第二十九話
そこは、腐臭と汚濁に満ちた地獄のような場所だった。
泥水を啜り、時には死体すら喰らい、それでも生き続けた。
未来なんて無いのに、ただ死にたくなくて生き続けた。
『………』
俺は、何も持っていなかった。
まともな食い物も、安全な家も、綺麗な服も、何一つ持っていなかった。
生まれた時から一人だった。
家族も友人も、持っていなかった。
『………』
持っている者達が羨ましかった。
どうしようもなく、妬ましかった。
誰もが持っている当たり前の物…
『幸福』が、欲しかった。
「ッ…!」
一瞬、脳裏に過ぎった光景にトロメーアは苦い顔をした。
あんな光景は知らない。
アレは自分の記憶ではない。
少なくとも今のトロメーアは、あんな惨めな思いをした記憶など無かった。
「鬱陶しいんだよ! どいつもこいつも…!」
トロメーアは再生した左腕を握り締め、怒りのままに叫ぶ。
無数の巨人の腕が形を失った。
青白い光へと戻ったそれは混ざり、融け合っていく。
「喰い殺せェェェェ!」
収束したトロメーアの魂が巨大な蛇へと姿を変える。
形を変えようとその性質は変わらない。
巨人の腕同様に、この大蛇にも触れた者の魂を削り取る能力がある。
その巨体に見合わない速度で大蛇の牙がネロへと迫った。
「フッ…!」
だが、大蛇の牙がネロへ届く前にその姿が再び掻き消える。
先程と同じ光景。
ネロは一瞬で己の影の中に潜伏することが出来る。
(それだけでは、無い)
トロメーアの目がネロの影を睨む。
影に潜伏する能力。
確かにそれはネロの能力の一部だが、それだけではない。
「隙ありだ!」
(影から影へ移動する能力…!)
ネロが姿を現したのは、己の影ではなくトロメーアの影からだった。
トロメーアが不意打ちを受けたのは、コレが原因だ。
今まで隠していたのか、それとも新たに目覚めたのかは知らないが、今のネロは影から影へ瞬間移動することが出来る。
己の影に入り、他者の影から出る。
自分のみならず、敵の影すら利用する能力だ。
「二度も同じ手が通じるか! 間抜けが!」
既にその能力は一度見ている。
トロメーアは影から現れたネロへ振り返るよりも先に、足を踏み鳴らした。
瞬間、地面から巨大な蛇の口が現れる。
一度はネロへと放った大蛇の首。
それが地面を擦り抜け、ネロの足下から首を出したのだ。
大技を放ち、わざと隙を見せることで、逆に罠に嵌めた。
「死ね!」
大蛇の口が閉じる。
獲物を捕らえ、喰らおうとする。
「…沈め」
「な…」
大蛇の口が開いたまま止まった。
ネロの体を呑み込もうとしていた大蛇の首が、影の中へと沈む。
底なし沼の如く、地面に映るネロの影へと引き摺り込まれていく。
「馬鹿な…! 実体が無い俺の魂を、どうやって…!」
有り得ない、とトロメーアは叫ぶが、目の前の光景は変わらない。
何者にも触れられない筈の大蛇が、影の中へと呑み込まる。
「奪われる側になった気分はどうだ! トロメーア!」
「ぐっ…!」
ネロが影の刃を振るい、今度はトロメーアの右腕が宙を舞う。
奪われる側。
正に、その通りだ。
先程からトロメーアはネロに傷一つ与えていない。
トロメーアの傷ばかりが増えていく。
魔王となった自分が。
一方的に、追い詰められている。
「あ、あああああああァァァァァァ!」
トロメーアは絶叫し、切断された右腕をネロへと向けた。
瞬間、失われた腕の先から無数の手が伸びる。
亡霊のように不気味で青白い手が、傷口から弾けた。
大きさは巨人の腕には及ばないがその数は桁違いだ。
視界を埋め尽くす程の夥しい手が、ネロを襲う。
「くッ…!」
流石に躱し切れず、数本の手がネロの肩から足に触れた。
亡霊の手は皮膚も肉も透過し、直接ネロの魂へと侵入する。
「ひ…はは…ははははは! 捕まえた! 捕まえたぞ、ネロ!」
動きの鈍ったネロへと他の手も殺到する。
次々と亡霊の手はネロを貫き、その魂に触れる。
それはただの攻撃ではなかった。
「初めから…! 初めからこうしていれば、良かった…!」
己の魂を他者に送り込み、その魂を侵食する。
他者の肉体を乗っ取る。
それこそがトロメーアの最たる能力。
「奪うのは俺だ! 俺だけだ! お前の全てを、俺に寄越せェェェ!」
「…ッ」
ネロの顔が苦悶に歪む。
影に潜伏することは出来るが、既にその魂にはトロメーアが喰らい付いている。
この状態で影に逃げ込んでも、トロメーアからは逃げられない。
「弾けろ『スキューマ』」
しかし、この場に居るのは二人だけでは無かった。
言葉と共にトロメーアの周囲で無数の水泡が弾ける。
ダメージなど殆ど無いが、その音はトロメーアの気を散らし、霧状となった水がネロの姿を隠す。
「離れたぞ! 今だ!」
アリキーノの声が響くと同時に、霧の向こうから数多の攻撃が飛び出した。
炎の矢や氷の槍など、ヴェンデッタのメンバーがチャンスと見てそれぞれの魔爪で攻撃を放つ。
「邪魔を、するなァァァ!」
全ての攻撃を打ち払いながら、トロメーアは叫ぶ。
この程度の攻撃、ダメージにすらならない。
警戒するべきなのは変わらずネロ一人。
必ず奇襲を仕掛けて来る筈だ。
この霧から晴れる前に、影から身を出す筈。
「!」
霧の中からネロが飛び出した。
影の刃を手に、トロメーアの首を狙う。
「馬鹿が!」
瞬時に無数の手がネロの全身を貫いた。
気が急いた隙を見逃さず、トロメーアはネロに止めを刺した。
最後の最後で勝利したのはトロメーア。
…その筈だった。
「トロメーア!」
背後から、殺した男の声が聞こえた。
慌てて自分が殺した相手を見ると、それは形を失って溶けた。
(偽、者…?)
それは影。
それは影を生物へと変える能力。
その能力は…
「母と父の仇だ! トロメーア!」
「べ、ベアトリーチェェェェェェ!」
因果応報。
かつて自身が地獄へ落とした娘の能力が、トロメーアの命運を断った。
背後から迫る影の刃がネロの首を断ち切る。
どれだけ高い不死性を持っていたとしても、それは致命傷だった。
「―――」
ザザザ…と思考にノイズが走る。
覚えの無い記憶が映し出される。
『………』
腐臭と汚濁に満ちた地獄。
汚物に塗れながらそれでも生き続けた。
何かが欲しくて。
何かを得たくて。
そして、
そして、家族を見つけた。
本当の家族じゃない。
赤の他人。同じ境遇の孤児。
ただ日々の少ない食べ物を分け合うだけの仲。
それでも、家族だった。
何一つ持たない俺の、唯一の大切な物。
かけがえのない物。
『………』
だが、それすらも俺は失った。
突然現れた身綺麗な格好をした男達。
俺の家族の手を掴み、無理やり連れていった。
奴隷として売る、と言っていた。
俺は、俺は抵抗した。
しかし、勝てなかった。
殴られ、蹴られ、踏み躙られた。
連中は、俺には奴隷としての価値が無いと言って捨てていった。
そして俺はまた、一人になった。
『………』
世界が崩壊し、俺は力を付けた。
魔王となり、全てを手に入れた。
かつて俺がそうされたように、何もかも奪い尽くした。
それなのに、どうしても満たされない。
どれだけの財宝を手に入れても、この心は空っぽのまま。
幸福ってやつを、俺は手に入れることが出来ない。
(俺は…)
何が欲しかったのだろう?
何を求めていたのだろう?
魔王に成り果ててまで、本当は何を…
(何を、取り戻したかったのだろう…?)




