57話
水に触れた、と感じた次の瞬間にはもう、あづさは水に捕らえられていた。
一気に体が持ち上げられ、身動きを取ろうとしても水の流れに翻弄されるばかり。
自分の意志で動けない恐怖と、透き通って月光に煌めく水の美しさのコントラストがあづさに強く焼き付く。
……月光にそのシルエットを際立たせた地の四天王城がちらりと見えたのが最後だった。
後はもう、見えるものは全て水に歪められ、次第に溶け合い、やがて何も、見えなくなった。
ほんの数秒だったのか、はたまた数分経ったのか。
時間の感覚がよく分からなかったが、とにかくあづさは目を開いた。
いつの間にか体はそれなりに自由に動くようになっていた。周囲にはきちんと景色が見える。
……そこは、青の世界だった。
水面から差し込む月光が青く青く水底まで届いて、どこまでも透き通って見える。周囲を泳ぐ魚は銀色に煌めいて、まるで花吹雪のようにも見えた。
そして何より美しいのは、白大理石と水晶でできた繊細な美しい城……水の四天王城である。
敵地真っただ中、水の底。静かに佇む美しい城は、あづさを緊張させるに十分な迫力を湛えてそこにあった。
あづさの前にミラリアが現れる。
『大丈夫ですか?すぐに息ができるところまでお連れしますね』
水の中だというのに不思議と言葉が聞こえた。だがあづさがそれを不思議に思うより先に、あづさの体が動き出す。
あづさはミラリアに抱きかかえられるようにして、水の中を進んでいた。ローレライは泳ぎが上手い。およそあづさの知るどんな生き物とも異なる彼女らは、あづさを連れて、水の四天王城へとまっすぐに泳いでいくのだった。
あづさの息が続かなくなることはなかった。恐らく、何らかの魔法があづさに掛けられていたのだろう。だが、それでも、空気のある所に出て自分の意志で呼吸をすると、水の中が息苦しかったことを知る。
「ここがオデッティア様のおわす城、水の四天王城です」
水の四天王城の玄関口から入ったあづさ達は、水と空気の境目が垂直に存在している不思議な壁を通り抜けて、白大理石の床の上に立つ。それと同時にあづさの服に染み込んでいた水は全て抜け落ち、服の裾がふわり、と広がった。
……不思議なことに、水の中の城であるというのに、城の中は空気で満たされていた。勿論と言うべきか、廊下の中央には水路が張り巡らされており、水の中に居るべき種族はその水路を使って移動しているらしかったが。
「ねえ、あなた、水から出ても平気なの?」
「ええ。ローレライは比較的、水から離れることが得意な種族です。それに、この城の中は常に、水の魔法で満たされていますから」
だが、ミラリアはあづさと共に床の上に立っている。それはどうやら、ローレライという種族であるがためでもあり、そしてこの城に満たされる魔法によるものでもあるらしい。
「水の魔法?」
「ええ。客人を迎えるためにこのように空気を満たしてはありますが、水の者にとって不便にならないよう、この空気にはすべて水の魔法が掛けられています。だから、水の者達も苦しむことなくこの場に居られるのです」
そんなものなのね、と納得しつつ、あづさは周囲を見回した。
白大理石の柱には精緻な彫刻が施され、水晶と色硝子で作られた天窓から差し込む光が床や壁を彩っている。通路の中央にあるのは絨毯ではなく水路だが、その水路もまた、縁を金で装飾し、水面に花を浮かべて品よく飾られている。
品のいい調度品も、行き交う使用人の揃いの制服も、全てがオデッティアの趣味の良さを表しているようだった。
「……綺麗なところね」
通路を歩きながら、あづさはただただ感嘆するしかない。……地の四天王城はこのように場内を飾る余裕がない。それを思えばこの城の美しさは、水の四天王が地の四天王より多くのものを持っている、という証明に他ならない。
「では、オデッティア様のもとへお連れします。……よろしいですね?」
「ええ。勿論」
あづさはにっこりと笑って、ミラリアの後をついて歩く。
……堂々と処刑台に上がる罪人のように、緊張を心の内に秘めて。
やがてあづさはオデッティアの前に通される。
玉座へ一直線に続く水路の脇、白大理石の床の上に立って、あづさはオデッティアを見上げていた。
「久しいな、あづさ」
オデッティアは玉座の上からあづさを見下ろして、少々気だるげに、それでいて妖艶に、微笑みかけてきた。
「まずは、お前を歓迎しよう。ようこそ、我が城へ」
「お招き頂いて感謝するわ。綺麗なお城ね。地の四天王城とは大違いだわ」
「そうであろうな。奴の元では、碌なものも手に入るまい。その点、妾ならば、お前の欲するものを何でも与えられるぞ」
オデッティアは満足げに目を細めて、あづさを見つめる。その青い青い目の中、爬虫類めいた瞳孔が縮んで、あづさを捉えた。
「そして妾なら、お前の能力を余すことなく発揮させることができる。よい武器はよい戦士のためのもの。よい書物はよい賢者のためのものよ。……妾の許に来たのなら、お前を正しく使ってやろう。お前を必ずや、成功させてやろうぞ」
オデッティアの言葉は冷たいようでありながら、自信に満ち溢れて頼もしく感じる。これが水の四天王オデッティア・ランジャオが四天王である理由なのだろう。
あづさは目の前の女帝を見上げて、そして微笑んだ。
「ギルヴァスならそんなこと、絶対に言わないわね」
それから二言三言挨拶を交わした後、あづさはオデッティアの前を辞することになる。オデッティア自身が、あづさを下がらせたためだ。
やはりと言うべきか、オデッティアは酷く消耗していた。何せ、また水を動かして、その水を通じてあづさ達を水の四天王城近くまで瞬間移動させたのだ。それらの魔法を全て1人で担ったオデッティアは、すぐにでも眠ってしまいたいほどの消耗に晒されていたのである。
あづさは早々にオデッティアの前を辞して、通された客間で大きく伸びをした。
……ひとまず、オデッティアはあづさをすぐにどうこうするつもりはないらしい。或いは単に、今はそうできない程消耗している、というだけだったのかもしれないが。
「でも、話せない相手じゃないわね」
だが、何よりもまず、オデッティアが理性的な相手である、ということがあづさにはありがたい。
ファラーシアの場合は、理性的なやりとりが望めなかった。その分、オデッティアに向かうのは、それなりにやりやすい。
「相手の落としどころさえ見えればいいんだけど……」
後は、理性的なやりとりの中、どこに落としどころを付けるか。
ルカを救出した後で、他の種族に被害がいかないように気を付けつつ、穏便に、オデッティアにはあづさを諦めさせる。
……なかなかの難題である。何せオデッティアは理性的だが、それ以上に冷酷な性質だ。誰も傷つかない和平より、全てのものを倒して辿り着く頂点の方が、彼女の心を動かすのだろう。
強者からしてみれば、弱者と安い和平を結んでみたところで何の得にもならない。平等であれ平和であれとただ宣うことは簡単だが、それは弱者の怠慢だ。
ならば。
「……こっちが上に立つしかないわね」
相手を納得させるなら、最低限、相手と同じ土俵に立つしかない。そしてその上で……相手にとって得になるよう、話を運ばなければならない。
ならば一番簡単なのは……『あづさの要求を受け入れないと、多大な損失を被る』という状況を生み出すことだ。
その夜、ギルヴァスは大きく伸びをした。月を見上げて翼を広げ、牙の生え揃った咢を開いて小さく吠える。雄大な姿の竜は、無骨ながらも堂々として美しい。
ギルヴァスがこのように1人翼を広げていられるなど、何時ぶりだろうか。
少し前までは、このようなことをする気分にはなれなかった。人間の小さな体躯に自分を押し込めて、城の中で1人、蹲っているばかりだった。
だが今は違う。
ギルヴァスは清々しい気持ちで空を見上げると、ぐ、と身を低くした。
そして。
一声、低く鋭く、竜の咆哮が響く。
それと同時に地面が揺れ、隆起して、メキメキと凄まじい音を立てていく。
……それらが収まった時、ギルヴァスは大きくもう一度吠えると、地を蹴って、勢いよく飛び出した。
その後に続いたのは、海竜隊の者達だ。彼らはたった今、ギルヴァスの咆哮とともに生まれた谷、そこを逆流していく水に乗って、一直線に水の四天王領へと進んでいく。
ギルヴァスは自分が生み出した川を海竜隊の者達が泳いでついてくるのを確認すると、力強く翼をはためかせて、荒野の上を飛んでいくのだった。
……一方、その頃。
オデッティアは自らの寝室にミラリアを招いていた。ミラリアは何が起きるのかとばかり身を固くしていたが、オデッティアはその緊張を解してやるでもなく、しどけなくも美しい夜着のまま、寝台の上からミラリアに話しかける。
「ミラリア。ご苦労であったな。流石、妾が見込んだだけのことはある」
「……ありがとう、ございます」
ミラリアはその面持ちに一層の緊張を表しながら、じっとオデッティアを見つめる。オデッティアはそんなミラリアを見て可笑しそうに笑うと、ミラリアを手招いた。
ミラリアはオデッティアの指示に従わないわけにもいかず、ゆっくりと、オデッティアへ近づいてくる。
「さて、ミラリア。苦労を掛けたついでに、報告を聞いておこう」
「はい。何なりと」
寝台の傍らに跪いたミラリアを見下ろしながら、オデッティアは微笑んだ。
「一度、お前達は捕らえられたそうだな?その時、どうして捕らえられたのか報告せよ。敵の攻撃手段は知っておかねばならぬ」
そうオデッティアが言うと、ミラリアは少しばかり、安堵したような表情を浮かべた。
「箱です。金属の線で繋げられた奇妙な箱が堀の中に投げ込まれ……すると私達は強い衝撃を受けて、気づけばもう檻の中に……」
「ふむ、金属線に繋がれた箱、か。大方、風の者達が言っていたものであろうな」
オデッティアは満足げに頷く。風の四天王領に居る、自分と懇意にしている者と連絡を取って仕入れた情報と、ミラリアのもたらした情報は合致する。間違いない。地の四天王団側の最大の攻撃手段はそれだろう。
「成程な。よく情報を持ち帰ったぞ、ミラリア」
「勿体ないお言葉です」
オデッティアは心から微笑みを浮かべた。敵の攻撃の種が分かってしまえば、対処のしようはある。ましてや、あの甘いギルヴァスやあづさがまさか、風の四天王団雷光隊がオデッティアに情報をもたらしたとは思っていまい。ならば、これはオデッティアが彼らの裏を掻くための武器となるのだ。
「うむ。……して、もう1つ、聞いておきたいことがある」
そしてオデッティアは、上機嫌なまま、ミラリアにもう1つ、尋ねることにする。
顔を上げたミラリアは、今度こそ凍り付いた。
「一体どのようにして、あづさを誘惑した?……否、或いは、どのようにしてお前たちはあづさに誘惑されたのだ?」




