第一話
其れは暗い暗い、闇の中だった。
天も地も無く、一筋の光すらない。
それはまるで海の底。
羊水に浮かぶ胎児のように、ソレは闇の中を漂っていた。
『………』
口を開いても声は出ない。
瞼を開いても何も見えない。
時の流れすら止まりそうな底無しの闇。
『…?』
唐突に、ソレは首を傾げた。
静寂な闇の中で、音が聞こえたのだ。
自分の発した音ではない。
聞き覚えの無い誰かの声。
それは…
其処は『悪の嚢』
かつて人間が生きていた世界であり、今では悪魔達が支配するようになった地獄の名だ。
千年前の戦いに勝利した悪魔達は人類を完全に絶滅させ、世界を穢した。
人間達の築き上げた文明は破壊され、大気は悪魔達の吐き出す魔素で汚染されている。
千年を掛けて悪魔達はこの世界を地獄に変えた。
破壊した人間の文明の代わりに悪趣味な建造物を作り出し、枯れ果てた植物の代わりに魔素を放つ悪性植物を植えた。
この地は確かに地獄だが、悪魔にとっての楽園となった。
悪として生まれ落ちた悪魔達は欲望に忠実で、好き勝手に生き続けた。
欲しい物は金も女も食い物も好きなだけ奪った。
気に入らない者は肉親であろうと躊躇いなく殺害した。
悪が悪として欲望のままに生きられる楽園。
それがこの地獄、『悪の嚢』だった。
「………」
だが、
全ての悪魔がこの愉快な地獄を受け入れていた訳では無い。
当然の摂理として、強者がいれば、弱者もいる。
勝者がいれば、敗者は必ずいる。
欲望のままに奪う悪魔がいるならば、当然奪われる悪魔も存在するのだ。
例え悪魔だけの世界になったとしても、搾取され続ける者は必ずいる。
「…ぐっ、く…」
ある女が、ボロボロの体で呻き声を上げた。
人間で言うなら、十八か九と言った年齢だろうか。
夜空に浮かぶ月のように白い肌に、紅を塗ったような赤い唇。
細く美しい白銀の髪を持ち、束ねることなく自然に流している。
冷静で落ち着いた顔立ちをしているが、その赤い眼には炎のように熱い意志が宿っている。
悪魔特有の蝙蝠に似た翼は背から生えており、その色はまるで天使のように白かった。
「………」
もし人として生まれたのなら、女は多くの男達を魅了し、やがてその中の一人と結ばれたかもしれない。
それだけ女の容姿は魅力的で、芸術品のように美しかった。
しかし、それは単なる仮定の話だ。
「やっと捕まえたぜ。弱えくせに俺達に逆らいやがって」
「まあいいさ。苦労した分だけ楽しめそうだ」
女は人ではなく悪魔であり、そして倒れた女を取り囲む男達も悪魔だった。
悪魔にとって容姿の美醜は関係ない。
むしろ、目立つ容姿は他の者達の欲望を誘うだけだ。
「私に、近付くな…!」
女が叫び、その手を振るう。
悪魔特有の鋭い爪。
まともに受ければ、生物の喉をも容易く切り裂く凶器。
「それで攻撃しているつもりか?」
だが、同じ悪魔にそれは通じない。
呆気なく腕を掴まれ、締め上げられた。
「これ以上抵抗するんじゃねえよ! 大人しくしろ!」
「この…!」
男の言葉に、女は表情を変える。
怒りに顔を歪め、手を掴まれたまま深く息を吸った。
大気中の魔素が、女の肺を満たし、体内を駆け巡る。
「ん? お前…!」
女の様子に気付いた男が声を上げるが、既に遅かった。
女から放たれる魔力が大気中の魔素と共鳴し、具現化する。
「魔爪!」
それは、悪魔達の持つもう一つの爪。
どんなに弱い悪魔も必ず持っている敵を殺す為の武器。
「死ね!」
瞬間、女の影が生き物のように蠢いた。
平面の影が膨らみ、中から色の無い狼が出現する。
己の影を操る能力。
それが、女の能力だった。
影の狼は牙を剥き、男達へと襲い掛かる。
主人の敵を滅ぼすべく、その首に牙を突き立てる。
「「魔爪」」
しかし、その牙が男達へ届くことは無かった。
『魔爪』は悪魔ならば誰だろうと持つ能力だ。
女に爪があるように、男達にも異なる爪がある。
そしてその力は、個々によって優劣が現れる。
女の生み出した影の狼は、呆気なく男達の爪に破壊された。
「抵抗するな、と言っただろうが!」
「あぐっ…!」
男の拳が女の頬を殴る。
倒れ込む女の髪を掴み、男は女に馬乗りになった。
「次に抵抗すれば殺す」
「ッ…!」
組み伏せられ、女は男の顔を見上げて絶望する。
切り札であった魔爪は通じなかった。
力では到底敵わない。
弱い自分は、抵抗することすら出来ない。
「………」
悪魔の世界は弱肉強食だ。
強ければ全てを手に入れ、弱ければ全てを失う。
金も女も食い物も、
自分自身さえも。
(誰か…)
女は懇願した。
悪魔でありながら、まるで神に縋るように、願った。
(助けて…!)
ざわり、と女の影が大きく揺れた。
「…何だ?」
女を組み伏せる男の前で、影がゆらりと立ち上がる。
「―――」
それは、黒い男だった。
影のように、と言う表現が的確な全身黒づくめの男。
神父が着るようなキャソックに似た服を纏う長身。
夜闇に溶けるような黒髪は長さがバラバラで、乱れている。
そして、その背から黒く染まった天使のような羽根が生えていた。
「はは…! ははははははははは!」
黒い男は歓喜に表情を歪めて狂ったように笑いだした。
空に浮かぶ月を眺め、周囲に視線を巡らせる。
そしてその眼がゆっくりと、女を組み伏せる男へ向けられた。
「断ち切れ!」
黒い男は言葉と共に右手を振るう。
同時に、女を組み伏せていた男の腕が宙を舞った。
「え、あ…お、俺の腕が! 腕がァァァァ!」
「静粛にィ!」
絶叫する男に対し、再び腕が振るわれる。
今度は男の首が飛び、全身がバラバラに切り裂かれた。
「な、何なんだお前は!」
その光景を目撃した男が怯えたように叫ぶ。
「俺の名はネロ…」
自身の名を告げながら、黒い男はまだ倒れたままの女を見つめる。
「お前達を、殺す者だ」