僕は小説のなかの君に恋をした
『僕は小説のなかの君に恋をした』
八千代 彰雄
1
「栗山さんっ。あなた、また発注してなかっただろっ。やる気あるっ?」
外国人とはいえ、やけにイントネーションに癖のある話し方で詰問する店長が、僕を下から睨みつけてきた。
不快な唾が僕の額を湿らせた。
「す、すいません」
「謝って済むなら警察いらないよっ」
猿眼を吊り上げた店長が、唇をめくって歯をむきだしにする。それから僕を押しのけると、路上に転がった空き缶と煙草の吸い殻を拾いはじめた。
足元でゴキブリが這いまわるような嫌悪感を覚えた。僕はレジ横を通り抜けてバックヤードにあるトイレに入ると、洗面台で顔を洗った。しつこいくらいに何度も洗った。
「栗山さんどこいった、お客さん待ってるっ」
野生猿のような甲高い泣き声が、僕の鼓膜を刺激する。あたふたとタオルを掴んで顔を拭うと、僕は急いでレジへと向かった。
正直、疲れる。何が疲れるって、世俗のしがらみがだ。
何故か新入りの若い奴等からにはバカにされ、中国人の女店長にもこうして叱られる毎日―こんな生活に嫌気がささないと言えば嘘になる。 それでも長い間、僕がこのコンビニでアルバイトを続けているのには理由があった。
君たちのような下等生物には、僕の孤高で崇高な秘めた志など理解できないかもしれない。でも近い将来、僕の存在と作品が世に出ることになる。そのときになって後悔しても遅い。
栗山陸斗と仲良くしておけばよかった―と悔し涙を流したり、地団駄踏んで後悔しても、時はすでに遅いのだ。
僕は店長と蒙古斑に頭を下げた。
「お疲れ様でした」
年下の生意気な男性アルバイトのことを、僕は蒙古斑と呼んでいる。勿論、口には出さないが。
案の定、返事はなかった。だけど、それはいつものことだ。そんな扱いに慣れてしまっている自分が情けない、とは思う。
店長とはプライベートな会話をしたことがないから、本当のところはわからない。でも、歳は四〇を目前にして未婚、顔のパーツの配置からして、結婚したくてもできないのだろう。
帰宅をしても「おかえり」と言ってくれる人もいない。僕にはいるが―母親だけど―。あの若僧だってそうだ。彼女がいるようには見えない。どうせ家に帰っても、やることは
ゲームとマスターベーション、そして寝るだけ。絶対そうだ、そうに決まってる!
微かな優越感を覚えて鼻を鳴らす僕に、二人が鋭い視線を送ってくる。僕は慌てて頭を下げると、売れ残りの弁当が入った袋を手にして踵を返した。
僕のバイト先は、豊島区東長崎駅から徒歩一〇分の場所にある。なぜ駅前のコンビニを選ばなかったのかというと、僕は両親や妹と同居しているからだ。
妹だけではなく、共働きしている両親は通勤の際によく駅前のコンビニを利用する。そのたびに僕の仕事ぶりを見られるなんて想像できないし、ありえない。ただでさえ、父とはろくに会話もしないのに、「いらっしゃいませっ」とか「ありがとうございましたっ」なんて笑顔を振りまくこと自体、考えられなかった。
長年乗りつぶして満身創痍になった自転車に跨がり、自宅マンションに辿り着いたときには、辺りを夕闇が包みはじめていた。
ドア越しに立つと、微かな笑い声が聞こえた。なんで──そう疑問に感じた瞬間、昨日の母の言葉を思い出した。
──明日は、あっちゃんの誕生日だから、お父さんもお母さんも早めに帰宅するから。
確かにそう言っていた。何で忘れてたんだろう──。
「……ただいま」
蚊の鳴くような声が聞こえなかったのか、談笑がやむ気配はなかった。スリッパに足を突っ込み、パタッパタッと音を鳴らして廊下を進むと、僕はリビングの扉を勢いよく開いた。
それは、まるでスクリーンの静止画を観ているようだった。蝋人形のように固っていた三人の顔がこちらに向けられた。
余所者に対して向けられるであろうその目つきに、僕は疎外感を感じていた。
「……何?」
「帰ってきたなら、ただいまのひとことくらい言ったらどうなんだ」
「言ったよっ」
それまでの談笑が嘘のように、父の目は冷めていた。
僕は苛立つ気持ちを我慢できずに、これ見よがしにため息をついた。
「お前、まだコンビニでバイトなんかしてるのか」
「……うるせえな」
「いいかげん、正社員としての就職先を見つけろっ」
「お父さんっ、今日は明日香の誕生日なんだから──」
見兼ねた母が顔を顰めた。いつもより化粧が濃いような気がした。
「俺と母さんだってな、いつまでもいないんだぞ。実家に住みついて恥ずかしくないのか」
「……ほっといてくれ」
「お、おい、待て、まだ話は終わってない──」
僕は父に背中を向けると、ふりきるようにして自室に入った。
ベッドに腰を下ろして、そのまま倒れ込む。強張っていた体がゆっくりと弛緩していくのがわかった。
僕にとって、この瞬間が何よりの楽しみだ。自分だけの空間、自分だけの世界、僕の人生は僕のものだ。誰にも邪魔されたくはなかった。
とはいえ、二八にもなって両親と同居、それに冴えないバイト暮らし──傍からみれば、ひきこもり予備軍に見えないこともない。
わかってる。僕みたいな人間が、社会通念や一般常識から逸脱しているんじゃないかということは──。
でも、なぜ僕がそんな石つぶてを投げられるような生活をしているのかというと──小説を書いているからだ。正社員では時間がなくなる。そうすると必然的にバイトをしている間は、親との同居を考えざるをえなかった。
とはいうものの、大学時代から書き続けた作品はすべて落選。あらゆる小説新人賞では一次選考すら通ったことがなかった。
なぜだ。なぜ、結果が出ないんだ──。
パチッ。
「あっ」
「なに一人で唸ってんの?電気もつけないで」
妹の明日香がにやにや顔でドアに凭れかかっていた。
「ノ、ノックぐらいしろよな」
「なんで、いやらしいことでもしてたの?」
「ちげえよ、考え事してただけだ」
「へえ、お兄ちゃんでも考え事することなんてあるんだ」
「お前、バカにしに来たのか? 用がないなら出てけよ」
「もう少ししたらご飯食べに行くって。お母さんがお兄ちゃんにも声掛けて、だって」
「俺、ちょっと具合が悪いんだ。三人で行ってきて」
「じゃあ、はい」
そう言って明日香が右手の手のひらを差し出してきた。
「なに?」
「プレゼント」
「……ああ、ごめん、忘れてた」
「えっ、嘘でしょ? 普通、大事な妹の誕生日を忘れるなんてありえなくない? だから二八にもなって彼女できないんだよ」
「お、お前だって彼氏いないじゃないか」
「あたしはいいの、仕事が恋人みたいなもんだし、まだまだ結婚する気もないんだから。万年フリーターのお兄ちゃんとあたしの立ち位置を一緒にしないでくれる?」
妹の言葉には正直腹が立つ。だけど、言い返すことはできなかった。
今日、二三歳になったばかりの明日香は、それなりの大学を卒業してそれなりの会社に就職した。世間体を気にする父がそれなりに満足するくらいだから、それなりの会社であることは確かだろう。もはや、それなりの意味するものが何なのかさえわからなくなっていた。わかっているのは、ただ兄と妹の間には、階級的な格差が存在しているという事実だけだった。
「もう、わかったから出てってくれ。疲れてるんだ」
そう
ドアの閉まる音を聞いてやおら立ち上がり、デスクに歩み寄る。僕は椅子に腰を下ろすと、パソコンの電源を入れて、小さなため息をついた。
2
その日は個人が経営している小さなカフェでコーヒーを飲んでいた。
「そりゃ結果が出せないのは、お前が恋愛小説を書いてるからだろ」
僕にとって唯一の友人である白石卓馬が、半笑いの顔でいう。
「ほっとけ」ちびちびと啜るコーヒーの味がいつもより苦く感じる。
「だってお前──」
そう言いかける友人を手で制して、僕は唇を噛んだ。
卓馬の言いたいことはわかる。僕は生まれてこのかた、彼女なんかできたことがない。そもそも、女子とまともな会話をしたこともなかった。典型的な非モテ男子。そんな尻の青い男が恋愛小説を書くこと自体がおかしい。恋愛経験がないのだから、良い小説が書けるはずがない。
「いいかげん、お前も筆を置けよ」
「うるせえな──」
白石卓馬とは大学の文芸サークルで知り合い、かつてはその卓馬も小説を書いていた。でも、卓馬は自分の才能がないことに気づいて、早々に筆を置いたのだ。なんの未練もなく。
いや、少しくらいはあったのかもしれない。それでも、今は間違いなくふっきれている。なぜなら、中小企業とはいえ今後の成長が期待できる会社に就職し、その後は綺麗な彼女と結婚して幸せを絵に描いたような暮らしをしているからだ。そこに筆を置いた後悔の色はなかった。今じゃ二児のパパだ。
筆を置こうと思ったことは何度もある。でも、書きたいという衝動をおさえることはできなかった。それに、僕は恋愛小説が書きたいのだ。だって、きゅんきゅんしたいではないか。せめて小説のなかだけでも──。
お前、現実から逃げているだけじゃないのか──何年か前に卓馬の口から出た言葉が脳裏を過ぎる。
その言葉の羅列をふりはらうようにして、僕は話題を変えた。
3
話題を変えたつもりが、その後も「お前には才能がない」だの「こっちの世界に戻ってこい」だのとさんざん嫌味を言われ、帰宅したのは昼過ぎだった。せっかくの休日が台無しだ。
僕は冷蔵庫からミネラルウォーターを一本取り出すと、パソコンに向かって文字を打ち始めた。
卓馬からは、僕がまるでサンドバッグにでもなったような責められ方をしたが、なんといっても今回の作品には自信があった。すでにプロットも完成してる。
その内容はというと、自分をモデルにした小説だった。冴えないコンビニ店員の前に、突如として絶世の美女が現れる。それも、アルバイトの新人店員として。次第にその娘といい感じになっていき──という展開だ。いかにも面白そうじゃないか。やばい、興奮してきた──。
現代版美女と野獣といったところか。これはあくまで、小説としての見込みがあるからで、自分がむふふな思いをしたくて書くわけではない……マジで。
塵ひとつ付着していない透明なガラスに、麗らかな陽射しが降り注いでいた。いつもと変わらぬ街を足早に行き交う人々が、いつものようにこの店に入ってきては、いつものように吐き出されていく──。そして、僕の日常はというと──いつもとおんなじだった。
「あなたっ、なぜここ掃除しないっ、ここ汚ないから、拭いて、と言ったでしょっ」
ドリンクコーナーのほうから片言の咆哮が聞こえてくる。一応、周囲を見渡してはみるものの、僕以外には誰もいない。その声は僕に向けられたもので間違いないようだった。
今日はこの店の社員である大木さんが、親戚の突然の訃報とかで急に来られなくなり、バイトリーダーの山下さんはぎっくり腰で休んでいる。急なシフト変更になんとか応じてくれたバイトの安田くんも、午後からの勤務ということになっていた。そのせいもあってか、僕の上司はいつも以上にピリピリしていた。
店長に駆け寄ると、僕は頭を下げた。
「すいません……」
「謝って済むなら──」
「警察はいらない、ですよね」
僕がそう返すと、顔を真っ赤にした店長はキーッと僕を睨みつけてバックヤードに消えていった。やはりその顔は猿のようで、先祖は猿なのではないかとさえ思った。
再び店内にお客が入り始め、潮が引いていくように、またからっぽになる。
しばらく店前の通りをぼんやり眺めていると、遠慮がちに店内を覗く女の子と目があった──』
僕は大きく息を吸い込むと、両手を組んで背伸びをした。今日はここまでにしておこう。ふふっ、名前は森星菜、二一歳の女子大生、黒髪が綺麗な明るいキャラだ。ちなみに星座は蟹座に決めた。だって僕自身が蟹座だから。蟹座の僕と君は強い絆で結ばれる。永遠の愛を誓い合うんだ──。
大学時代、将来作家になるための勉強として、独学で心理学を学んだことがある。そのなかに『類似性の原理』という言葉があった。それは例えば、この小説の主人公とヒロインのような異性同士に、兄弟姉妹の人数、長男や長女であるとか、星座、誕生月などが同じという共通点を見出すことができれば、お互いに親密感を抱きやすい、ということだ。そのために主人公とヒロインには共通点をふんだんに盛り込んだ。
この作品は、僕にとって渾身の一作となる。すでにタイトルも決めてあった。
それは──『僕は小説のなかの君に恋をした』だ!
4
雀の鳴き声と柔らかな陽光で僕は目を覚ました。いつもとの同じ、代わり映えのしない朝。そう、僕はいつものように起き出して、いつものようにパンを齧る。いつものように歯を磨いて、いつものように顔を洗う。時々、僕は誰かに操られたロボットじゃないか、と思う。それほど、僕の動作時限は厳格だった。
それじゃあ、誰が僕をコントロールしているんだろう? AIやロボットを専門にしている研究者や開発者か、はたまたそれに出資している資本家か? 僕は本当に自分の人生を生きているのだろうか。
もし仮に、僕が本物の人間だとしたら、僕はきっと神様に管理されている。僕は有神論でも無神論でもないけれど、神様的なものはいるんだと思う、きっと。もし、本当に神様的なものが存在するなら──。
ふと壁掛け時計に視線をやると、午前八時三〇分を過ぎていた。バイトの出勤時間は九時だった。僕は慌ててリュックを掴んで自宅を出ると、愛車の自転車に跨がって職場に向かった。
バイトには間に合ったが、妙な違和感を覚えた。店長がいるのだ。確か店長は夜勤に回っていたはずだった。
怪訝に思ったが、とりあえず挨拶すると、案の定無視された。無視はされたが、やはり僕に何か用があるらしい。
店長はつかつかと歩み寄って来ると、僕の前で立ち止まった。
「今日、大木さんと山本さん、休み、急だから困る。あなたっ、今日から研修、教えろっ」
「えっ、僕が研修受けるんですか?」
「違うっ、あなたバカっ、あなた、教える」
目を吊り上げて僕を指さす店長は、しきりに時計を気にしていた。だが、動揺しきっている僕に、店長の言葉はまったく入ってこなかった。
僕はもう一度確認した。
「それって、今日から入る研修生を僕が教育するということですか?」
「そうだっ、お前、仕事教えろっ」
「は、はい。わかりました」
ん? この展開──。
「大木さんと山本さんって、なんで休んだんですか?」
思わず僕はそう訊いていた。
「あなたっ、関係あるっ?」
店長はそう言うと、そそくさとバックヤードに姿を消した。
お客さんの対応がやっと落ち着いて、レジカウンターから外の様子を眺めていると、店内を覗いている女の子と目が合った。しばらく店の前を行ったり来たりしながら、ときおり車止めのコンクリートに躓いたりしている。
──何で入ってこないんだろう。
彼女の様子が気になって仕方がなかった。僕はいてもたってもいられずに扉を開くと、彼女に声をかけた。
「あの、どうかされましたか?」
「あっ、すいません、店長さんはいらっしゃいますか?」
はにかんで笑顔を見せる彼女の口からは、八重歯がこぼれていた。綺麗に梳かれた黒髪は僕好みのセミロングだ。それに可愛い。断然、可愛い!
「も、もしかして、研修生?」
僕の声はうわずっていた。自分の声じゃないみたいだった。
このシチュエーション──まさか、嘘だろ、そんなこと全然ありえない!
「は、はい──」
「今、はいって言った……」
僕の心の声は洩れていた。た、たしかにはいって言った──。
「はいっ、モリセイナといいますっ、よろしくお願いします!」
ええ──っ!
5
僕には金がない。そもそもバイトで働いているのは、少しでも実家に生活費を入れる必要があると思っているからだ。
そういった事情もあって、この一年間、豊島区長崎の区画から一歩も外に出ていない。まるで、ガラパゴス諸島に生息する珍動物にでもなった気分だ。
今日もその島のなかにある憩いの場で、カフェラテを飲んでいる。対面に座る動物は、いつも同じ。友人の白石卓馬だった。
その卓馬が焼きたてのクッキーを頬張りながら──まるでゾウガメみたいだ──ときおり僕に視線を向ける。口のなかのものを咀嚼して飲み下すと、エスプレッソを一口啜って口を開いた。
「お前、どうした?」
「えっ、なにが?」
「いや、だからその、いつもと雰囲気が違う気がする」
「──おんなじだよ、相変わらず金はないし、行動範囲は狭いしな」
そう言って僕は笑った。いつもより五割増しの笑顔で。
卓馬は僕のその態度にしばらく小首を傾げていたが、皿に残ったクッキーを一人で平らげると、訝る目つきで僕を見据えた。
「お前、もう小説書くのはやめたのか?」
またその話か。うんざりしながらも、僕は答えた。
「ああ」
「だから、早くやめろ──って、ええ?」
「だからやめたって」
「お、おい、それはどういう風の吹きまわしだよ。お前から小説とったらいったい何が残るっていうんだ、何も残らないじゃないか」
「なんだよ、お前はやめさせたいのか、やめさせたくないのか、どっちなんだよ──」
まあ、いい。今は卓馬の小言にも目をつぶっていられる。それだけ僕はご機嫌だ。
「陸斗、夕飯は──」
「いいっ!」
昨日、僕は帰宅すると、部屋に飛び込むなりパソコンの電源を入れ、前日に打ち込んだ文章に目を通した。
──やっぱりおんなじだ。僕の作った世界が現実になっている!
だけど、そんなことがあるだろうか。確かに、僕が設定した彼女と現実の彼女は名前も同じだし、会話の内容だってちゃんと小説に出てくる。でもそれは、偶然、同姓同名だっただけかもしれないし、僕が無意識に会話を誘導していただけかもしれない。
とにかく、僕はそれを確かめたくて、夢中でキーボードを叩いた。
卓馬には執筆をやめたといったが、本当はやめてない。だって、本当のことなんて言えるはずがないじゃないか。ただでさえ頭のおかしな奴だと思われているのに、とうとう陸斗は狂った、といわれるのがオチだ。
「いらっしゃいませっ、ありがとうございましたっ」星菜が僕に笑顔を向けてお辞儀をする。
「すごくいいよ、森さんは笑顔が素敵だから、絶対、森さん目当てのお客さんがくるよ。間違いないっ」
僕は拍手をして絶賛の言葉をかけた。
「はいっ、ありがとうございますっ、頑張ります!」
「栗山さんじゃなくていいよ。陸斗で。年も近いんだしさ」
「えっ、でもさすがに職場じゃまずいんじゃないですか?」
「それじゃ、二人のときだけっていうのはどう? 僕も星菜ちゃんって呼びたいし……だめかな」
僕がそう言うと、星菜は何度も首を横にふった。
「それじゃ、そう呼ばせてもらいます。陸斗……さん」
星菜は照れ臭そうにして頬を赤らめた。
うーん、どうしよう。僕は迷っていた。星菜の可愛らしい癖がもうひとつほしい。
星菜が恥ずかしがったときに、小さな──ピンク色の──舌をぺろっと出すのはどうだろう……。
いいよ、それいいよ、最高だよ。ふふっ。あっ、そうだ。彼女の口癖は「了解です!」にしよう。
そこで僕は気づいた。星菜は女子大生という設定だから、僕がバイトをしている時間帯は基本的に学校だ。研修の二週間は僕が星菜に合わせてシフトを変更してるけど、そのあとはどうするかな──。
そんなことをあれこれ想像しているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
僕は、星菜のことを想像するだけで胸がときめいたし、これからの毎日が楽しみでしょうがなかった。
それに、執筆作業を進めていくうちに、正直どっちでもよくなっていた。たとえ彼女が僕の創造物でも、たまたまの勘違いだったとしても、どっちだって構わない。僕と星菜はそれを覆すだけの運命的な出会いをしたんだから。
6
「お、いいね、いいねえ、うまそうだねえ」
僕はチョココロネを手にとると、父のいないリビングのソファに腰を下ろした。
「なにそのテンション、気持ち悪いんだけど」
明日香がトーストにマーガリンを塗りながら眉根を寄せる。
家の近くに美味しいパン屋の店があり、母の馴染みいうこともあって、栗山家の朝食ではパンが多い。
「陸斗、今日の仕事は夕方からなんでしょ」
母が冷蔵庫から牛乳パックとコップをとり出して、僕の前に置いた。
「そう、とりあえず二週間くらいだと思うけど、今日店長に相談してみる。今、新しい子が入ってきて僕が教えてるんだ」
「へえ、お兄ちゃんも人に教えることなんてあるんだ」
「当たり前だろ」
いちいち癪にさわるやつだ、そう思ったが、今の僕にはそんなことはどうでもよかった。
「学生さん?」興味津々といった表情で母が問いかけてくる。
「うん」
「もしかして、女子高生とか?」明日香が茶々を入れる。
「ちげえよ、早くいけよ、遅刻するぞ!」
「あ、絶対そうだ。お兄ちゃん、彼女いないからって変なこと考えたらだめだよ」
明日香はそう言って立ち上がると、トーストをくわえたまま玄関に向かった。
「んもぉ、いつまで経っても明日香は子どもなんだから。陸斗もあんまり気にしないほうがいいよ」
「全然気にしてないよ」
「お父さんも口うるさいこと言ってるけど、陸斗のことを心配してるのは本当だから。あんまり嫌いにならないであげてね」
そう口にして母は笑った。
母はいつも優しかった。優しくていつも僕の味方でいてくれた。雨の日も、風の日も、どんなときでも見守っていてくれる。いわば、僕の守護神だ。
僕は「うん」と頷くと、朝食を済ませて自室に戻った。
「仕事に慣れてきたら、パートやバイトでも商品の発注をしたりするし、そうやって仮説と検証を繰り返して学んでいくんだよ」
椅子に座って、熱心にマニュアルを読んでいる星菜に声をかけた。
「あたし、大丈夫ですかね」
「今は研修中で戸惑うことも多いと思うけど、星菜ちゃんは頭もいいし、飲み込みも早いから大丈夫だよ」
「ほんとですか、ありがとうございますっ」
星菜が安堵の表情を浮かべた。その顔はとても嬉しそうだった。
「さっき店長から聞いたんだけど、土日を含めた週四日のバイトなんだってね。それなら研修が終わっても土日は僕が教えてあげれるし、平日も当分の間は星菜ちゃんと同じシフトにしてもらったから」
「大丈夫ですか、あたしのために……。陸斗さんだって予定とかありますよね、いろいろと──」
「大丈夫、大丈夫、彼女もいないしね」
「えっ、陸斗さん、彼女いないんですか! それじゃ、あたしとおんなじだ」
当然だった。だって、彼氏がいないように設定したのは僕なんだから。彼女は七月二一日生まれの蟹座だったし、Kポップが好きなところも僕と一緒だった。
やっぱりこれは夢なんかじゃない。現実なんだ!
でも、僕はちょっと塩加減を間違えたみたいだ。星菜の男性ボーカルユニットに対する熱量が尋常ではなかったのだ。家に帰ったらその設定を消してしまおう、と僕は思った。
「星菜ちゃんはどこに住んでるの?」
「千早です」
それまでに、親の都合で何度も引越しをしている、といった。
「僕は長崎だよ」
「すごい近いですね。今までなんで出会わなかったんだろう──不思議ですね」
「いや、どこかで会っていた可能性はあるよ。だって隣町なんだから、絶対会ってるよ」
「そうですよね。陸斗さんとは共通点も多いし、ここで出会ったのも、なんか必然を感じちゃいます!」
「必然──」
それは僕が想像した通りの世界ではあったけど、面と向かっていわれるとやっぱり嬉しい──。
その後も仕事そっちのけで談笑していると、椅子に足を引っかけた星菜が転びそうになった。
「きゃっ!」
僕は慌ててその体を受けとめた。
「だだだ、大丈夫っ?」
そのとき、バックヤードの入口に誰かが立っているのが見えた。おそるおそる視線を上げると、僕は思わず下唇を噛んだ。
「なにこんなところでいちゃついてんだよ。ろくに仕事もしてねえくせに」
そこには、蒙古斑と連れのバイト店員が立っていた。
「す、すいません」
「すいません、じゃねよ」
蒙古斑が肩を怒らせながら近づいてくる。それから肩を小突かれ、僕はよろめいた。
すると、星菜が止めに入った。
「やめてください! 栗山さんはあなたよりもよっぽど仕事ができる人です。能力はあるけど、ただ、やらないだけです!」
そう啖呵を切る星菜に蒙古斑は言葉を失っていた。それも当然で、能力があるなら、やれ、という話だ。だけどこれも僕のシナリオ通りだから、星菜が頓珍漢なことをいうのは当たり前なのだ。
その後も僕は筆に任せ、星菜との仲を深めていった。今日は星菜にデートの約束をとりつけたし、すべてが順調に進んでいる。普通なら二人揃って同じ日に休みをとれば、店長に怪しまれるはずだ。でも、そんなことを気にする必要はなかった。
僕は研修期間後の日曜日が待ち遠しくて、有頂天になっていた。
7
星菜が隣で震えている。
肩を抱き寄せたい衝動を必死でこらえて、僕はハンカチを手渡した。
「ありがと、ございます──」
星菜の目には涙がたまっていた。瞬きを繰り返すたびに、どんぐりのような滴が頬を伝い落ちていく。
映画館を出たあと、僕は「どうだった?」と星菜に感想を訊いてみた。
「こんなの反則ですっ。あたし、知らなかった。こんなに感動する映画があったなんて──」
「星菜ちゃんなら気に入ってくれるかなってずっと思ってたんだ」
「ほんとですか。あたし、邦画ってあんまり観たことがなかったんですけど、『君のてのひら』は最高でした!」
星菜の無垢な笑顔に僕はまた嬉しくなった。
僕にとってデートは生まれて初めての経験だった。それでも、僕と星菜の物語は想像した通りに展開されていくし、星菜もちゃんと反応してくれる。恐いものなんて何もない。
何もないはずなのに──どうしてだろう。僕は心のどこかにこびりつく、黒い塊のようなものをどうしても拭い去ることができなかった。
僕と星菜は原宿にできたばかりのオープンカフェで昼食をとり、まったりとした時間を共に過ごした。星菜はいまどきの女の子らしく、イチゴの位置を頻りに気にしながらパフェの写真をインスタに投稿している。
「星菜ちゃんはフォロワー数とかすごそうだなぁ」
「それが、全然なんです。世間で活躍するインフルエンサーさんたちってすごいじゃないですか」
「そうなんだ、でも星菜ちゃんならすぐにたくさんのフォロワーを獲得できるよ」
「ありがとうございます。でも、フォロワー数とその人達にファンになってもらうというのは、また別の話ですから」
僕はガラパゴス諸島に生息しているだけあって、最近の流行は知らないしSNSについても詳しくない。でも、彼女のやることはなんでも応援してあげたかった。
星菜はアメ玉のような大きな瞳で僕を見つめると、いただきますっ、といってイチゴパフェを頬張った。
「美味しい! 陸斗さんも食べますか、これほんとに美味しいですよ」
「星菜ちゃんは美味しいものを食べると、本当に幸せそうな顔をするね」
「そうですか? あはっ、そうかなあ」
「そうだよ、星菜ちゃんは人より感受性が強いんだよ、きっと。美味しいものを食べて満足する人はたくさんいるだろうけど、星菜ちゃんの幸せのバロメーターはいつも幸福度がMAXって感じだもんね」
星菜の濃厚な笑顔を見ているうちに、さっきまで覆っていた胸のもやもやはどこかに消し飛んでいた。
星菜がパフェを頬張る姿は本当に可愛らしかった。急に僕も食べたくなってきたので、チョコレートパフェをひとつ注文し、シェアしながら食べた。
そのときだった。
「あ、クリーム」
僕のほっぺについたクリームを指でなぞり、星菜がぺろっとなめる。
「えっ?」
僕の心臓は破裂寸前だった。
ほ、ほ、惚れてまうやろ──!
東長崎駅に着いたときには、午後九時を回っていた。
タクシーに乗り込み自宅に帰っていく星菜を見送ったあと、僕は愛車が停めてある駐輪場に向かった。
そこで驚かされた。
ぼ、僕のサドルがない!
わけがわからない。百歩譲って女の子が乗りそうな自転車のサドルを盗むのならまだわかる。でも、どこからどうみても日雇い労働者が無理して買ったようなボロボロの自転車なのだ。
いたずらか?それとも新手の変態なのか?
僕が理解に苦しむなか、突然後方から声をかけられた。
8
「陸斗か?」
振り向くとそこには卓馬が立っていた。
「なんだそれ? サドルどうしたんだよ」 ぷっ、と吹き出して卓馬が笑う。
「いや、その──」
「なんかお前らしいな。間が抜けてるというかなんというか……」
「卓馬こそ何してんだよ」
「俺は仕事の帰りだよ」
「もう九時過ぎだぞ。今じゃ、働き方改革とかいうやつでもっと早く帰れるんじゃないのか」
「うちみたいな中小企業がまともにそんなことやってる余裕なんかねえよ。この先はどうなっていくか知らねえが、仮にやっても表向きの話だろ。この前、一人うつで退職したしな」
そう言って卓馬が口をすぼめる。思っていたよりもサラリーマンは大変なのかもしれない、と僕は思った。
ところで、と怪訝な顔で卓馬が口を開いた。
「さっきの女、あれ誰だよ?」
「え、女?」
「とぼけても無駄だ、俺の視力は2・0だからな」
「……マサイ族並みだな」
「マサイ族は5・0くらいだろ、お前、ごまかすなよ」
「ご、ごまかしてないよ」
「俺にも言えないような女なのか」
「そんなんじゃない、そんなわけないじゃないか。ただ──」
僕はサドルのない自転車を押して卓馬と歩き始めた。
二人で近くの公園のベンチに腰を下ろす。水銀灯の明かりがやけに眩しかった。
目の前の友人が荒唐無稽な話を信じるとは思えない。そう思いながらも有無を言わさぬ卓馬の口調に僕はすべての事情を説明した。
案の定、卓馬は信じなかったが、それでも僕の真剣な面持ちに何かを感じとったのだろう。卓馬は意味深な表情を浮かべると、何度も顎を引いた。
「仮にだぞ、もし仮にその話が本当だとして──お前は本当にそれでいいのか?」
「えっ?」
「だって彼女はお前の思った通りに動くんだろ。この結末はどうするつもりなんだ」
「それは──」
「っていうか、それって恋愛って言えるのか ?まるでAIのプログラム通りに動くロボットみたいじゃないか」
卓馬の直截的な言い方に、僕は絶句した。
僕だって同じことを考えなかったわけじゃない。
「だけど、僕みたいな人間が──」
そう言い訳しようとも、卓馬は容赦しなかった。
「それでも男かよ。昔、お前に言ったよな。現実から逃げているだけじゃないのかって」
僕は悔しかった。次第に卓馬の輪郭がぼやけていった。
「お前はやっぱり、昔と変わって──」
もうこれ以上はなにも聞きたくない。僕はベンチを立つと出口に向かって歩き出した。
卓馬の言う通りだった。僕は現実から逃げているだけなんだ──そう思うと、ふいに涙がこぼれた。
その日の夜、僕は自室のベッドに寝そべったまま動くことができなかった。
今日一日の楽しかった出来事も、忘れてしまうくらい憂うつな気分だった。
星菜はずっとこのまま僕の想像世界のなかだけで生きていくのだろうか。そう思うと、どうしてもパソコンに向かう気にはなれなかった。
独り善がりの恋愛ごっこはママゴトと一緒じゃないか──。
やっぱり、こんなのは恋愛じゃない。
でも、怖かった。もし僕が筆を置いたら、彼女はどうなってしまうのだろう。そもそも自分が作ったキャラクターなのだから、筆を置いた途端に星菜はいなくなってしまうのではないか。まるで魔法が解けてしまうみたいに。
作りごとの世界では自信満々だったはずの僕が嘘みたいにうろたえている。そんな自分が嫌でたまらなかった。
その後は、結局パソコンに向かうことも家から出ることもなく、バイトの日を迎えてしまった。
仕事に行く気力は失せていた。だけど、今日は星菜のバイトの日でもあるのだ。結果はどうであれ、このまま顔を合わせずにいたら、僕は後悔する気がする。
それに筆を置いた僕の前に彼女は現れるのか、それを確かめずにはいられなかった。
9
今日は何も手につかなかった。
星菜がいなかったわけじゃない。彼女は、確かにそこに存在したし、僕と一緒に作業もしていた。
でも──それまでの彼女とは明らかに違っていた。
日曜日のデートはいったいなんだったんだろう、そう思うくらい僕と星菜の親密感は消え去り、二人の関係はただの同僚になり下がっていた。
自分なりに覚悟はしていたつもりだった。それなのに、こうして現実を突きつけられてみると、やっぱり悲しかった。
あたかも催眠術が解けたように振る舞う彼女に、僕は完全に打ちのめされてしまった。
辛うじてバイトは続けていたが、以前のような自分ではいられなかった。
それから、三ヶ月が過ぎたある日のこと──。
眉間に皺を寄せた店長が「森さん、やめた、突然だから困る」そう僕にいったのだ。なぜやめたのかもわからないという。信じられなかった。
確かにここ最近の彼女には、以前のような覇気は感じられなかった。それは決して不真面目ということではなく、何かを思い詰め、気持ちが上向かない、という感じだった。だけど、僕にはどうしようもない。あの日以来──筆を置いた日──僕自身も彼女との距離感に悩んでいたのだから。
星菜がいなくなって一週間がたった。その間、僕の頭のなかで彼女の存在は小さくなるどころか、むしろ大きくなっていった。
星菜のことを考えるたびに胸が締めつけられ、子どものようにじっとしていられなくなる。かつては僕を嬉しくさせたり、わくわくさせてくれた二人の会話も、今はただ虚しいだけだった。
今頃はどうしてるんだろう。一人で泣いたりしてるのかな。
僕は何度も筆をとりそうになっては、すんでのところで思いとどまった。
でも、星菜に会いたい。会って、僕の気持ちをちゃんと伝えたい。そう思いはじめたらいてもたってもいられなかった。
僕はその日から星菜のスマホに電話をかけた。LINEも送ってみたけれど、彼女に繋がることはなかった。あれだけ楽しそうに話をしていたSNSのアカウントも、閉じてしまっていた。
いったい星菜に何があったんだろう。僕の脳内を、急に雨雲のような不安が覆いはじめ、何度もため息をついてはその雲を吐き出そうとした。
やっぱり筆を置いたことと関係があるのだろうか。『森星菜』がこの世に存在した、という事実さえも信じられなくなりそうだった。
星菜の地元に僕の知り合いはいない。同級生のなかで、千早に友人の多そうな人物を頭に思い浮かべてはみたけれど、僕の狭いネットワークでは、ぴんと来る人間はいなかった。
卓馬しかいないか。
正直、卓馬に協力をあおぐのは癪だった。それでも、今は星菜の行方が知りたいという思いのほうが勝っていた。
僕はパソコンの横に置いてあったスマホを掴むと、卓馬に相談の電話を入れた。初めは文句ばかり言っていた卓馬も、しぶしぶながら最後は了承してくれた。
そういえば、千早に来る前は親の都合で何度も引っ越しをした、と星菜は言っていた。それなら、小、中学生の頃はまだ千早に住んでいなかった可能性もある。
卓馬に高校時代の同級生やその後輩にあたってもらおうか。いや、それなら星菜が通っている大学に行ってみたほうが早い。
さっそく行動あるのみだ。
10
+
僕は旭丘にある大学のキャンパスにいた。もちろん部外者まる出しの不審者には見られないように、服装には気をつけたつもりだ。最近の大学生がどんな服を好んで着ているのか、僕にはまるでわからなかったけど、少し歳をとっているということ以外、特に問題はないはずだった。
芝生に腰を下ろした僕は、ベンチに座って難しそうな本を読む学生やスケッチをとる学生、眼前を通り過ぎていく学生たちを眺めながら、ふと思った。
そもそも僕が造り出した世界に星菜は現れた。それは本当に無から生み出されたものなのだろうか。それとも、ナポレオン・ヒルが提唱していたように、僕が思考したことがすでにこの世に存在していた彼女を引き寄せたのか。まるで磁石みたいに。
実際、僕が筆を置いてからも星菜が忽然と姿を消すということはなかった。筆を置いた直後も確かに彼女は実在していたのだ。あれは幻なんかじゃないはずだ。
僕はすべての迷いを振り切って、そう信じることに決めた。
三人目に声をかけた男子学生が「森星菜を知ってる」と答えたときには、思わず小躍りしそうになった。星菜は確かにこの大学に在籍していた。
だけど「そういえば最近見てない」とか、「俺、そんなに親しくないから」という返答があって、期待は一瞬にして失望に変わった。
聞けば大学での星菜はそれほど目立たない子だという。だから印象は薄い、と。
今どきの女の子と同じようにSNSを楽しんでいた星菜は、いつも笑顔で底抜けに明るい性格なのだ、と僕は思っていた。でも、それは彼女の一断面に過ぎないのかもしれない。
そのとき、卓馬から着信があった。
『俺の知り合いの妹がその星菜って子と親しいらしい』
僕は早鐘を打ちはじめた鼓動を静めるように、大きく深呼吸した。
「それで──」
『それなんだが、彼女は大学を休学して今は入院してるらしい。病院の名前は──』
そのあとの卓馬の声はほとんど聞こえなかった。聞こえなかったというより、左脳が拒否反応を示していた。
僕は走っていた。
なんで、なんで彼女が?
世界にはこんなにたくさんの人がいるのに、星菜と出会えて──僕の想像の世界に登場して──僕は恋をした。やっと自分に向き合うことができて、僕の正直な気持ちを君に伝えたいと思っていたのに。
僕は、こんなこと望んでない!
ブラインドが閉じられ、光が遮断された病室で彼女を見つけてしまった僕は怖じ気づいていた。
ベッドに腰を下ろした星菜が、手元の文庫本に視線を落としている。その横顔はどこか物憂げで、僕は胸を掻き毟られるような思いがした。少し痩せたようにも見える。
枕頭台の上に飾られた生花は色鮮やかで、見る者を勇気づけてくれるような優しい花だった。それは彼女を少しでも励ましたいという来訪者の気持ちの表れなのかもしれない、と僕は思った。
病室の入口で立ち竦んでいると、星菜がわずかに視線を上げた。
僕の存在に気づいた星菜が、一瞬驚きの表情を見せた。
少しの間、星菜はじっと僕を見つめていた。
深閑とする個室の沈黙は、僕にとって堪え難いものだった。だから星菜がいつもの笑顔を見せてくれたときは、正直ホッとした。
星菜がおもむろに口を開いた。
「ごめんなさい。挨拶もしないで突然辞めてしまって──」
僕は首を左右に振った。
「店長にも本当の理由は言わなかったんだね」
「言いましたけど」
「えっ?」
「辛かったね、早く治して戻ってきて、って言ってくれました」
「ほ、ほんと?」
星菜はこくりと頷いた。
「やっぱり店長には、たった三ヶ月で辞める理由を言わないわけにはいきませんでした。でも、あたしと仲良くしてくれたバイトの人達には言えなかった。だって、事情を訊かれたときに嘘をつける自信がなかったから。それに気を遣わせちゃうのも悪いと思って」
やっぱり星菜は僕が思った通りの女性だった。自分のことより、周囲を気遣える優しい子だ。
僕はごくりと唾を飲み込むと、確認するように訊ねた。
「ガン、なんだってね」
「はい、ステージ4だってお医者さんにいわれました」
僕は胸が詰まって何も答えられなかった。ずっと下を向いていることしかできない自分が、本当に情けなくて悔しくて仕方がなかった。
しばし沈黙があったあと、僕はやっとのことで口を開いた。
「ステージ4でも、よくなる人もいるって聞いたことがあるよ」
毎日苦しい思いをしている人に、本当はこんなことを言っちゃいけないのかもしれない。
でも、諦めてほしくない。生きて、これからの人生をまっとうしてほしい。
それに、僕はまだ彼女に伝えていないことがある。
胸いっぱいに息を吸い込んで顔を上げたそのとき、星菜と目が合った。
そのうるんだ瞳には、まだ生きていたいと願う彼女の痛切な思いが込められているように僕には見えた。
「せ──」
「あ──」
僕と星菜の声が重なる。
「どうしたの?」
「いえ、陸斗さんから──」
「星菜ちゃんから先に」
そう言う僕に星菜が微笑んだ。
「あたし、やっぱりまだまだ生きたかった。女友達と美味しいものを食べたり、おしゃれして街に出掛けたり、大好きな人と大恋愛して──子ども、ほしかった……」
そう口にして星菜は声を詰まらせた。
「ま、まだわからないよ。死ぬと決まったわけじゃないし、星菜ちゃんが大学を休学したのだって──」
「休学にしたのは家族の希望だから」
「……どういうこと?」
すると、ためらいがちに星菜は答えた。
「あたしの余命は、あと半年なんです──」
11
どうやって自宅に帰り着いたのか、自分でも記憶にない。
薄暗い部屋のなか、ベッドで横になったままじっと天井を見つめていた。まるで、心と体が風船のように膨らんで宙に浮いているみたいだった。
そもそも、僕は星菜と本当の恋愛がしたくて筆を置いたはずだ。それなのに──。
彼女を失ってしまうかもしれない、そう考えるたびに、僕はとてつもない感情に襲われて無性に叫び出したくなった。
でも──僕なんかよりずっと、彼女のほうが何百倍も辛いはずだ。
僕はもっと星菜に生きてほしかった。もっと生きて、とにかく生き抜いてほしかった。そして、八重歯のこぼれるその笑顔で、たくさんの人達を幸せな気持ちにしてあげてほしかった。
ただ、僕には小説がある──。
今までは、僕の思いをただ彼女に押しつけるだけだった小説。でも、今は違う!
僕はパソコンの電源を入れると、それまで中断していた小説の続きを書き始めた。
12
「そんなことしても──」
そう口にする星菜に、僕は何度も「そんなことないっ」といい続け、CTを撮ってもらうよう説得した。
「信じてもらえないとは思うけど、星菜ちゃんは僕の小説のキャラクターなんだ」
「えっ?」
「その証拠に、君は僕が描いた通りに動く。すべてが小説の通りになるんだ」
『森星菜』との出会い、これまでのいきさつ、そして、僕の正直な気持ちを全部星菜に伝えた。
星菜は信じていないようだった。
それでも、真剣な眼差しで語り続ける僕の素直な気持ちだけは、どうやら信じてもらえたようだ。
彼女への気持ちは嘘じゃない。森星菜は僕の物語のヒロインではあったけれど、これからは想像の世界ではなく、本当の僕を好きになってもらいたい。そのためにも僕は変わろう、と思った。そして、いつか彼女を振り向かせることができたとき、二人で未来を築いていきたいと僕は思った。
「僕はこれで小説をやめるよ。自分の力で君に近づけるように頑張る。僕が変わって、本当の僕を見て、いいなって思ったときには付き合ってほしい」
僕は翌日も星菜のいる病室を訪れていた。CT検査の結果は聞くまでもない、そう思っていた。だけど、星菜の口から出た言葉は、僕にとって到底信じることができないものだった。
「やっぱり、ガンは残ってました。むしろ前より悪くなってるかも──」
「なんで──」
そう呟く僕に、星菜が明るい声で言った。まるで何かをふっきったような、そんな表情だった。
「きっと、解けちゃったんですね、魔法……」でも、と星菜は続けた。「でも、こうして陸斗さんと出会うことができて、今こんな話を二人でしてる──それってすごいことですよね。本当に奇跡だと思う。あたし、また生まれ変わることができたら、必ず陸斗さんに会いに来ます。絶対っ!」
気丈に振る舞う星菜の唇は震えていた。
「陸斗さん、ちゃんとこれからも小説を書いて下さいね」
「僕はもう──」
「あたしとのことがあったからやめるなんて、絶対言わないで下さい。だって陸斗さんが小説書くのをやめちゃったら、あたしは本当にこの世界に存在しなくなっちゃうじゃないですか。確かに、あたしの人生は短かったかもしれないけど、この世に生を受けて、ちゃんと生きてたんだっていう証を残してほしいんです」
僕はただ拳を握り締めて俯いていることしかできなかった。
八ヶ月後──。
僕は最後の一枚を書き上げてから、何度も推敲を重ねた。
それまでの妄想を現実にしてきた世界は終わり、僕は現実に起きたことを小説世界に落とし込みながら完成させた。
星菜が息を引きとったあと、僕は実家を出て一人暮らしをしながら正社員を目指していた。それに、寝る間を惜しんでも小説を書くことだけはやめなかった。
森星菜は確かにこの世に存在した。
そして僕の小説のなかで彼女は今も生き続けている。
この物語の二人のように、決して一人で刻むのではない。僕の胸のなかで今も生き続ける君と、共に未来を刻んでいく──。
来世でも星菜に出会えることを祈って、僕は静かにパソコンを閉じた。
13
『栗嶋陸斗さまのお電話番号で、間違いはございませんでしょうか』
「は──」
極度の緊張のせいなのか、のどの奥が塞がってなかなか言葉が出てこない。
某出版社が主催する、新人発掘プロジェクトの小説新人賞に応募してからというもの、僕の頭のなかはそのことでいっぱいだった。
担当者の人が何か言っていたが、僕が唯一聞きとれたのは、最終候補に選ばれました、という言葉だけ。
結局、しどろもどろな受け答えをすることしかできなかった僕は、担当者の言葉を何も覚えていなかった。冷静になったあと、再度、担当者に確認の電話を入れたのは言うまでもない。
「残った──」
隣にいる彼女にというより、半信半疑から出た心の声だった。
だって、今まで一次二次選考すら通ったことのなかった僕が、最終候補作に選ばれたのだ。
「りっくん、諦めなくてよかったね。やっぱり素質はあるんだよ」
目の前で破顔一笑する彼女が女神のように見える。
「そ、そんなこと──」
「りっくんが書いた『僕は小説のなかの君に恋をした』が新人賞をとって、ドラマ化されるといいね」
春の柔らかな陽射しが、微笑みを浮かべる彼女の横顔を照らしていた
──完──