70話
「うーん……そうか、記憶が無い、かあ……」
ギルヴァスは唸りつつ、天井を仰いだ。
「何か思い当たること、あるの?」
あづさは何か小さな情報でもいいから欲しい、という気持ちでギルヴァスを見上げる。するとギルヴァスは、ふむ、と唸りつつ答えた。
「ん。まあ、そうだな。……俺はてっきり、君がこの世界に呼ばれて来たんだと思っていたんだ。誰かが代償を支払って、君をこの世界に召還したんだろう、と。……だが、もしかしたら、君の記憶が代償だったのかもしれない」
「それってつまり、私が私の意思で魔法を使った、っていうこと?」
「うーん……いや、だとしたら、代償が少なすぎる。12時間分の記憶だけで世界を渡ってくることはできんだろうからなあ……」
「へえ。じゃあ逆に、記憶全部失ったりしたならそれもまた可能、ってこと?」
「まあ、異世界人は総じて魔力が高いからなあ。記憶全てを代償にしでもしたなら、きっとそれも可能だっただろうが……君はその12時間以外の記憶は失っていないんだろう?」
ギルヴァスの問いに、あづさは顔を顰める。
「多分ね。でも、忘れたこと自体を忘れてるのよ?何か忘れててもおかしくはないわよね」
「そうだなあ」
あづさはやれやれ、とばかりにため息を吐いた。
「ま、結局は考えるだけ無駄ってことよね。また何かあったら無くなってる記憶のこと、分かるかもしれないけど……それだけだわ」
「そうだなあ。忘れているということ自体を忘れている、となっては、何があったか解明するのは中々に骨だろうしなあ……」
自分自身の記憶が欠損しているということが分かった以上、このままにしておくのは落ち着かなかったが、しかしある程度は仕方ない。このまま永遠に分からないことも、もしかしたらあるかもしれない。
だが。まだ、記憶のすべてを諦めるつもりはなかった。
「……多分、私、学校、早退してるわね。それも多分、学校についてすぐ」
1つだけ、分かっていることがある。
「授業のノート、全然取ってないんだもの」
それは、物に残った証拠が、あまりにも少ない、ということだ。
「授業を受けていたら、その記録がノートに残っている、ということか」
「そうね。授業1つ分もノート取ってないなんてありえないわ。それに、プリントが配られてたって、それ全部学校に置いてくる訳はないし。私、転校してからほとんど、勉強道具を学校に置きっぱなしにしたこと、ないの」
あづさがそう言うと、ギルヴァスは成程、と納得したような顔をする。ギルヴァスはあづさの、教科書から資料集まで全てがきっちり詰まった鞄を見て、『異世界の少年少女達はこんなに大量の本を毎日持ち歩いて学業に励んでいるのか、大変だなあ』などと思っていたが、どうやらあづさが少々特殊だったらしい、と気づくことができたのだった。
「君は勤勉なんだなあ」
「……ま、ちょっと事情が違うんだけどね」
あづさは苦笑しつつ、でも勤勉かどうかといえば、間違いなく勤勉の部類に入るだろう、とも思う。
人より劣ることが許せないあづさは、勉強に関して手を抜かない。学校というものは、勉強するだけである程度は自分の価値が決まってしまう場所だ。なら、勉強しない理由がない。面倒くさい、など、あづさの中では言い訳にならない。
常に優等生でいること。常に価値ある生徒であること。それが、あづさを守る鎧、あづさが振るう剣となるのだから。
「……しかし、勤勉な君が授業を受けずに帰った、というのは不自然なんじゃあないか?」
「まあ、そうよね。……うーん、かといって、ノートがすり替えられてるってこともないし。プリントも特に増えてないし。あ、電子辞書の履歴はどうかしら?」
あづさは電子辞書の電源を点けてみたが、履歴は特に更新されていなかった。あの日の授業は、古典や英文法もあったはずなので、授業を受けていたなら1回くらい、何か単語を調べていてもおかしくない。
化学と日本史と現代文、英文法と、古典。それから総合。この日の時間割を考える限り、1つとしてノートを取っていないとするにはあまりにも不自然である。
ということは、あづさは学校に行ったものの、授業を受けずに帰った、ということか。
或いは、授業を受けられなかった、のか……。
「その、志望校調査票、というものは出しているんだろう?なら、その時間までは学校に居た、ということにならないか?」
「どうかしら。もし、朝一番に早退する、って決めたなら、多分、それだけ提出してから私、帰ると思うわ」
「成程なあ……じゃあ、時間の参考にはならんかあ」
「そうね。……ただ、もう1つ、気になる事があって」
あづさは苦笑しつつ、途中で途切れた記憶を手繰る。
「私、志望校調査票に何て書いたのか、全然分からないのよね」
……あの日あづさは、朝まで考えて、しかし、志望校調査票に何と書くか、思いつかないまま学校へ行った。そして志望校調査票はどうやら提出されているらしい。
あづさが志望校調査票を提出したのなら、それは間違いなく、そこに何かを書いた、ということになるだろう。
「私、どういう進路を希望したのかしら。思い出せないの、癪ね」
癪。本当にそんな心地で、あづさはため息を吐くのだった。
その夜。ギルヴァスは静まり返った城の中、数種類の金属線と金属板、そして樹脂の塊などそういった素材を机の上に並べて、作業を進めていた。
何の作業かと言えば、あづさのスマートフォンの充電ケーブルを作るための作業である。
……あづさの失われた12時間の記憶の間に、彼女がこの世界に来た理由が隠されているかもしれない。そしてそれを解き明かすことは……ギルヴァスにとっても、必要なことだ。
「呼ばれて来たのか、はたまた、自分の意思で来たのか……か」
ギルヴァスはそっと、呟く。
……もし、あづさが自分の力でこの世界に来たのなら、いい。その場合は彼女が何を代償にしてこの世界に来たのかという疑問が残るが、だが、ひとまず問題はない。それはゆっくり、あづさと自分の力で解き明かしていけばいい謎だ。
或いは、特に誰の意思でもなく、偶然に偶然が重なって偶々、あづさがこの世界に来てしまった、というのでも構わない。ほぼあり得ないことだが、否定する材料もないのだ。そういう可能性も、ある。そしてもし偶然にあづさがこの世界に来たのだとしたら、それはギルヴァスにとって最も喜ばしいケースだ。
だが。もし、あづさが『呼ばれて』来たのだとしたら……それは誰かが彼女を『呼んだ』ということに他ならない。
あづさを召喚しようとした何者かが居たならば、彼らは異世界の生物の召喚の儀式を執り行いながらも、その生き物の召喚場所を間違え、地の四天王領の荒野の真ん中に召喚してしまった、ということになる。
その時にかかった代償は大きなものであるはずだ。なら、ただ『召喚に失敗した』と諦めることなど、できないだろう。つまり……彼らはきっと、自分達が召喚したあづさを、回収しに来る。
「……盗られちゃあ、たまらんからなあ」
その可能性がある以上、ギルヴァスはあづさがこの世界に来た経緯を、可能な限り、知っておきたかった。
どうしてあづさはこの世界に来たのか。誰が術者なのか。代償は何だったのか。
それらを知ることができれば、もし誰かがあづさを『回収』に来ても、対抗できるかもしれない。
そう。ギルヴァスは対抗するつもりなのだ。いつかあづさを『回収』しに来るかもしれない、正当な召喚主に対して。
自分が召喚したわけでもなく、あづさとしても成り行きでここに居るだけだというのに……正当性もなく、あづさを手元に置いておきたい。あづさがここに居ることを、選んでくれる限りは。……否。あづさがここではない何処かへ、彼女の意思で行こうとしたとしても、もしかしたら。
そう思ってしまう程には、ギルヴァスは、あづさのことを気に入ってしまっているのだ。
「……俺も、竜、か」
高潔でありながら強欲で傲慢な生き物の血は、確かに自分の中に流れている。
ギルヴァスはそれを確かに自覚して1人苦笑して……また机の上の作業に取り掛かり始めるのだった。
翌日。
あづさが起きだしていくと、ギルヴァスが眠たげな眼をこすりながら食卓に着いていた。
「あら、おはよう。早いのね」
「……おはよう」
何やら、ギルヴァスは非常に眠たげである。あづさはそれを不思議に思いつつ……机の上のものを見て、声を上げた。
「あっ!それって、もしかして……」
「すまーとほん、とやらの、じゅうでんけーぶる、という奴だ。作ってみたのだが、どうだろうか」
あづさは充電ケーブルを手に取る。金属線の周りは樹脂で覆われ、端子も綺麗に、スマートフォンに接続できるようになっている。素晴らしい出来だった。スマートフォン側を見ただけで、まさかここまでの再現ができるとは。
充電ケーブルを眺めていたあづさは、ふと、気づいた。たった1晩でできてしまった充電ケーブルと、眠そうなギルヴァス、ときたら……考えつくことは、1つ。
「……まさかあなた、徹夜したの!?」
尋ねると、ギルヴァスは如何にも眠そうな緩慢さで頷いた。
「ん……まあ、そうだな……気が付いたら朝、だった、なあ……」
今にも寝入ってしまいそうな様子のギルヴァスは、しかし、満足げである。自分でも満足のいくものが作れた、という自負があるのだろう。
「ちょ、ちょっと、嬉しいけど!嬉しいけど、ちゃんと寝て!ああもう、本当に不摂生っていうか……」
「集中すると時間も周りのことも忘れる性分でなあ」
「はいはい、分かったわ。じゃあ充電するけど、あなたは朝ごはん食べたらちょっと寝てなさいよ」
「いや、君のすまーとほんとやらを確認するまでは……」
「すぐに充電できるわけないでしょ。どうせ1時間2時間は掛かるわよ」
「そういうものなのか……」
ギルヴァスはまた緩慢に頷くと、仕方ない、とばかりにその場に突っ伏した。
「なら、寝よう」
「馬鹿。部屋行って寝なさいよ。ちょっと」
「うん……」
あづさはギルヴァスを揺さぶって起こそうとしたが、ギルヴァスはもう、この場で眠ることに決めてしまったらしい。頭を抱え込むようにして机の上に突っ伏し、やがて寝息を立て始める。
「……地の四天王がこんなんでいいの?警戒心、無さすぎじゃない?」
今更だけど、と思いつつもあづさはそう呟いた。少々の嫌味を込めてみたが、ギルヴァスは当然のように起きない。自分の前で無防備に寝てしまう大男の姿は、いっそ子供じみてすら見えた。
これでは仕方ない。せめて、起きてきた時に何か食べさせよう、と、あづさは朝食の準備に取り掛かるのだった。




