第五十四話
「天使…?」
「…あなた達には聞き馴染みのない言葉ですか? 神や宗教と言った物が廃れて久しいですからね」
ジュデッカは首から提げたロザリオに触れながら呟いた。
「神の遣い。神罰の代行者。意味は様々ですが、単に『神聖なもの』とだけ理解していれば良いですよ」
天使。
神聖なもの。
邪悪な悪魔とは対極に位置する存在だ。
「この世で最も罪深いことは何だと思いますか?」
ジュデッカは世間話をするような気軽さで告げる。
「…それは、裏切り。悪魔は裏切る生き物です。欲望の為、保身の為、いともたやすく他者を裏切る」
「………」
ビーチェはジュデッカの言葉を否定しなかった。
一時的に手を結ぶことはあっても、欲望の為なら平然と裏切るのが悪魔だ。
魔王の眷属からヴェンデッタに加わったグラッフィ達も、見方を変えれば裏切り者である。
「眷属にすら裏切られてしまっては、安心して計画を進めることすら出来ない。だから私は、彼女達から『心』を奪った」
「…心を、奪った?」
「心を持つ限り、悪魔は己の欲を捨てられない。欲望を生む心を全て削り取った無垢な存在。それが、天使です」
「ッ!」
ぞくり、とビーチェは背筋に悪寒が走った。
心を奪う。
欲望を削り取る。
そんな狂った実験の結果が、ビーチェを抑える者達だ。
己の心を奪われ、自我すら失った悪魔の成れの果て。
ビーチェはアンジェロを見て、人形のようだと感じていたが、その予感は当たっていた。
彼女達は人形だ。
自分の意思で生きてすらいない道具だ。
「…どうして、そんなおぞましいことが出来るの?」
「おぞましいとは心外ですね。欲望を抑えられず、争いを止められない悪魔の性から解放してあげたのですよ?」
「ふざけないで…! ただ心が無い方が扱い易いと思っただけでしょう!」
「………」
ビーチェの指摘にジュデッカは口を閉じた。
図星を指された、と言う雰囲気ではない。
むしろ、的外れな指摘を受けたとでも言いたげだが、怒っている訳でも無かった。
ただ物を知らない子供を相手にするように、微笑を浮かべる。
「私に支配欲はありません。強いて言えば、管理欲ならありますが」
アンジェロに指示を出し、ビーチェの拘束を解きながらジュデッカは言う。
「私はこの荒れ果てた世界を変えたいんですよ。汚染された悪魔達も救いたい。他の誰もそう考えないのなら、私がするしか無いでしょう?」
「…その救いと言うのは、自我を奪って人形に変えて侍らせることかしら?」
ジュデッカの願いを聞いても、ビーチェには欠片も理解できなかった。
まるで自分が救世主とでも言いたげな口調だが、やっていることは他の魔王と変わらない。
己より弱い悪魔を捕らえ、下僕に変えているだけだ。
肉体を支配するのみならず、心まで奪う所がより悪辣だ。
「あなたなら理解してもらえると思ったのですけどね。他ならぬ、あなたなら」
「何を言っているの?」
「…やはり、まだ自分の力を自覚していないようですね。アンジェロに拘束されても、ネロを生み出さなかった時点で予想はしていましたが」
「…ネロを、生み出す?」
「これだけ言っても、まだ気付きませんか?」
ジュデッカはそう言うと、ゆっくりと手を向けた。
「!」
いきなり向けられた手を警戒し、ビーチェは影から狼を生み出す。
「…そう、あなたの能力は影から獣を生み出すこと」
影の狼を見下ろしながらジュデッカは呟く。
「獣。動物。即ち、生命。それは狼だけを差す言葉では無いでしょう?」
「………」
「あなたがネロと初めて会った時、彼はどこから現れましたか?」
ネロとビーチェが初めて出会った日。
ビーチェが何人かの悪魔に襲われていた時、ネロが現れたのは…
「…まさ、か」
ネロが現れたのは、ビーチェの影の中から。
それはつまり、
「ネロは悪魔ではありません」
ネロは己の欲を持たない。
我欲は殆どなく、己よりもビーチェを優先する。
欲望に支配された悪魔では有り得ない特徴だ。
「あなたが生み出した獣の一体に過ぎないのですよ」
「そんな、馬鹿な…!」
ビーチェは信じられなかった。
ネロの正体が、ビーチェが生み出した獣?
そもそも悪魔ですらなく、ビーチェの能力に過ぎない?
「何度殺されても蘇るのは、その度にあなたが命を与えていたから」
「―――ッ」
ビーチェは自身の足下に居る影の狼を見つめる。
例え何度殺されてもこの狼は影から生み出すことが出来る。
それと同じだったのだ。
ネロが死ぬ度に、ビーチェは無意識のうちに影から新たなネロを生み出していた。
「最初は魔王の眷属程度だった実力が変化したのは、あなたが魔王の強さを目にしたから」
ネロを生み出したのがビーチェなら、その強さがビーチェの想像を超えることは無い。
一度敗北し、トロメーアの強さを目にしたからこそ、ビーチェの認識が強化され、新たに生み直されたネロも強化された。
魔爪とは悪魔が己の欲望を満たす為に生み出した力。
ネロとは、あらゆる敵からビーチェを守る願望そのものなのだ。
「だ、だったら、ネロが私を守るのは…」
「自分の意思ではありませんよ。あなたによって植え付けられた感情。それに従っているだけです」
ビーチェに生み出された狼が言葉を交わさずとも忠実に従うように。
ネロは生まれた瞬間からビーチェに対する忠誠を刷り込まれていた。
悪魔でありながら初対面からビーチェを慕っていた本当の理由。
「自我を奪い、心を操り、人形に変える。それは、あなたも同じなんですよ」




