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悪の嚢  作者: 髪槍夜昼
第二圏 アンテノーラ
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第四十一話


「ハッ…ハッ…ハッ…!」


犬のように呼吸を荒げながら、アリキーノは屋敷の中を走り続ける。


これほど息を切らして走るのはいつぶりだろうか。


こんなにも必死になったのは生まれて初めてでは無いだろうか。


思えば、いつも格好ばかりを気にして生きてきた。


良く見られたくて、周りに好かれたくて、外面ばかり取り繕って本音を語れなかった。


「…ッ!」


かつて、アリキーノには誰よりも愛した女が居た。


名前は『エレクィン』


向日葵のように笑う女だった。


「………」


アリキーノは彼女の笑顔が好きだった。


暴力と裏切りだらけのこの世界で、唯一信じられる物だった。


彼女が傍に居るだけで、幸せだった。


「………」


この世界は地獄だ。


悪魔だけの世界は、弱者に優しくなかった。


ある時、アリキーノは魔王の眷属に襲撃された。


瀕死になるまで痛めつけられ、エレクィンを誘拐された。


しかし、辛うじて生き残ったアリキーノはすぐに魔王の眷属を追った。


その魔王とは、アンテノーラだった。


眷属の一人を殺した瞬間から目を付けられ、アリキーノは何度も命を狙われた。


それでも向かって来る敵を殺しながら、エレクィンを取り戻す為に走り続けた。


そして…


「………」


その時に何が起きたのか、アリキーノは今でも分からない。


分かっているのは、自分を殺そうと襲ってきた刺客を全て返り討ちにしたこと。


そうして殺害した死体の中に、アリキーノが最も愛した女が居たこと。


アリキーノは自らの手で、エレクィンを殺したのだ。


「…チリアット」


扉を蹴破り、アリキーノはその部屋へと足を踏み入れる。


ただの直感だが、何故かこの部屋にチリアットが居ると言う確信があった。


その確信は外れることなく、そこにはチリアットが居た。


ミリオーネと言う女と共に。


「…どうしてここに来たのですか?」


どこか冷めた表情を浮かべてチリアットは言った。


「決まっている。君を助けに…」


「私がいつ、そう願いましたか?」


冷え切ったチリアットの顔に僅かに苛立ちが浮かぶ。


見たことも無い表情に、アリキーノは言葉を失った。


「手紙を置いてきた筈です。私はアンテノーラ様の眷属になります。だから、あなたとはお別れです」


「…本気で、言っているのか?」


信じられない、と言うようにアリキーノは呟く。


誘拐されたと信じていた。


洗脳されたのだと思っていた。


それなのに、アレは全て本心だったのか。


チリアットは本気でアンテノーラ様の眷属になることを選んだのか。


「…あははは! 本当に惨めな男! フラれたことを認めるのがそんなに辛いのですか?」


その姿に我慢できず、ミリオーネは吹きだした。


アリキーノのことを遠慮なしに嘲笑っている。


「プライドばかり高くて自分が間違えているなんて考えもしない! これだから男って言う生き物は愚かですね! あはははは!」


「………」


嘲笑を続けるミリオーネは気にも留めず、アリキーノは無言でチリアットを見つめた。


「だったら、どうして直接言わなかった?」


「…え?」


アリキーノの言葉に、チリアットは首を傾げる。


「本気でオレに嫌気が差したのなら、どうして手紙なんて回りくどい方法を選んだ?」


「そ、それは…」


冷静だったチリアットの顔に初めて動揺が浮かんだ。


「本当にアンテノーラ様の眷属になることを望んでいるなら、オレに言えば良かった。オレに嫌気が差したと言うのなら、オレはきっと引き留めなかった」


「ッ…」


例え因縁あるアンテノーラだろうとも、自分に愛想を尽かした女を引き留めはしない。


そんなことはチリアットも理解していた筈だ。


それでも手紙を置いて逃げるように去ったのは、アリキーノに対して思う所があったからでは無いか。


「…あなたの、そう言う所が嫌いだったんですよ」


憎々し気に顔を歪めながら、チリアットは言った。


「…ずっと黙っていましたけど、初めから知っていたんですよ。あなたが私を恋人に選んだ理由を」


チリアットは真っ直ぐアリキーノの顔を見つめた。


その顔は怒りと悲しみが混ざった今にも泣きそうな顔だった。


「あなたが私の姉を、エレクィン(・・・・・)を殺したからでしょう?」


「!」


姉。


そう、チリアットはエレクィンの妹だったのだ。


かつてアリキーノが誰よりも愛し、その果てに自ら殺した恋人。


「私はあなたが憎かった! 私のたった一人の家族を奪ったあなたが!」


それは今まで秘められたチリアットの本音だった。


当然の感情だった。


大切な姉を理不尽に奪った相手を憎むのは、当たり前のことだった。


「でも、私は弱く、一人では生きていけなかった…! だから私は、あなたの手を取るしか無かった!」


生きる為に仕方が無かった。


例えどれだけ憎い相手だろうとも、頼らずにはいられなかった。


姉を奪った男に媚びて、尽くして、生きるしか無かった。


それがチリアットの歪み。


チリアットは何度もアリキーノに恩があると言っていたが、一度も愛しているとは言わなかった。


「チリアット…君は…」


「…所詮私も悪魔、大切なのは自分だけだったんですよ。姉の仇に縋り付いてでも、死にたくなかった。薄情な妹、ですよね…?」


ポロポロとチリアットの目から涙が零れる。


「私は…! 私を助けてくれるのなら、誰だって良かった…!」


叫びながらチリアットは懐から小瓶を取り出した。


中に入った蜂蜜色の液体を躊躇いなく口に含む。


「何を…」


「…アンテノーラ様の血は、眷属の力を強化する。私の弱くて情けない力も、アンテノーラ様の力を借りれば…!」


チリアットの姿が変わっていく。


栗色の髪が急速に伸び、子犬のようだった体が段々と膨らむ。


「見せるのは初めてですよね…コレが私の魔爪……『リカントロポ』です」


手足は強靭な爪となり、増大した髪が毛皮のように全身を包んだ。


本能に支配された瞳と剥き出しの牙。


それは、人狼だった。


「ォォォォォォ!」


獣と化したチリアットが咆哮する。


理性も知性も無く、本能のままにアリキーノへと襲い掛かった。


「チリアット…! チリアット! オレの声が聞こえないのか!」


「無駄ですよ。もう何も聞こえません」


チリアットの爪を躱しながら必死に叫ぶアリキーノを見て、ミリオーネは冷笑を浮かべた。


「『蜂蜜酒ミード』は眷属の力を強化すると同時に、アンテノーラ様への愛を植え付ける…」


小瓶に入った蜂蜜色の酒を弄びながらミリオーネは言う。


「今のチリアットはアンテノーラ様の愛の奴隷。ただアンテノーラ様の敵を殺すだけの眷属」


それこそがアンテノーラの真の能力。


グラッフィが予想していたように、他者を強化する能力など目覚める筈がなかった。


アンテノーラの能力は他者の強化ではなく、他者の奴隷化。


己に忠実な兵隊蜂を作り出す女王蜂の能力。


「愛の、奴隷…!」


やはり、チリアットは洗脳されていたのだ。


否、チリアットだけではない。


アンテノーラの能力が洗脳だと言うのなら、もしかしたら…


(エレクィンは…!)


エレクィンもアンテノーラの血を飲んでしまったからではないか。


そして洗脳され、アリキーノを殺す刺客となったのではないか。


「―――ッ」


復讐の憎悪に支配されそうになりながらも、アリキーノは大きく息を吐いた。


憎しみに溺れて自分を見失う訳にはいかない。


例え洗脳されていたとしても、恐らくチリアットの言葉は本心だ。


アリキーノに姉を殺され、チリアットはそれだけ傷付いた。涙を流した。


それは紛れもないアリキーノの罪だ。


だが、それでも…


「例え君にどれだけ憎まれても、オレが君を助けない理由にはならない」


始まりは罪悪感ですら無かった。


エレクィンを失った心の穴を埋める為、彼女の妹を傍に置いた。


どうしようもなく醜いエゴ。


まるでペットのように彼女を扱っていた。


「………」


しかし、段々と心の中で何かが変わっていった。


エレクィンの代わりではなく、チリアット自身を見るようになった。


彼女の笑顔を見る度に、穴の空いた心が満たされるような気分になった。


失いたくない。彼女を。


例え自分の命を失うとしても。


(…ああ、そうか)


今、ようやく分かった。


これが、この気持ちが…


「ォォォォォォ!」


チリアットは牙を剥き、アリキーノへ飛び掛かる。


アリキーノは、それを躱さなかった。


「な…」


ミリオーネが驚きの声を上げる。


人狼と化したチリアットの牙が深々とアリキーノの首筋に喰らい付き、骨が砕ける音が響く。


「………」


頸動脈が千切れ、血が噴き出す。


自分の血で血塗れになりながらも、アリキーノはチリアットの体を抱き締めた。


「魔爪『スキューマ』」


瀕死のアリキーノの口が言葉を呟く。


水を操るアリキーノの能力。


それが発動すると同時に、チリアットの体が段々と小さくなっていく。


「元の姿に戻っていく…? 一体どうやって…!」


「…チリアットに、元々自分を人狼化する能力はない。この能力は、アンテノーラの血の力だ」


チリアット本来の能力はもっと小さな力の筈だ。


それが人狼化する程に強化されているのはアンテノーラの血の力。


「ッ! まさか、水を操る能力でチリアットの中の蜂蜜酒ミードを!」


ミリオーネは信じられない、と叫ぶ。


チリアットの体内に存在するアンテノーラの血。


それさえ取り除けば、チリアットは元に戻る。


言葉にすれば簡単だが、そう上手くいく筈がない。


チリアットの体内の水分を全て把握し、その中からアンテノーラの血だけを探すなど。


「賭けだったけどね。こうして、オレの血をチリアットに飲ませることで、内側からアンテノーラの血を吸い出した」


「…だとしても! 自分が死ぬかもしれないのに、どうしてそんな…!」


「それが愛、と言う物だ………君達には、無いものだよ」


アリキーノは迷いなく、そう告げた。

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