支配への一歩
「く……っ!」
勢いよく肉薄してきたオレガノの拳を、既のところで回避する。
そしてオレガノから視線を外さないまま、急いで距離を取った。
オレガノは、一言も発さない。
ただ黙って、殺意だけを俺に向けていた。
何だ、一体何が起きている。
オレガノは確かによく分からない人ではあったかもしれないが、それでも悪い人ではなかったはずだ。
もしかして、俺たちをずっと騙していたとでもいうのか。
俺たちに協力してくれて、一緒に行動していたくらいなのに……と、そこまで考えて。
俺は、気づいてしまった。
オレガノの瞳に、光が宿っていないことに。
それでいて、何だか悲しそうな色を滲ませていることに。
「ステビア……オレガノに、何をしたッ!?」
薄々と感づきながらも、怒りを抑えることができずに叫ぶ。
しかし、ステビアは不敵な笑みを崩すことなく返してくる。
「フッ……精霊石による強化で、能力の及ぶ範囲が広がっただけだ。お前たちがあの地下を拠点としていることは知っていた。だから、お前の仲間とやらの中から一人を標的に定め――オレガノの思考と認識をあべこべにしただけに過ぎない」
「思考と、認識……?」
「そうだ。馬鹿にも分かりやすく言うなら――従順な奴隷と化すように行動理念を僕と団長のためだけに変え、そしてお前たちを敵だと認識させた」
俺の強化された能力ですら、人の心にまでは干渉できないというのに。
元々かなり厄介だった能力が、精霊石の強化で、ここまで強くなってしまうのか。
俺の強化された能力を使っても、オレガノの心を取り戻すことはできないだろう。
本当に、オレガノと戦わなくてはいけないのか。
こんなことをするために、みんなで探していたわけじゃないというのに。
「ククク……僕は人の心ですら支配できるようになった。ここからだ。まずは、ここが世界への支配の一歩となる!」
対峙する俺とオレガノを、笑いながら眺めるディルとステビア。
当然あの二人は許せない。今すぐ一発くらい殴ってやりたいところだけど、その前にオレガノをどうにかしなくては二人に近づくことすらできないだろう。
どうする――なんて、考える余裕もあまりなかった。
再度、勢いよく肉薄したオレガノの拳が、俺の腹部を殴打したのである。
「か、ぁ……ッ」
苦痛の呻き声を上げ、背中から壁に激突する。
腹も、背中も、凄まじい激痛が襲う。
あんなに筋骨隆々とした体をしているのだ、むしろこれは当然の腕力かもしれない。
腹を押さえ、立ち上がる。
いくら痛かろうと、諦めるわけにはいかないのだ。
「オレガノ、思いだ――」
思い出せ、と言い切る前に、目の前にオレガノの巨体が迫る。
そして、今度は頬を力の限り殴り飛ばされてしまう。
「ぐ、がぁ……ッ」
鉄の味がする。口から血を吐く。
痛い。腹も背中も頬も、心も。
オレガノは自身の透明化能力を一切使わず、ただ全力で俺を殴ってきている。
だけど、そこに手加減は微塵もない。本当に敵だと認識していて、心の底から殺そうとしてきているのだ。
仲間だった人から、ここまでの殺意を以て攻撃されることほど辛いことはない。
能力で何とかできればいいのに、妙案が全く浮かんでこない自分の頭が今は恨めしい。
『俺は仲間だ』と言っても事実だから能力は適用されず、今のオレガノには通用しないはず。
『俺は敵だ』と言えば、確かに嘘だから能力となって信じてもらえるようにはなるが、敵と思われちゃ意味がない。
初めてだ。こんなにも、詰みという状態を実感したのは。
それに、オレガノが執拗に何度も向かってきている今、思考する余裕も失われている。
本当にもう、どうすることもできないのか。
このままだと俺の体力も尽きて、逆にこちらがやられてしまうだけ。
「……逃げているだけか。どうした、そんな男、君の能力であれば屠ることなど造作もないだろう?」
俺を煽る、ディルの声。
そんな挑発に乗ってはいけないと分かりつつも、オレガノから距離を取りながらも視線をディルのほうへ向けてしまっていた。
……いや、待てよ。
そうか。最強で万能でチートな能力は、ディルやステビアだけじゃない。
欠点や弱点、制限が多いとはいえ――俺の能力も。
欠点は、全部で三つ。
一つめが、人の心や生死、概念に関することには無効ということ。
二つめが、俺が現在視界に捉えている光景にしか作用されないということ。
三つめが、能力を使えば使うほど舌に激痛が走るということ。
つまり、それらにさえ考慮すれば、俺の能力は何でもできてしまう。
ただ――『嘘』をつけばいいだけなのだから。
「……オレガノ」
小さく名を呼ぶ。
しかし、彼は止まらない。
ただ真っ直ぐと、俺へ目がけて拳を振るうのみ。
ああ。何で、もっと早くに気づけなかったんだろう。
思考や認識が変えられてしまっているからといって、何も能力でオレガノの心を取り戻そうとする必要なんてなかったのだ。
だって、何故なら。
「お前は、正常だ!」
――最初から、ステビアの能力なんかなかったことにすればいいだけじゃないか。
舌が痛む。鉄の味がする。
思わず口元に手を当てようとして――目の前の変化に、そんな動作ですら中断せざるを得なかった。
オレガノの瞳が、徐々に光を取り戻す。
やがて、辺りを見回して、間抜けに首を傾げる。
「あ、アタシ、こんなところで何をしていたの……?」
能力が解除された、ということだろうか。
本当に上手くいくのか最後まで半信半疑ではあったが、この能力も案外捨てたものじゃない。
『能力にかかっていない』などと言ってしまえば、それは能力という概念に関わることだから、きっと無効となってしまっていただろう。
でも『正常だ』と言った場合は別だ。
オレガノが普段と違う状態なのは明らかだったから、それを直しただけ。
つまり、オレガノという一人の人間の体に関することであって、心でも生死でも概念でもない。
「……迂闊だったか。あらかじめ、能力を封じておくべきだった」
あくまで余裕綽々といった態度で、ディルが呟く。
オレガノを取り戻すことには成功した。
だけど、本当の修羅場はここからだ。
「説明はあとでするから、とりあえず気をつけて」
「わ、分かったわ」
まだ釈然としない様子ではあったが、それでも何とか頷いてくれた。
油断は禁物だ。
さっき以上に、そして神殿内でディルと戦ったとき以上に、遥かに苦戦を強いられてしまうだろう。
それでも退かない。
誰からともなく、動き出した。