終わりだ、くそったれな魔王
「はぁ、はぁ、はぁ……ミツバ、さん……」
輪の中で、壁にくっついて拘束されながら。
シナモンは息を乱れさせ、呻くように俺の名を呼ぶ。
その表情は、明らかに自分の体ではなく、俺の身を案じていた。
時間経過とともに輪は徐々に小さくなり、やがて輪についた棘がシナモンの体を切り裂く。
つい先ほど、ステビアがしていた説明だ。
シナモンからしてみれば、動くことすらできず、ただ時間が訪れるのを待つだけの絶望感だろうに、こんな状況であっても俺のことを心配するなんて。
考えろ。どうすれば、シナモンを輪の中から救い出すことができる。
どうすれば、カモミールたちが戻ってくるまでの時間を稼ぐことができる。
激痛で悶えてしまうほど舌にダメージが蓄積されている今、迂闊に能力も使えないためこれといった名案は思い浮かんでくれなかった。
「ふん。予定は少々狂ってしまったが、この際どうでもいい。ミツバ、貴様を嬲り殺すことに変わりはないのだからな……ッ!」
憎悪。憤怒。
舌の痛みに蹲る俺を見下ろすステビアの眼差しは、そのふたつに彩られていた。
だめだ。いくら痛いからって、このままここで蹲っているわけにはいかない。
口元に手を当てたまま、ゆっくり立ち上がる。
そして、できるだけ遠くに距離を取った。
「足掻いても無駄だ。串刺しになるがいい!」
そう言ってステビアが腕を振り上げると、彼の周囲に多数の紫色の槍が顕現した。
矛先は全て俺に向いており――そのどれもが一斉に俺へと迫ってきた。
この状態で、あの攻撃全てを避けきれる自信は正直ない。
舌の痛みは少しずつ引いてきてはいるものの、まだ血は止まらない。
限界まで、一体あと何回なのか。あまり無茶はできないが、このままだと槍に串刺しにされて終わってしまうのも事実。
ゆっくり、口を開く。
必死に痛みを耐えながら、その嘘を呟いた。
「槍なんて、ない」
一文字一文字、口にする度に痛みが走る。
嘘を言い終え、全ての槍が消滅した途端に、また激痛が俺を襲う。
もう、限界だ。
舌が失われるまではまだ猶予があったとしても、俺の体力がそこまでもってくれない。
これ以上、痛みを耐え続けるのもそろそろ無理か。
視界は霞み、意識が失われないようにするのが精一杯だった。
ステビアから距離を取るために後退していく俺の体が、壁に当たったことで止まった。
後ろは壁。もう遠くに離れることもできない。
まさに、詰みというやつか。
「もう諦めるのか? 賢明な判断だがな」
背中を壁にくっつけたまま、その場に座り込む俺を見て。
嘲笑うように口角を上げ、ゆっくりと俺のもとへ歩み寄ってくる。
確かに、どう足掻いても、この戦況を覆すことはできないだろう。
……ならば。せめて最後に、あいつだけは救ってやろう。
ステビアの遥か後方で、輪に捕らわれたまま俺を心配そうに見つめる少女を眺めながら。
「……シナモンは、拘束なんてされてない」
俺は、小声で嘘をついた。
瞬間――捕らえていた棘の輪が消え、シナモンは再び自由な体を取り戻す。
ああ、痛い。痛くて痛くて、今にも舌が裂けてしまいそうだ。
いつものように口に手を当てたりはせず、口から無尽蔵に血が溢れ出てくる。
何回、嘘をついたっけ。それすら考えられないくらい、俺の全神経は激痛のみに支配され、まともな思考回路が失われてしまっていた。
――しかし。
霞む視界の中で、俺は見た。
薄れゆく思考の中で、思い浮かんだ。
確かな、勝機ってやつを。
「……なあ、ステビア。今のお前は、魔王なんだよな?」
俺とステビアの距離、僅か数メートル。
そんな至近距離で、舌が痛むのも構わず小さく問いかけた。
「何だ? 時間稼ぎのつもりか? 今の僕は魔王になったと言っただろう」
「ああ、そうだよな。でもさ――」
視線はステビアには向かない。
ただステビアの遥か後方で、静かに詠唱しているシナモンを見ながら。
俺は、煽るように言ってみせた。
「――俺には、どこからどう見ても人間にしか見えないけどな」
ステビアが、眉を顰める。
その数瞬後には、自身の体を見下ろして狼狽し始めた。
背中に生えた翼は消え、角も尻尾も消滅し。
紫だった肌は俺たちと変わらない肌色へと変化し、長い爪も鋭利な牙も元通りになっていく。
先ほどの凶悪な姿を見て、人間にしか見えないなどと思えるわけがない。
当然、魔王としか思えなかった。
だから――そんな嘘に、今ステビアは人間へと姿が戻ったのだ。
ああ、痛い。痛くて痛くて、もう舌の感覚が分からなくなってきた。
次から次へと血が溢れ、猶予はあと一回か二回程度しか残されていないであろうことが嫌でも分かってしまう。
でも、まだだ。
痛みを、裂けるような激痛を必死に堪え、ステビアを見上げる。
そして――。
「――終わりだ、くそったれな魔王」
俺が、そう笑ってみせた瞬間。
甲高い銃声が、部屋中に響き渡った。
「な……が、ァ……?」
まだ理解できていないとばかりに、ゆっくりと自身の体を見下ろしていくステビア。
その左胸には、ひとつの穴が穿たれていた。
止めどなく血が溢れ、ステビアは左胸に手を当てたまま膝をつく。
その視線は俺にではなく、背後のシナモンへと注がれていた。
そう。ステビアに銃口を向けている、シナモンに。
てっきり、呼び出せるものは魔獣の類だけかと思っていたが。
銃などの武器も、召喚できたらしい。
さすがは、シナモンだ。あいつなら、絶対にやってくれると思っていた。
「ぐ……シナ、モン……ッ! そこまで、僕を愚弄するかッ! いいだろう、ならば今ここで、ミツバの首を――ッ」
剣を抜き、俺の首へ刃を振るった刹那。
ステビアの体が、勢いよく左方に吹き飛んでいった。
細く鋭い、水の光線によって。
ステビアは体に激突し、ぴくりとも動かなくなった。
それを確認したのち、部屋の入口へと視線を移す。
チコリとカモミールが、急いできたのか肩を上下させていた。
ああ、痛い。痛くて痛くて、たまらない。
せっかく戻ってきてくれたのに、視界が霞んでよく見えないのが辛かった。
「……ごめん、遅くなった、なの。みつば、その血……」
「はぁ、はぁ……カモミール、さん。早く、早くミツバさんの舌を……っ!」
「う、うん、分かったっ!」
ドタドタと、駆け寄ってくる足音が聞こえる。
だけど。そんな足音も、みんなの声も、どんどん遠くなっていく。
「ミツバちゃん、しっかりして! 今、治すからっ!」
そんな、カモミールの叫び声を最後に。
俺の意識は、深い深い闇の中に落ちていった――。