第四話
ビーチェの家の中は、予想していたよりも広かった。
やや雑多に物が置かれているが、最低限の生活スペースは確保してある。
上層の暮らしとは比べられないが、それを除けばかなりマシな方だろう。
「好きに座って、椅子は一つしかないから」
そう言ってビーチェは古ぼけた椅子に座り込む。
来客など普段はないのか、テーブルも椅子もビーチェ一人分しか無いようだ。
ネロは少し考えた後、そのまま床に腰を下ろした。
「さて、改めて聞くけど、ネロは閉じ込められる前のことは何も覚えていないのよね?」
「そうだな。自分の名前くらいは覚えているが、それくらいだ」
「記憶喪失ってやつね」
ビーチェはゴソゴソと菓子の入った缶を取りながら、そう呟く。
「こんな場所で良ければ、いつまで居てくれても構わないわ」
「それは有り難い」
「けど、条件がある」
缶からクッキーを一枚取りつつ、ビーチェはネロの顔を見つめた。
「この家で暮らす間、私の身を守ってくれる?」
微笑を浮かべてビーチェは言う。
それに対し、ネロの答えは決まっていた。
「当然。言った筈だ、俺は君の騎士になると」
「騎士、ね」
作り笑みを浮かべたまま、ビーチェはその言葉を繰り返す。
「騎士と言うからには、私の敵を滅ぼす助力もしてくれるのかしら?」
「言うまでも無く。君の敵は、俺の敵だ」
「…それが魔王でも?」
ビーチェは僅かに笑みを崩して呟いた。
言葉に隠し切れない激情が宿る。
「魔王。四大魔王。誰よりも強大な邪悪」
世界が一度滅びた後、魔王は新たな世界を支配し続けた。
千年の間、それに逆らう者が現れなかった訳がない。
我の強い悪魔達は魔王の支配を嫌い、魔王に戦いを挑んだ。
何回も、何十回も、何百回も、
それら全てを退け、千年も君臨し続けたからこそ、魔王は恐れられているのだ。
「その魔王が私の敵、だと言ってもあなたは私の騎士でいてくれる?」
ビーチェは値踏みするような視線をネロに向けた。
恩だの、騎士だの、と何とも耳障りの良い言葉が好きなようだが、どう反応する?
魔王に敵対するなんて自殺行為。
命を救われた恩があったとしても、そんなことに手を貸す悪魔なんていない。
いや、そもそも悪魔は恩なんて感じない。
「それでもあなたは、私の味方でいてくれるの?」
馬鹿な質問だ、とビーチェは内心自嘲する。
悪魔は自分が一番大切なのだ。
他の何に執着しようとも、己の命以上に大切な物など有り得ない。
魔王と敵対し、自殺しようとする他人に付き合う者などいる筈がない。
「俺の命は、君の物だ」
ネロは真っ直ぐビーチェの目を見つめながら、そう答えた。
「ビーチェ、君が望むなら俺は魔王だろうと、世界だろうと、滅ぼしてみせよう」
「………」
断言するようなネロの言葉。
それはビーチェの願いを叶える物だったが、ビーチェは内心舌打ちをしたい思いだった。
耳障りが良すぎる。
嘘に嘘を塗り固めたような胡散臭さ。
ネロは確かに強いが、それでも魔王も世界も滅ぼせる程ではない。
その大言はただ、ビーチェを騙す為の虚言だろう。
そんな言葉を信じると侮られたことに、ビーチェは激怒する。
「…あのね、魔王って言うのは常識の外にいる存在なのよ? そんな簡単に滅ぼせる訳ないでしょう?」
「簡単、だとは思っていない」
ネロは苦笑を浮かべてそう言った。
「だが、君の眼は本気だった」
「…え?」
「俺だって、太陽を落とせとか、海を干上がらせろとか、途方もないことを言われればそれは無理だと告げるしかない」
ネロは再びビーチェの赤い瞳を見つめる。
「君が本気でそれを望んでいるなら、協力しない訳にはいかないだろう?」
そう、ネロとしても軽い気持ちで言った訳では無いのだ。
魔王は敵だと告げるビーチェの顔に嘘は無かった。
途方もない存在だと知りながらも、ビーチェは本気で魔王の死を望んでいる。
魔王を強く憎んでいる。
だとすれば、ネロはそれに手を貸さない訳にはいかない。
「そうだな。この気持ちは忠義と言うよりは、愛に近いのかもしれない」
「………」
「愛しているぞ、ビーチェ。だから俺は何があろうと君の味方だ」
恥も照れも無く、ネロはきっぱりと告げた。
ビーチェはあまりのことに口を開いたまま、固まる。
「わ、私は…」
何とか我に返り、ビーチェは口を開く。
「…簡単に愛だの恋だの囁く男は、嫌いよ」
今は、そう答えるのが精一杯だった。