第十一話
『悪の嚢』の西方。
世界を四方に分割する魔王の一角。
西方の魔王トロメーアの領地。
其処は煮え滾る血の河に浮かぶ古城。
鉄と鉄のぶつかる音、常に戦いの音が鳴り続ける地獄。
『フレジェトンタ』
それが、トロメーアの支配する地獄の名だ。
「…チッ」
傷付いた肉体を魔力で修復しながら、バルバリッチャは舌打ちをした。
傷の治りが遅い。
元々バルバリッチャは防御や再生を苦手としている。
攻撃に特化し過ぎているが故の欠点だったが、今までそれを気にしたことは無かった。
何故ならどんな敵も一方的に殺して来た為、傷一つ負ったことが無かったからだ。
これほど重傷を負ったのは、かつて魔王トロメーアに敗北した時以来だ。
(忌々しい…!)
自身に傷を負わせたネロの顔を思い浮かべ、バルバリッチャに青筋が浮かぶ。
もう当初の目的などどうでもいい。
あの男だけは絶対にこの手で殺す。
次は油断などせず、最初から全力で殺してやる。
「おやおや、コレはどうしたことだ?」
領地へと帰還したバルバリッチャは、男に声を掛けられた。
白装束を纏った細身の男だ。
狐のような細い目をしており、口元には常に笑みが張り付いている。
靴は履いておらず、その体はふわふわと宙に浮いていた。
装飾のつもりなのか、手足には何か文字が書かれた包帯が巻いている。
筋骨隆々なバルバリッチャと比べれば貧弱すぎる青白い男。
だが、その男を目にした途端にバルバリッチャの顔は青褪めた。
「と、トロメーア…様…」
怯えたようにその名を呼ぶバルバリッチャ。
見るからに弱々しく見える男。
その男こそ、世界を支配する四大魔王の一人。
魔王トロメーア。このフレジェトンタの支配者だ。
「何だその傷は? まさか、誰かに負けたのか?」
「…ッ」
「図星か? おいおい、弱い奴は俺の眷属に要らねえぞ?」
残忍な笑みを浮かべ、トロメーアは言う。
バルバリッチャは返す言葉が無い。
トロメーアは魔王の中でも、特に悪魔の理に忠実だ。
即ち、弱肉強食。
悪魔にとって当然の理を、トロメーアは特に重視している。
魔王トロメーアの掟は、完全なる実力主義。
どんな悪魔だろうと実力さえあれば認められる。
逆に言えば、実力が劣ると判断されれば、容赦なく粛清される。
切り捨てられることを恐れ、バルバリッチャの顔が強張った。
「ぷっ、そんな顔すんなよ! 冗談に決まっているだろう?」
ゲラゲラと下品に笑いながら、トロメーアはバルバリッチャの肩を叩く。
「これでも俺はお前を気に入っているんだぜ? いきなり殺したりする訳ねえだろ?」
「…恐縮です」
「はっはっは、相変わらず真面目な野郎だ」
友人に向けるような笑みを浮かべ、トロメーアはバルバリッチャの顔を見た。
「…どこのどいつだァ?」
その声色が変化する。
トロメーアの細い目が開かれ、鈍い金色の眼が光った。
「教えろよ、バルバ。誰がお前を倒した? ジュデッカの人形兵か? アンテノーラの狂信者か?」
「…どちらでもありません」
「何ィ?」
「恐らく、どの魔王の眷属でもありません。その男とはディーテで遭遇しました」
「ディーテ?」
トロメーアは訝し気な顔をした。
魔王であるトロメーアにとって、ディーテは取るに足らない場所だ。
魔王の支配下から逃れた者達の都市、と言えば聞こえは良いかもしれないが、実際の所、それはどの魔王からも必要とされなかった者達の住処である。
四方を支配する魔王達が中央に位置するディーテに手を出さないのは、どの魔王もその場所に魅力を感じていないだけである。
そんな弱者の都市にバルバリッチャを倒す程の悪魔がいたと聞き、トロメーアは心底驚いた。
「珍しい白い翼を持つ女を連れていました。トロメーア様に献上しようと考えていたのですが、その男に邪魔されました」
「はぁ?」
ポカン、とトロメーアは口を開けた。
「ってことはお前、女を巡って男と戦って、それで結局負けたのかよ! ははは! 笑えるぜ、バルバ! 今までで一番面白い話だ! ははははははは!」
目に涙すら浮かべてトロメーアは嘲笑する。
遠慮のない嘲笑にバルバリッチャは口を閉じ、無言でトロメーアを見ていた。
「いやー、最後に随分と笑わせてもらった。全くお前は本当に面白いな」
(…最後?)
その言葉が気になり、バルバリッチャは首を傾げる。
それを口に出そうとした時、体に違和感を感じた。
「…あ?」
ずぶり、とバルバリッチャの胸にトロメーアの腕が突き刺さっていた。
「あ…ああああああ! と、トロメーア…! テメエ…!」
「長い付き合いだったなァ、お前とも」
深々と、トロメーアの腕はバルバリッチャの体に沈み込む。
だが、バルバリッチャはそれに痛みを感じなかった。
血の一滴も零れていないが、何か悍ましい物が体を侵食するような悪寒があった。
「俺が敗北したから…切り捨てるのか…!」
「いや? そう言う訳じゃねえよ」
指一本動かすことが出来ないバルバリッチャに対し、トロメーアはあっさりと告げる。
「お前は元々、次会った時にこうしようと思っていたんだよ。お前は何も悪くない。お前の全てを許そう、バルバリッチャ」
「ッ!」
あまりの言葉に、バルバリッチャは怒りすら忘れた。
不興を買ったから殺されるのではない。
例えバルバリッチャがネロを殺し、ビーチェを献上しようと、こうなることは決まっていた。
どれだけ尽くそうと、些細な気まぐれで殺される理不尽。
これが魔王。
悪魔すら恐れる邪悪そのもの。
「お前は強い。だからこそ、俺の後継に相応しい」
バルバリッチャの理解の及ばないことを口にしながら、トロメーアは笑う。
他者の命と人生を、奪うことに何の躊躇いも見せず。
(何が、魔王の眷属だ…)
誇るように口にしていたのは、その事実に薄々気付いていたから。
眷属だ何だと言われても、魔王にとって何の意味も無いのだと。
(俺達は、魔王の奴隷だ)
自分も含めて、誰もが魔王の玩具に過ぎないのだと。




