人したらすぐに挙げるそうよ」
「そうなのですね」
「…あなたは彼女について行くの?」
「はい、もちろん。マリーシア様にも是非と言われてしまいましたし」
──嘘をついた。
あの女がどんな顔をするのか見たかった。
お前の欲しがっている男がちっともお前に興味が無いと言っているのだ。
あの女は怒るだろうか。悲しむだろうか。俺にすがりついて、子どものように欲しいと駄々をこねたら面白いのに。
でも違った。
「そう、なのね。…あなたはやっぱりマリーシアばかりね」
あの女はぽつりとそう言っただけだった。
おかしい。
こんなはずじゃなかったのに。
どうしてもっと縋りつかない?お前は大切な姉から婚約者を奪ったのだろう?どうしてマリーシアから俺を奪わない?俺のことを欲しがっていたんじゃないのか?俺のことを見つめるあの目の輝きは嘘だったのか?
俺のことは要らないのか?
分からない。この女のことが分からない。
「……本当によかったの?」
「何が?」
結婚式のあとトゥアレグ家からマリーシアの嫁ぎ先に向かう馬車の中で、マリーシアはそっと囁いた。
「ごめんなさい、お姉様に引き止められているのを見てしまったの」
しゅんとしているマリーシア。あの女とその話をしたのは結婚式の前だからつまり3ヶ月も前のことだ。正直者のマリーシアにしては随分長い隠し事だった。
「………必要とされるのは嬉しいさ。でも」
捨てられたくない。
その言葉を吐くことはなぜか出来なかった。だが聡いマリーシアは分かってしまったらしい。
「……馬鹿」
「…うるさい。それに俺はマリーシアの世話係だから」
「ばーか」
俺は油断していた。いや、憎いと思っていた女を、実はどこかで信じていたのだ。
彼女はマリーシアには手を出さないと。
新居に移ってきてから暫く経っていたある日。
新しい家での暮らしはただひたすらに穏やかだった。俺はマリーシアの世話係というよりも、家の仕事を命じられることが多くなっており、彼女に会う機会もかなり少なくなった。大方嫉妬深い彼女の夫ががマリーシアの周りに俺がいることをよく思っていないのだろうと予想はついていたが、それになにか思うことは無かった。
その日はマリーシアを溺愛している男が珍しくどうしても外せない用事とやらで家を留守にしていた。
夕食を食べ、湯浴みも終えて。後は寝るまでの短いひととき。
俺は久しぶりにマリーシアの話し相手として呼ばれていた。勿論、別にメイドも同じ部屋にいた。
「なんだ!?」
急にあかりが消えた。ガラスの割れる音。
誰かの気配。
「きゃあ!!」
「マリーシア!!」
月明かりだけを頼りにマリーシアを探す。
分かるはずだ。だって彼女は俺の世界だったんだから。
「マリーシア!!!!!」
「だめ!!」
何かが弾ける音。
ガラスを踏み鳴らす音。
光った刃。マリーシアがその下にいた。
「やめろ!!!」
マリーシアが何かを叫んでいる。
体が酷く熱い。
刺されたのだと分かった。でもそれがなんだって言うのだ。
マリーシアが無事ならそれで良かった。
マリーシアは泣いていた。ぱたぱたと涙が音を鳴らす。
ああ彼女が泣いている。彼女にそうさせた存在を俺は怒らなければならない。憎まなければならない。
きっとあの女だ。直感だが確信していた。あの女がマリーシアを殺そうとした。俺を欲しがっていたあの女。マリーシアを殺せば俺が手に入るとでも思ったのだろう。
憎い。あの女が憎い。マリーシアを悲しませたあの女が憎い。
「どうしてっ……!どうして笑っているの…?」
笑う?そんなわけがない。
だってあの女はマリーシアを悲しませた。泣かせた。命を狙ったんだから。俺の世界を壊した元凶なんだから。
…………ああ、でも。
そうか、死んだらもうあの女の物にはならないな。一生。何があっても。
あの女は一生俺が手に入らない。すてられない。それは…そう、とてもいい気分だ。
「だめ、だめなの!!こっちを見て!!お願い!!!
お姉様だって…!!」
マリーシア。
俺の世界。俺の一番大切なもの。
あの女の心配なんて必要ないんだ。
お前が思うようなことは俺とあの女の間には無いんだ。
お前が思うものは美しいんだろう?世界を美しく見せるんだろう?……だから違う。
俺の世界はお前と二人だけだった。もう壊れてしまったけれど。
壊れたあとの世界は美しくなんてなかった。
だからこれは違う。違うんだ、マリーシア。
これはそんなに美しいものではなかった。
けれど、そう。
あの女が一生俺を欲しがるのなら。あの女が本当に強欲で欲しがりで病のような悪癖を持っているのなら。
死んだ俺はあの女にとっての─…
───世界になれるだろうか。
お読みいただきありがとうございました。
リンドウの花言葉:
悲しんでいるあなたを愛する