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悪の嚢  作者: 髪槍夜昼
第一圏 トロメーア
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第十三話


「幸福とは、何だと思う?」


西方『フレジェトンタ』にて。


魔王トロメーアは世間話のように呟いた。


「俺の場合は…そうですね。上質な酒を浴びるほど飲んだ時でしょうか?」


眷属の一人が戸惑いがちにそう答える。


実に悪魔らしい模範回答だった。


しかし、トロメーアの望んだ答えでは無かったようで僅かに眉が動く。


「ええと、俺は…美しい乙女を無理やり組み伏せた時です」


それを見て、媚びるような笑みを浮かべて別の眷属が言った。


その答えもまた、悪魔らしい回答だった。


弱い女を力で屈服させ、己の物とする。


原始的で野蛮だが、殆どの悪魔が望んでいることだ。


「違う違う違う! お前達は本当に分かってねえなァ!」


細い目で二人を睨みつけながら、トロメーアは手を振る。


「酒? 女ァ? そんな安い快楽なんて何百年も前に飽きたっつーの!」


言いながらトロメーアは近くに置いてあった酒瓶を取った。


希少な高級酒を躊躇いなく口に含み、一息に飲み干してしまう。


トロメーアはつまらなそうに息を吐いた。


「どんな名酒を味わおうと酔えない。どんな美女を抱こうと満たされない。この渇きは、何を奪おうと癒えることがない」


長く生き過ぎた代償と言うべきか。


千年の内に思いつく限りの快楽は全て満たしてしまった。


「分かるか? 幸福とは、未知・・なんだ」


知らないからこそ、それを求める。


経験していないからこそ、それに価値が生まれる。


逆に言えば、既知となった物に価値など無い。


「既に知っている快楽など、噛み終わったガムみたいな物だ」


「は、はあ…」


「新鮮さだ。それが何より大切なんだよ」


そう言ってトロメーアは酒瓶を握り潰した。


「…少し出掛けてくる」


「え? トロメーア様、どちらへ?」


驚いた眷属の言葉に、トロメーアはニヤリと笑みを浮かべた。


「俺の幸福・・の下へ」








「少し、話をしない?」


ビーチェはネロの目を見つめながらそう呟いた。


「構わないが、何を?」


「…私の話よ」


椅子に座り、ビーチェは言う。


「私がどうして魔王トロメーアを憎んでいるのか、それくらいは話しておこうと思ったの」


ネロがバルバリッチャと戦った日から、ずっと考えていたことだった。


彼は自分の為に魔王の眷属と戦い、そして倒した。


なのに、自分は魔王を敵視する理由すらまだ話していない。


それは不義理だと、ビーチェは思ったのだ。


悪魔らしくない考え方に思えるが、借りを作りたくないと言うビーチェ自身の思いもある。


「元々私は、両親の三人で辺境で暮らしていたの」


「辺境と言うと、ディーテの外か?」


「ディーテでは無い。四大魔王の領土でも外れの方だから、魔王からも他の悪魔からも狙われることの無い辺境の地」


そこは村ですら無かった。


ただ三人が暮らす家だけがあり、他には誰も居なかった。


どうして両親がそんな場所を選んだのかは知らなかったが、ビーチェは不満を抱いたことは無かった。


三人だけで完結した世界。


弱肉強食を法とする悪魔とは思えない、穏やかな日々を送っていた。


「何の不満も無かった。何も望んだことはなかった。それなのに…」


「………」


ネロは以前見たビーチェの姿を思い出した。


両親を求めて一人泣くビーチェの涙。


彼女にどんな悲劇が起きたのか、想像することは容易い。


「十八になった日の夜、母は死んだ。あの男に殺された」


悲しみを目に宿し、ビーチェは呟いた。


あの男。


それが魔王トロメーア。


世界を統べる魔王の一人が、何故辺境で暮らす家族を狙ったのか。


「…父親は、どうなったんだ?」


薄々答えを理解しながら、ネロは訊ねた。


恐らくは、母と同様の目に遭ったのだろうと。


「ッ…父さん、は…」


ビーチェはネロの言葉に、先程よりも悲し気に顔を歪めた。


しかし同時に、その眼に深い憎悪も浮かぶ。


ネロはそれに違和感を抱き、訝し気な顔をした。


何故、そんな複雑そうな表情をするのかと。


その時だった。


「…何、だ…!」


突然、巨石に押し潰されるような重圧を感じた。


立っていられず、思わず床に膝をつく。


脳が揺さぶられ、吐き気がする。


「コレは、魔素…?」


眩暈を感じながらも、ビーチェは呟く。


魔素とは、崩壊後の世界に満ちるエネルギーだ。


悪魔が魔爪を使う際も、大気中の魔素を利用している。


今の世界では酸素と同じくらいありふれた物。


だが、それが今、質量を持って周囲に影響を及ぼしている。


「…ッ」


居るのだ。


あまりに高濃度の魔素を周囲にばら撒いている存在が。


並みの悪魔では比べ物にならない存在が、外に立っている。


「…ネロ」


「ああ…」


小さく声を掛け、二人は外へと出ていった。








「初めまして、と言うべきか?」


大気を渦巻く魔素の中心に、その男は立っていた。


対峙しているだけで発狂してしまいそうな存在感。


白装束を纏ったその男は、細い目を二人へと向けた。


「名前はトロメーア。魔王、をしている」


「…魔王」


ネロはその言葉に顔を歪める。


まさか、向こうから来るとは思わなかった。


魔王の眷属であるバルバリッチャも相当な実力者だったが、それでもこの男に比べれば赤子のような物だと理解する。


格が違う、と言う言葉を初めて実感した。


「…わざわざ眷属の敵討ちか。四大魔王とは、意外と暇なのか?」


「うん?」


挑発するようなネロの言葉に、トロメーアは僅かに首を傾げた。


「一つ目の質問に答えるならば、否定だ。俺がここへ来たのは、別にバルバの為じゃねえ」


「…何?」


「俺がここへ来たのは、そう…」


トロメーアの目が開き、ビーチェの姿を捉える。


に会いに来た、だけだ」


「…娘、だと?」


ネロは驚きに目を見開いた。


確かに父親が死んだとは言わなかったが、どういうことだ。


両親は優しかったのではなかったのか。


ビーチェの母を殺したのは、実の父親だとでも言うのか。


「そして二つ目の質問に答えるならば、肯定だ。案外暇なんだよ、魔王ってやつはさァ!」


玩具を前にした子供のような笑みを浮かべ、トロメーアは言った。

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