朧月
初恋の記憶。
殆どの人間にとって初恋の相手とは、小学生の同級生だったり、中学校で同じ部活に所属していた女の子だったり、人によっては幼稚園の幼馴染だったりするだろう。
甘酸っぱい純情を経験して、自立していくのだ。
それから大人になって──真剣に交際してみたり、はたまた遊びで付き合ってみたりする中、皆、頭の片隅に初恋の記憶が残っている。
初恋、とは特別なものなのだ。
ところで、僕の初恋の話をしよう。
21世紀に入って、暫く経ってからの出来事だった。
僕──ペンネーム『みかん』と、僕の初恋の相手──絢さんは、小さなブログ投稿サイトで知り合った。
知り合った、と一概に表現したが、実際に、現実で顔を合わせた事は無かった。
そう、彼女とはパソコンを用いた、随分と現代的な文通のみの関係だった。
否、文通の関係のまま終わった。
ところで、そのブログ投稿サイトは利用者も少なく、それ故に投稿も少なかった。
それどころか、現代と比べれば、スマホではなくガラケーが普及していたし、パソコンを所有している人間も少数派だった。
要するに、僕が絢さんのブログを見つけることは、それ程難しい事では無かった。
絢さんのブログは、小さなランキングの上位に頻繁に入っていた。彼女が登録していたのは、イラスト部門のランキング一本のみ。
小さなランキング、と言っても、上位は簡単に取れるものではない。それに至るまでは、血の滲むような努力が必要だった。
絢さんはよく、風景の中に女の子が佇んでるイラストを描いていた。色彩が鮮やかな、幻想的なイラストだった。
酷く拙劣な小説を投稿していた当時の僕は、分不相応にも彼女に惹かれた。それは、一目惚れだった。
正確には、彼女の生み出す『世界』への。
小学生の『自重』や『身の程』の弁えなさというのは、恐ろしいものだと僕は思う。
絢さん──正しくは絢さんのイラストに一目惚れした僕は、勢い任せにコメントを書いたのだ。
『初コメントです!素敵な絵ですね。感動しました!応援してます!』
無作法な文章だった。ある意味、小学生らしい、とも言える。
しかし、事態は想定外の展開に転んだ。
翌日、微かな期待を胸に、親にパソコンを借りてブログを開くと、一見の通知。
絢さんから、返信が来ていたのだ。
『コメントありがとうございます、励みになります!
みかんさんは小説を書かれているんですね。今度読みに行きますね!』
煌々と光るパソコンの画面を見つめて、当時10歳の僕は目を疑った。
──憧れの人が、自分の小説を読んでくれる。
初めて感じた他人──憧れの人からの承認に、僕はぶわりと舞い上がった。
翌日、僕は朝の5時半に早起きして、こっそりとパソコンを開いた。
コメント欄に出ている日付と時間から、絢さんが深夜にインターネットをしていて、早朝にはコメントが来ていると予想していたからだ。
Windowsのアカウントは、自分のものを作って使っていいと言われていたから、親に無断で使うことが出来た。
バレるかもしれないという緊張感と、絢さんからのコメントが来ているかもしれないという期待感から、心臓がばくばく高鳴って、止まらなかった。
まだ肌寒く、日が昇る前だというのに、変な汗がじわりと浮かんでいた。
ブログサイトのトップページを開くと、そこには『コメントが一件来ています』の文字。
『面白かったです!つい最後まで読んじゃいました。お互い頑張りましょう!』
かあっと顔が熱を持った。初めて誰かに──自分の生み出した作品を褒められて、僕は幸福感と、次の作品を書こうというやる気に満たされていた。
そんな有頂天の気分に酔いしれて、僕は心の中でガッツポーズをした。
その日から、僕と絢さんの文通が始まった。
最初は、お互いのコメント欄で返信し合って、長々と会話をしていた。
そのうち、人の目が気になるからか、PV──見ている人が少ない僕のブログで会話をするようになって。
絢さんと文通する時間は楽しくて、いつまでも心臓が煩く鳴っていて、何より今まで無かった自信が漲った。彼女のお陰で、執筆意欲が掻き立てられた。
それからというもの、本格的に本や辞典を読んだり、ちゃんと勉強に取り組んだりするようになった。その結果、台詞ばかりの拙い文章しか書けなかった僕は、ちゃんとした描写を書けるようになった。
そうして徐々に、着実に読者が付いてきた頃、僕らはダイレクトメッセージでやり取りするようになっていた。
やり取りをすればするほど、僕らは惹かれあった。
絢さんは色々な話をしてくれた。
僕の書いた小説の感想。
ちょっとした悩みから、将来の悩み。
たまに、絢さんの母親の愚痴。
今日あった出来事。
夕ご飯に何を食べたか。
好きなアニメの話。
重い話から、軽い話。将来や作品についての話から、とりとめのないお話。
短い期間だったようだけれど──以前絢さんが付き合った彼氏の話を聞いたときは、不思議とむかむかしてもどかしい気分になった。
ハードカバーの一般書も読むようになっていた僕は、直ぐにそれが『嫉妬』という感情だと気付いた。
『え、みかんさん△△市に住んでるんですか!?私もです! 運命ですね(笑)』
挙句の果てに、そんなメッセージが来たときは、顔がじん、と火照った。この時僕は、会いたいなと切望した。
それまで、恋愛経験なんて皆無だった。
けれど、選り好みせずに読書して、想像で恋愛小説まで書いていた僕は、絢さんに本気で恋していると自覚していた。
けれど、会うことは叶わなかった。
『そういえば、みかんさんって何歳なの?
あ、これ聞いちゃっていいのかなw
私は19だよ!』
僕は年齢を詐称していた。本当は11歳なのに、18歳だと。絢さんは、19歳だった。
小学生だとバレないように、出来るだけ慎重に言葉を選んで文章を組み立てていたけれど、それでも限界はあった。
むしろ直接聞かれるまでずっと、気付かれなかった事が奇跡なんじゃないか、って思う程だった。
もしかすると、絢さんはもう見抜いているのかもしれなくて、確認の為に聞いてきたんじゃないか、とまで考えを巡らせていた。
僕は悩んだ。
ここで本当の年齢を打ち明けていいのか。
そして──絢さんへの気持ちを、伝えなくていいのか。
僕は、メッセージを送った。
『いつまでも隠すのは難しいと思ったので、話します。
今まで黙っていてごめんなさい。本当は11歳の小学生です。
△△市に住んでいるのに会えない、と送ったのは、年がバレたくなかったからです。
急に変な空気にさせちゃって、ごめんなさい。』
淡い恋心を心の奥に押し込んで、僕は年齢を白状した。
──絢さんからの返信は、来なかった。
絢さんから返信が来たのは、それから1か月後のことだった。
彼女と文通を始めてから半年。降り積もっていた雪は解け始めて、僕は12歳──小学6年生になっていた。
絢さんから返信が来なかった一か月間、僕は不安と、諦めと、寂しさとでぐちゃぐちゃになっていた。
学校は、楽しくなかった。家も、パソコンで小説の執筆と文通ばかりしていたから、両親から説教を受けることが度々あった。
僕は、絢さんと過ごす時間が無ければ、生きる希望、というものが持てなかった。
見える世界が、灰色に染まっていた。
それでも僕は、微かな希望を胸に、毎日パソコンに向き合っていた。
1週間に1回は更新していた絢さんのブログは、ずっと更新されないままだった。
長い間更新が止まっている事で、時折他のユーザーから気遣うコメントが来ていた。
それでも。きっと絢さんは、もう一度メッセージを送ってくれる。何も知らなかった僕は、そう信じてやまなかった。
その日は早朝ではなく、珍しく深夜にパソコンを開いていた。
ぽつりと、『1件のメッセージがあります』という文字が表示されているのを見て、僕の世界は再び色を取り戻した。
無意識のうちに手が動いて、カーソルを合わせてマウスをクリックする。
『返信に1か月も空いてしまって、ごめんなさい。
すっごく驚いて、受け入れるのに時間がかかっちゃいました。
初めてコメントしてくれた時は子供っぽかったんだけど……
それから話し方がずっと大人びてたし、相談とか愚痴にも親身になってくれたから、中学生ならともかく……小学生だとは思いませんでした(笑)』
よかった、いつもの絢さんだ。そう安堵したのもつかの間で、長い改行の果てに、彼女の『もう一つの事情』が綴ってあった。
『実は、私は今、病院に入院しています。
こんな話、みかんくんにしてもいいのかな。
おかあさんとずっと喧嘩してて、病院から貰ってる薬が切れた時、飛び降りちゃったんだ。
心配かけて、ごめんね。』
優しい、文章だった。
みかんさんから、みかんくん、へと敬称が変わっていた。
今まで送られてきた年相応の文章と比べて、お姉さんが子供を宥めるような、そんな文章だった。
──飛び降りた、ってなんだよ。
無駄に知識があった僕は、その意味を知っていた。
その文字を見た瞬間、頭が真っ白になって、心が真っ黒に塗りつぶされて、ひどい脱力感に襲われた。
彼女は、死のうとした。
僕は、自分の無力さを呪った。
彼女の為に、何の力にもなれない自分が、情けなくて仕方なかった。
絢さんは、また長い改行を繰り返して、最後にこう書いていた。
『最後に、みかんさんに弱音を吐かせて。
私ね、未遂だけど……自殺までして、それでもお母さんはイラストの道を認めてくれないの。
毎日私でストレス発散してばかりで、もう限界。
私、やっぱり死のうと思うんだ。
だからもう、みかんさんとはお話しできなくなっちゃう、ね。
さようなら。』
読み終わって、目の前が真っ暗になった。
ストレスの許容値を超えているのか、僕は何も、何も感じなかった。
無感情だった。
さっきまで渦巻いていた悔しさも、無力感も、情けなさも、何一つ感じることが出来なくなっていた。
それでも、僕の中に、『絢さんが好き』だという気持ちは、へばりつくように残っていた。
ぼうっと、書いては消して、書いては消してを繰り返しながら、彼女へ最後のメッセージを書く。
『絢さんへ。
このメッセージを読んでいる時、絢さんはもう、この世に居ないかもしれません。
単刀直入に、好きです。
僕はまだ小学生で、あなたの為に出来る事はなにも無くて悔しいけれど。
あなたと過ごせた時間は幸せでした。』
『送信』にカーソルを合わせて、カチ、とマウスを左クリックする。
書きたい事、伝えたい事だけを書いた、自己満足のメッセージだった。
頭がぼうっとして、働かない。身体もだるかった。
小学生特有の底なしの体力も、初恋の相手との別れによる、心から来る疲弊には対応していないらしい。
今すぐ夢の世界に逃げたかった。
何も、考えたくなかった。
現実を見たくなかった。
僕はパソコンの電源を落として、死んだように眠りについた。
あれから、7年が経った。
彼女は今、生きているのだろうか。
それとも、本当に死んでしまったのだろうか。
あれから、僕も彼女も、一度もブログを更新していない。
気が付けば、ブログ投稿サイトはサービスを終了して、僕と彼女の関係は、跡形もなく消えてしまっていた。
19歳。漸く当時の彼女と同じ年齢になって、僕は未だに小説を書いている。
同じ名義で書いていれば、絢さんが生きていれば見つけてくれると思って。
住み慣れた街。見慣れた繁華街。
この街に──或いはインターネットのどこかに、彼女はいるのだろうか。
夜空を見上げると、雲と、街の光に隠れて、ぼんやりと月が浮かんでいた。