3《あなたが私の探していた人なのかもしれない》
部活があると偽って日曜日の昼過ぎに制服を着て家を出た私は、父親の部下であるところの藤吉さんが運転する自動車に乗せられて、東第二都市の北端の地区へ向かっていた。そこは五十年前の建築様式の民家が緑の水田の中に集まったりまばらだったりする地区で、他になにがあるということもないのだが、今日の待ち合わせ場所なのだ。戦争前の風景を年寄りたちが懐かしんで家や水田を維持と管理しているために、状態が保たれたまま人の住んでいない家が多く、秘密の待ち合わせにこの空き家が向いているのだそうだ。
公務員の藤吉さんは日曜休み。私を自分の仲間に引き合わせるために都合をつけて車を出してくれた。
運転を任せながら、助手席で目的地に着くまでやることのない私はブレザーのネクタイを摘み上げる。高校の卒業まで二年と**ヶ月。だが私が高校を卒業をすることはないだろう。私が犯した罪が暴かれるまで残りわずか。
「何時くらいに着きそう?」
「一時間後くらいね」
「そう」
「楽しみね」
仲間と云うものの、顔を合わせるのはまだ二度目のことらしい。ただ付き合いは二年に渡るようだ。どんな数少ない趣向の人間でも、ひきあわせてしまうのがインターネットというものか。「世界を造り直す」ことを理想として話し合いながら機会を待つという、何をきっかけにたどり着けるのかも見当がつかないサイトで知り合ったと云う。
その実行力不明のサイトの会員数は現在三十人程度。今日、顔を合わせるのはサイトの管理人と、熱心な会員二人を合わせた三人ということだ。
「私、ミユキちゃんを彼らに紹介できることが誇らしいわ」
藤吉さんは優越感を漂わせて云う。
「彼ら、どんな顔をするかしら。こんなにきれいな子だなんて、きっと思ってないわ」
私は同意も否定もせずに、鏡のように藤吉さんの表情を自分の顔に写した。藤吉さんはそれで満足する。
きっとサイトの人間たちは、藤吉さんの予想を外れて私を厳しく審査するだろう。私のやろうとしていることの助けになると藤吉さんが考えているサイトの実行力が本物でも、口先だけの人間が集まる偽物でも。
「もし仮に……彼らにミユキちゃんの素晴らしさが理解されなかったとしても、私だけはミユキちゃんの味方で友達よ」
安心させるためなのか、自分の価値を示すためなのか、そんな言葉が続いた。
私を助手席に乗せて自動車を運転する藤吉さんは上機嫌で、幸福そうで、私は仮に私に出会わなかった場合の彼女の平凡で平穏な人生を夢想する。
「……藤吉さん、私が初めて声をかけたときのこと覚えてる?」
助手席側の窓を全開にして、私はうとうとと雨上がりの湿気を含んでとろりとする風に前髪と頬をなぶらせる。
「急になあに、ミユキちゃん」
私の罪を祝福する藤吉さんは、私との何気ない会話にすら浮かれる。
「もちろん覚えているわよ。私はお弁当の卵焼きに落ちた桜の花びらをつまんだところで、急に人の気配がして。顔を上げたら、人気のない建物裏だったのに、市長の娘さんがいるんだもの。驚いたわ。話したことのない私の名前を呼んでくれたことにもね」
色白で小太りした身体に目立たぬ容姿をした憶病でおとなしい藤吉さん。私の思想に触れて、どんどん明るく、どんどん自信に満ちて、活動的になっていく。
彼女が予言者のように自分の人生の終わりまでを見通せたなら、私と出会わなかった人生を選択するだろうか。私には彼女のこれからの人生が、世間から祝福されるものになるとは思えない。
あの時、市民とのふれあいを強調した市長舎前の広場での祭りの最中に、人込みを避けるように藤吉さんは市役所裏の桜の樹の下にいた。食事を共にする同僚もなく、桜の根に腰を下ろして疲れたように背を丸め一人で弁当を食べていた。緑の苔が建物の壁の細かな凹凸を這う陰気な場所でも、数人の姿はある。
私は自分と藤吉さんに注意を向ける人間がいないことを確認してから、そっと声をかけた。
「藤吉さん、お疲れさまです」
ブレザーの制服に重ねた白いエプロン。藤吉さんは愛想よく現れた女子高校生を戸惑って見上げた。
「え、ええと……」
「美幸です。市長の娘の。さっき表で、ぽん菓子作りを手伝っていたんですけれど……私のこと、知りません?」
私はにぎやかな背後を肩の上から人差し指で示した。市庁舎はトンネルのように建物の中央が抜けて、その向こうが明るい。
ぽん菓子とは米と砂糖を原料にした駄菓子だ。圧力釜にいれて、熱と圧力をかけたところで急に蓋を開け、急激な気圧変化を与えることで米にふくらみと持たせ、砂糖のコーティングをする。元々は不要になった大砲を利用して作った菓子らしい。いまから百五十年ほど前の話だ。
現在使われている圧力釜が、そのときの大砲であるはずはないのだが、見た目は黒光りして大砲に似ている。気圧変化を与える瞬間は激しい音がして、実際に大砲を撃ったような迫力がある。多分そんなところがお祭りを盛りあげると期待されるのだろう。菓子自体はほんのり甘い素朴なものなのだが、市民の祭りと云うと頻繁に機械がひっぱりだされて、いまも市長舎の向こうから、子供たちの悲鳴と共に爆発音が響いた。
藤吉さんは、あなたが市長の娘さんなのはわかっているけれど、とばかりに壊れた人形のように何度もうなずいた。そう、直接言葉を交わしたことはなくても、市民参加の行事のたびに顔をだしてなにかしら手伝いをしている市長の娘の顔を、市役所の職員が知らないはずはなかった。
「隣、座っていいですか」
背後を示したばかりの指を、今度は藤吉さんの隣に向ける。
「あ、えと……うん。あの、どうして私の名前……」
私は盛り上がった木の根の塵をはらって隣に腰かけた。
「一緒にぽん菓子を配っていた福祉課のお姉さんに教えてもらいました」
「どうして私のことを?」
藤吉さんは肩をすぼめて私から身を引いた。
「気になったので見てました」
「……どうして気になったの。私、変なことしてたかな」
「いいえ。ただイベントの準備をしているとき、駆けてくる子供を露骨に避けていたから。藤吉さん、子供が嫌いなんですね」
藤吉さんの顔色が、さっと変わった。一瞬、敵意がよぎり、脅えが浮かんだ。それを隠すように顔をそらす。
「……そんなこと、ないわ」
「大丈夫です。私も子供が嫌いなんです。ねえ、考えませんか? どうして女の人が子供を嫌うと、まるでまともな人間じゃないみたいに非難されるのかって」
藤吉さんがちらりと私を見る。私より十年ほど年上だと思うが、気弱な様子に年長者の風格はない。
「えっと……ミユキ、ちゃん? 私、別に子供は嫌いじゃないのよ……たまたま、避けたように見えただけだと思うわ」
彼女の云い訳を否定はしないで、私は深く笑顔を作って瞳の奥を見すえた。藤吉さんのような種類の人間が、そうした行為で負けてしまうことを、経験的に知っていた。
たっぷりと時間をとって、彼女が敗北を実感するのを見て話を続けた。
「女の人の全員が子供や動物が大好きで、いつでも可愛がるなんて不自然ですよねえ? どうしてこんな馬鹿馬鹿しい観念を、全員で信じて守らなくちゃいけないんだろう。誰かの偽善につき合うのはうんざり」
藤吉さんのますます縮こまった肩を、すがめた横目で確認し、張りつめた相手の緊張の糸をいったん弛めることにした。「あ、そうだった」と、不意に思いだしたふりでつぶやいて、エプロンのポケットに手をつっこんで中を探る。
「藤吉さん、手のひらだして」
心がけて明るい声を作り、うつむく人間の顔を覗くために、私は上体を低く屈めた。
「え」
「おやつあげる」
私は強引に拳を相手の胸の前に突きだした。慌てて両手で受け皿を作るその中に、ざらあ……、と砂糖の甘い匂いを放つ白い粒を落とした。滝のように藤吉さんの両手に流れて、受け止め切れずに零れたさらりと白く軽い粒がスカートや土の上に落ちる。
零れた粒を目で追って慌てる藤吉さんを、私は言葉で制した。
「いいわよ、桜の養分になるわ」
私と藤吉さんを包む空気は、すでに奇妙な変質を始めていた。まるでここが放課後の校舎裏で、学生の私と藤吉さんが互いの内面世界について話しを始めようとしているような。 私たちの声が、少なくとも会話の内容が聞こえる範囲には誰も存在しなかった。
「だから、藤吉さん。……あなたは悪者じゃないわ、ちっとも」
私は上位者の態度で脅える藤吉さんを許し、藤吉さんはそれを自分でもどうしてそうなったのか理解できない自然さで受け入れた。
なにか記憶に薄れつつある重要なことを思いだしたように、藤吉さんが目を丸くして茫然と云った。
「ミユキちゃん……私、あなたともっと話してみたいわ」
釣れた。私は満足してほほえんだ。
「うれしい。私も藤吉さんと話したいと思ったの」
照れるか喜ぶだろうと予測していたのに、藤吉さんは茫然と私を見つめたまま私に告げた。
「もしかしたら、あなたが私の探していた人なのかもしれない」
窓を流れる景色を眺めながら、私は額の重みを肩にあずけて瞼を閉じがちになる。私の眠気を察した藤吉さんが運転をゆるやかなものに切り替える。
穏やかな時間が流れる。まどろみの中で、濡れた道路の先を見すえる藤吉さんが陶酔するように唱えるのを聞いた。
「大好きよ、ミユキちゃん。……大好き。あなたの味方でいるわ、ずっと。それが私の生き甲斐よ。………あなたがこの世界に生まれてきてくれて良かった。私と出会うために、あなたが市長の娘に生まれてきてくれたような気がするの」