1-02 マザーボード
――ほほほほほほほ!
爆発するような笑い声があたりを埋め尽くした。呆然とする飛鳥と少女ににんめりと笑みを返したクロは、「愛いやつよのぅ!」と上機嫌に吠えた。
――よかろうよかろう、きちんと追い出してみせましょうえ。契約者の・・・・・・妾の友人の頼みだからのぅ!
轟、と飛鳥の顔に熱を帯びた風が当たる。飛鳥の目の前でクロがついっと前足を振り下ろした。次の瞬間、異形とクロの間に炎の壁が出現する。派手な火柱を上げたそれはじりじりと異形に近づいていく。
――ほほ、そこなデカブツ! 妾の友人が望むのでな、とっととここから消えてくりゃれ!
じり、火柱が迫る。じり、異形が後ずさる。一進一退を繰り返した僅かな間ののち、異形はひときわ大きな音を立てた。
ギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギ!!!
凶悪なまでの不快な大音波。しかしそれは異形が激情のままに吠えているのだと分かる。苛立ったように吠えた異形は八つ当たりをするように無闇矢鱈に尾を振り回したようだが、クロが出したらしい炎に怯えたように後ずさった。
――くどいぞっ、去ね!
一喝。
文字通りその場の空気を震わせるような咆哮は、異形を怯ませるには十分すぎたらしい。ギギギ、と短く吠えた異形は炎にまかれ、その場から溶けるようにして消え失せた。
それを確認したクロはくるりと飛鳥の方を振り向くと、再び目を細めて笑う。
――さてそこの子猫、いい加減妾の友人を元に戻してくりゃれ。寝過ぎも体に毒だからのぅ。
「・・・・・・い、言われなくてもそうするにゃ」
若干気まずそうな様子で少女は言う。そして彼女を抱き寄せたままの飛鳥を押して体と体の間に隙間を空けると、飛鳥の額にそっと人差し指を当てた。
何をされるのだろう、そう思ってきょとんとしていた飛鳥に少女は一度咳払いをしてみせる。
「アー・・・・・・しっかり意識を向けるんだにゃあ」
それが飛鳥の聞いた最後の言葉だった。
ばちこーん。
そんな間の抜けた音と共に飛鳥の額を駆け抜けた痛みは、あっさりと飛鳥の意識を闇に沈めたのである。
Ep.1-02 マザーボード
「・・・・・・ん、起きて。お客さん!」
はっと意識が浮上した。慌てて目を開けて周りを見渡せば困った顔をした駅員が自分を揺さぶっているのが見える。飛鳥はその先の景色を見る。降りる予定だった終点、日向駅だ。
「ちょっと、大丈夫? その制服、凰陽の学生さんだよね? 具合が悪いなら医務室で休むかい?」
「あ、いえ・・・・・・すみません、昨日寝るのが遅くて寝入ってしまっただけなので・・・・・・」
「そうかい? あまり無理をしちゃいけないよ」
気のよさそうな駅員は飛鳥の言葉に頷くと車両から降りるように告げる。なんだか狐につまされたような気持ちになりながら飛鳥は電車を降りて、いつも通りの通学路を歩いて学校へ向かう。すこし歩けば要塞じみた巨大な門扉が見えてきた。
私立凰陽学園。小高い丘一帯がすべて学園の敷地であり、遠方からの進学も受け入れているため寮も併設されている。中学、高校、そして彼らの内部進学先として大学からなるこの学園はこのあたりではちょっとした名所のような扱いを受けていた。ちなみに凰陽には中学から入学する中等部と高校から入学する高等部があり、飛鳥は公立中学から入試を受けて高等部に入学している。
おはよう、おはようと飛鳥を追い抜く学生たちが口々に挨拶を交わし、小さなグループを形成し、学校に吸い込まれていく。飛鳥はちらりと自身の隣をみやった。複数人のグループばかりの中で、一人で歩いているのは自分だけ。
別にいじめられているとか、自分から孤独になろうとしたわけではない。ただなんとなく、何故か自分と人とが決定的に異なっているような気がしていつもうまく友人ができないのだ。遡れば幼稚園に入る前から、友達と呼べる人はいなかったように思う。
「・・・・・・クロ」
口の中でもごり、と彼女の名を呼んでみる。
友人のいない自分の、夢の中にしか居ない友人。彼女が現実にいないことがあまりにも悲しくてネットで調べてみたら、若いうちにはよくある夢と現実の混同だと書いてあった。
「あれが、夢なもんか」
もう一度呟く。
夢なら――ただの明晰夢なら、飛鳥はあんなにも恐ろしい目に遭わずに済んだだろう。見慣れているのだから、対応だって出来る。けれどあの異形は夢から覚めることすら許さないような圧があった。背中を向けたが最後、無残に殺されて終わってしまうのだという確信めいたものすらあった。
あれは夢ではない。夢を媒介にした、何か別の場所だ。
「おっ、勘の悪いやつかと思っていたけどそうでもなかったかにゃ?」
考え事を中断するように、飛鳥の正面からそんな声がした。いつの間にかうつむいて歩いていた飛鳥の視界には、近隣の女子中学生から可愛いと評判のチェックのプリーツスカートとローファーだけが写っている。
恐る恐る顔を上げる。
「よっ、おはようにゃ」
金色のアーモンドアイが飛鳥を認識して笑みの形に変わる。
飛鳥の目の前にはあの不可思議な回路の中で見た少女が立っていた。よく見知った、凰陽学園の制服を身につけて。
「え・・・・・・」
「おぉ、おぉ。猫が豆でっぽー食ったような顔にゃ!」
「・・・・・・豆鉄砲は食らうものだし、そもそも猫じゃなくて鳩・・・・・・」
冷静に返しながら飛鳥は目の前の少女を改めて見る。同じ制服を身につけてはいるものの、見かけたことはない。ただ凰陽学園は先に説明したように中等部と高等部がある。中等部は1年から6年までで各学年5クラス、高等部でも1年から3年までで4クラス存在する上に1クラスの人数は大体30人から40人。ざっと1500人ほどが在籍しているそこそこ大所帯な学校のため、他学年はおろか同学年であっても一度も会わないまま卒業する人もいるのだとか。
高校の制服を着ているということは中等部なら4年から6年のどこか、高等部なら1年から3年のどこかに在籍しているだろう。飛鳥は高等部2年B組、通称特進クラスに在籍している。同じクラスであればいくら友人のいない飛鳥であるとは言え、顔くらいは分かるだろう。・・・・・・多分。
「えっと・・・・・・それで、君は?」
悩んでいてもらちがあかない、と考えてそう問う。このままでは彼女のペースに乗せられてツッコミを入れ続けて終わってしまうだろう。わざわざこうして出向いてきたのだから何か意図があってのことだと推測できる。
夢ならざる夢で出会った、事情を知ってそうな人間。あれは何なのかを教えてくれそうな少女。
彼女はにやりと猫のように笑う。そして優雅に一礼した。
「はは、これはこれは申し遅れたにゃ。あたしは凰陽学園中等部5年、八月朔日大冴。しがにゃいスレイヤーズにゃ」
「スレイヤーズ・・・・・・」
あの回路でも聞いた言葉だ。彼女は飛鳥の後ろに現れたクロを見てその言葉を呟いていた。
「ま、ここにいても仕方ないにゃ。アンタ、こんな早くに登校してんだから時間あるにゃ? ついといで」
八月朔日大冴と名乗った少女は言うが早いか飛鳥の手を取るとそのままずんずんと校舎に向かって歩き始めた。ちょっと、や待って、という単語は通用しない。「大丈夫大丈夫」とどこに根拠があるのかも分からない大丈夫を繰り返しながら彼女は昇降口を抜け、そのまま廊下を突き進んでいく。
飛鳥の在籍する2年B組のある通常教室を過ぎ、理科室や音楽室などの特別教室を過ぎ、たどり着いた場所。そこは部活棟だった。その名の通り部活動の部室だけがある棟で、朝練をしているのだろう音が僅かに聞こえている。部室群を抜け、最奥にたどり着いた大冴はくるりと飛鳥に向き直った。壁に手をつき、不遜な態度で口を開く。
「ついたにゃ」
「まあ、人は居ないね」
きょろきょろと辺りを見回しても人気はない。確かに突拍子もない話をするのであればここで十分だろう。そういえば大冴は心底不思議そうな顔で首をかしげ、そのあと得心がいったようでウンウンと頷いた。
「あ? あぁ、ここはも少し進めるのにゃ」
「え?」
飛鳥が聞き返した瞬間、音がした。
――認証。【ファンタジア】所属、八月朔日大冴。通行認可。
それはあの不思議な回路の中で聞いた声に酷似していた。赤く変わる回路の中で鳴り響いていた警告音とは違い、幾分か柔らかい印象は受けたが。
音声に続いてズズズ・・・・・・と重い音が響く。大冴が手を当てていた壁が一瞬青く発光すると、音を立てながら左右に動いた。壁は人が一人通れるほどの隙間になると動きを止めて沈黙する。大冴はそれを確認すると飛鳥に改めて向き直った。
「さて、あんたも通れるようにしないとにゃあ。名前は?」
無意識のうちにつばを飲み込んでいた。今日は朝から随分と非日常的な状況が続いているが、ここに足を踏み入れればこの比ではない非日常に放り込まれるのだと頭のどこかで告げられている。
夢ではない夢、異形、夢の中に現れた現実世界に存在する少女。こんなものがまともな生活の中で直面しうるものではないと理解している。
けれど、またあれに直面してしまったとき。彼女が来なかったら自分の身がどうなってしまうのか、想像に難くない。きっとなんの抵抗も出来ないままあの世界から帰ってくることができなくなるだろう。
「・・・・・・四月一日、飛鳥。凰陽学園高等部2年B組、四月一日飛鳥」
静かに名乗れば大冴は満足そうに笑んだ。そして飛鳥の手を引き、壁と壁の間に出来た細い通路を進んでいく。
思ったよりも長い通路の先からうっすら光が漏れている。通路を出た先には広い空間が広がっていた。
そこはあの場所によく似ていた。青い電子回路の張り巡らされた体育館ほどの大きさの部屋。時折白い光が回路の中を走っていく。
「ここは・・・・・・」
思わず呟いた飛鳥に大冴は得意げに鼻を鳴らした。そうして「よく似てるにゃ?」と笑う。
「ここはスレイヤーズのための準備室にゃ。・・・・・・ようこそワタヌキ、こちら側の世界へ」
「こ、こちら側・・・・・・?」
理解の追いつかない飛鳥に構うことなく大冴はニヤニヤと笑っている。特段説明をするつもりはないらしい。聞くべきか聞くまいか、と思っていると大冴の頭の奥からぬうっと手が出てきた。その手は握りこまれ、綺麗に大冴の脳天に振り下ろされる。
「フギャーッ!」
尻尾を踏まれた猫のような絶叫を上げた大冴の背後、にこにこと笑う美少女が立っている。中学の制服を身につけていた。白銀の髪に桃色の目をした人形じみた美貌の少女は振り返ると「やりマシタよー!」と嬉しそうな声を上げた。
さらにその後ろから小柄な少女が姿を現す。若干背伸びして美少女の頭を撫でたあと、少女は顔を飛鳥の方に向けた。焦げ茶のショートカットから覗く翡翠の目はじっと飛鳥に注がれている。
「なにするにゃ、フロー!」
「ミヤが止めろっていいマシタよ! タイガー、いじわるはよくないデス!」
「おや、大冴がきちんと話をしないのが悪いんだろ? あたしだって何もなければ普通に話に加わるだけさ」
けらけら、ミヤと呼ばれた少女は悪びれずに笑う。大冴に拳をお見舞いした張本人のフローと呼ばれた少女はそれを笑顔で眺めていた。よほどいいところに入ったのだろう、涙目になっている大冴は脳天をさすっている。
「おい、おめーら。説明しろって言うために出てったんじゃねえのかよ」
後ろから低い声がして、飛鳥は振り返る。あきれたような顔で3人の少女を見ていたのは美しい桃色の髪に金色の目をした少年だった。
「ミヤ! フロー! タイガ! あとそこの黒髪!」
少年は居丈高に「そこに座れ! 公共の場で騒ぐなバカタレが!」と叫んでいるが、小柄なため全く威厳はない。しかし、飛鳥以外の3人は大人しく床に座り込み、立ったままの飛鳥の裾を引っ張って座らせた。
「ミヤ! お前タイガの暴走止めるって出てったんだろうが! 一緒になってはしゃいでどうすんだ!」
「いやー、トーヤは怖いなあ。怒髪天を衝くってぇのはこういうことを言うんだねえ」
「フロー! お前も面白がってないでもう少し早くミヤとタイガを回収してこい! そのためのパワー要員だろうが!」
「えへへ、メンボクナイですネー!」
「タイガァ! お前が一番終わってんだぞ分かってんのか!? よさげなやつを見つけたっていうから迎えに行くのを許可したのにいつまで経っても帰ってこない上に相手のリアクション見てニヤニヤニヤニヤ、性悪かテメェは!」
「にゃ、にゃあ・・・・・・そんな怒んにゃくてもいいにゃ・・・・・・」
さながらマシンガンのような勢いで3人に説教をしたトーヤというらしい少年は最後に飛鳥の方を向く。
「お前もお前だ! こんな怪しいやつに名乗ってホイホイついてくんな! 来ちまったもんは仕方ねえが、以後きちんと警戒しろ!」
「えっ」
「返事は!」
「あっ、はい・・・・・・」
説教だか心配だか分からない言葉を吐き終わったあたりで気持ちが落ち着いたのか、少年はふんと息を吐いた。
「で、アンタがタイガの言ってた“期待の新人”ってぇのでいいんだよな? なんでも天然物のスレイヤーズらしいじゃんか」
トーヤの言葉に飛鳥は曖昧に頷く。そのスレイヤーズというものがよく分からないのだが、夢の中のクロに何か関係のある言葉なのだろう。
「あー、トーヤ? 多分その子、スレイヤーズの意味から分かってないと思うんだよね。顔に出てる」
「んっ、そうなのか?」
ミヤの指摘に飛鳥は少々驚いたが、その言葉には頷いた。幼少の頃から表情に出ない質だったので、困惑を読み取られたことに驚いたのだ。ウンウン、と満足そうに頷いたミヤの言葉を継ぐようにフローが話し始める。
「スレイヤーズというのは、マザーボードにアクセスが可能かつヴィランに対抗できる手段を持つ者の総称デス! 正義の心をもってヴィランを退治するのデスよ! ヤー!」
「ヴィラン・・・・・・?」
「あんたも見たにゃろ? あのでっかい化け物のことにゃ」
大冴の補足説明に飛鳥はなるほど、と納得する。あの異形は“ヴィラン”という名称を与えられているらしい。悪役、という名称に恥じない威圧感と恐怖感だったな、とぼんやり考えた。
「ヴィランはね、人間の悪感情が化け物の形となって表れたものなんだよ」
「悪感情って言うと・・・・・・なんだろう、怒りとか?」
「単純な怒りってわけじゃないんだ。他者に深刻な被害をもたらす危険性のある感情、つまり憎悪だったり嫉妬だったりが混ざったものが問題でね。こいつがマザーボード・・・・・・夢の先にある深層心理の世界で実体を得るのさ」
「それって、あの電子回路みたいな・・・・・・?」
「そうそう。まるで基板みたいだろう?」
ぱちんとミヤが器用にウインクする。
あの電子回路のような世界の名前はマザーボード。そこで現れた異形はヴィランといい、人間のよくない感情が実体となったもの。そしてそれに対抗できるのがスレイヤーズ。そこまでは理解が出来た。
「つまるところ・・・・・・きみたちもスレイヤーズ、っていうものなの?」
そう問うてみれば一斉に頷きが返ってくる。大冴が飛鳥とマザーボードで出会い、日本刀のようなもので戦おうとしていたことからスレイヤーズだろうと推測できたが、その他の3人についてはどういう立ち位置なのか分からなかったのだ。
説明を任せていたらしいトーヤが一歩前に出てくる。
「スレイヤーズは強力な力を持ってるが、その分マザーボードにアクセスする際にはヴィランに狙われやすい。だから5人から7人のグループを組んでヴィランとの戦闘に当たることが望ましい」
「スレイヤーズは対抗手段を持っているのに狙われやすいの?」
首をかしげた飛鳥にトーヤは苦々しい顔で「あー・・・・・・」とうめいた。その視線がちらりとミヤに向けられる。それに気づいたらしいミヤはわざとらしくオーバーに肩をすくめると、心配そうに彼女を見るフローの頭を撫でながら口を開いた。
「ヴィランは人間の精神を食って成長する。精神の力が強ければ強いほど得る力も大きくなるからね」
「ああ、なるほど。栄養効率がいいわけだ」
得心がいってこっくりと頷いた飛鳥にトーヤが声をかける。
「・・・・・・でさ、ルーキー。精神を食われた人間はどうなると思う?」
精神を食われた人間。精神力が尽きてしまい、返ってくることがなくなってしまったら。
――ねえ、聞いた? 隣町の中学で出たらしいよ、“人形症候群”!
ふと頭の中に今朝方聞いた単語がよみがえる。人形症候群。最近日本各地で相次いで発症が確認されているもので、ある朝目が覚めたらあらゆる外的刺激にも反応を示さなくなるのだという。身体機能はなんの問題もなく機能していることから当初は仮病ではないかとされていたが、後に感情を司るとされる扁桃体から一切の刺激が確認できないことが分かった。若年層に比較的多く発症するため、飛鳥の両親もやけに心配していた。
まさか、と思った。あれは単純な脳の病気のはずだ。最近妙に増えているだけで、医療でなんとかなるものだった、はず。
「感情が・・・・・・なくなって・・・・・・“人形症候群”になる・・・・・・?」
飛鳥がそう言った瞬間、ミヤの顔から一切の表情が消えた。しかしそれは一瞬のことで、彼女は小さく笑うと「ご名答だ」と呟く。
「・・・・・・今までも人形症候群になるやつはいたのにゃ。ただここ最近ヴィランの動きが活発で、一気に人形症候群のやつが増えた。それはスレイヤーズの活動をしてても感じるにゃ」
大冴はそう言うと飛鳥の目をじっと見つめる。金色の猫のような瞳が強い光を放っているように感じる。
「ワタヌキ、あたしたちと一緒にスレイヤーズになるのにゃ。あんたにはその力がある」
「クロのこと?」
「ああ、あいつクロって言うのかにゃ。間違いないにゃ、あれはあんたの中にある強い感情の具現化、ヴィランに対抗できるスレイヤーズの能力にゃ」
大冴は飛鳥以外の3人に「いいよにゃ」と声をかける。彼らが頷いたのを確認すると、彼女は懐から何やら小さな布袋を取り出した。それには丸をいくつも重ねた不可思議な文様が描かれている。その袋を大冴は飛鳥に差し出した。
「これがマザーボードに意識的にアクセスするときに使う通行所みたいなもんにゃ。仕事のあるときにこれを使って意識をマザーボードに送る」
「へえ・・・・・・」
「あんたにとってはメリットのない話だと思うにゃ。マザーボードでヴィランに負けて人形症候群になってしまえば、戻る手段はにゃい。断るなら今のうちにゃ」
飛鳥はぽりぽりと頬を掻く。「スレイヤーズになれ」と言ってみたり「断るなら今のうちだ」と言ってみたり。大冴の言っていることはある種むちゃくちゃで、ある種筋が通っている。助力はほしいが、かといって助力を強制した相手に何かあっては寝覚めが悪い。人間の感情としては至極まっとうな域だろう。
マザーボードでの出来事を思い起こす。死ぬかと思った。もう目覚めないのだと思うと怖かった。
けれどそのあと、大冴やクロが来てくれたとき、確かに飛鳥はほっとした。よかった、と思った。大冴が逃げろと言ってくれたとき、たまたまそうしなかっただけで、体が動くなら逃げてしまいたいという気持ちだってあった。
多分、彼らはそういう人たちを助けているのだ。もうだめだ、死んでしまうと対抗策もなく怯えるだけの人々をあの恐ろしい異形から守るために命をかけているのだ。
そして飛鳥は確かに救われた。
ならば理由はそれだけで十分だ。
「やる」
短くそう言えば、目線を下げていた大冴が弾かれたように顔を上げた。その顔に浮かぶのは一言で言い表すには難しい感情だ。嘆くような怒るような、それでいて安堵したような。彼女の中で渦巻く感情が表出したのだと一目見て分かる表情だった。
いいのか、とトーヤが聞いた。
「タイガも言ったが、メリットは特にねえ。命の危険とか言う馬鹿でかいデメリットはあるけどな」
「でも、八月朔日さんはそんな状態で僕を助けてくれたから。理由がいるならそれでいいでしょ?」
ぱくり、大冴の口が開く。ミヤがそんな大冴の脇腹を肘でつつき、フローはヒューッと口笛を吹いた。トーヤは右手で顔を覆うと、「いやー、ここまで来ると向いてるとしか言いようがねえな」と呆れた調子で笑った。
大冴の手から袋を受け取る。ぽぅ、と淡い水色の光が灯ったのち、「ユーザーを認証してください」という例の音声がした。
「ユーザー認証って、あれでしょう? ここに入るときにやったみたいな」
「そ、そうにゃ・・・・・・」
「じゃあ、ちゃんと教えて。八月朔日さんたちのチームの名前」
まっすぐに前を見据えて告げる。大冴はその瞳の奥に、真っ赤に燃える信念のようなものを見た気がした。
もしかしたら、彼なら。そんな期待のようなものが大冴の心に湧き上がってくる。
「ファンタジア」
短く告げた。それを聞いた飛鳥はファンタジア、と何度か口の中で繰り返している。
ファンタジア。幻想曲。自由な発想力がものを言う音楽のジャンルの一つだが、なるほど、マザーボードという実体のないものを具現化させる空間で自由に戦うチームにはぴったりだろう。
ふ、と口角が上がる。心なしかわくわくとした思いが体の内側からわき上がってくる。
「・・・ユーザー認証。【ファンタジア】、四月一日飛鳥」
――新規ユーザーを認証しました。【ファンタジア】、四月一日飛鳥。ようこそ、スレイヤーズへ。
光の消えた袋をひらひらと見えるように振ってみる。
「戻れねえぞ」
トーヤが揶揄うように言った。飛鳥は薄く笑って「戻るつもりは今のところあんまりないから」と返す。その返事に満足したのかトーヤは腰に手を当てて、少しばかり弾んだ声で続ける。
「凰陽学園高等部1年D組、ファンタジア所属の五月女桃哉だ。チームでは主に索敵だの身体能力の向上だのを担当する」
「私は六月一日美耶。ファンタジア所属、凰陽学園中等部6年だから、タイガと同い年なら先輩だね。チームでは中後衛を担当してるよ」
「ハイ! ファンタジアのフローは廿九日フローレンスというデス! 凰陽学園中等部3年4組さんデスから、あなたのほうがセンパイですね! 近衛するデス!」
次々と自己紹介をしていくファンタジアの面々に飛鳥は一礼する。そして最後に残った大冴に目線を向けた。
彼女は壁に手をつき、ニィッと口角を上げる。いっそ傲慢そうに見えるその姿のままでもう一度飛鳥に名乗りを上げる。
「あたしは凰陽学園中等部5年、八月朔日大冴。ファンタジアのリーダーってことになってるにゃ。ポジションはフローと2トップの近衛。・・・・・・ほら、とっととお前も名乗るにゃ」
全員の視線が飛鳥に注がれる。一度深く息を吸って、飛鳥は全員の顔を見渡した。
「・・・・・・たった今ファンタジアの所属になりました。凰陽学園高等部2年B組、四月一日飛鳥です。あんまり詳しく分かってるわけじゃないけど、頑張るのでいろいろ教えてください」
ぱちぱちと控えめな4人分の拍手が降り注ぐ。なんだか照れくさくなって、飛鳥は少しばかり笑った。
これが、後に世界中に名をとどろかせることになるスレイヤーズ、【ファンタジア】の幕開けである。