37話
怠く熱い体をベッドの上に横たえて、あづさは自分に寄ってきたコットンボール達を優しく払い除けた。
今は体が酷く熱を持っていて、ふわふわした感触が鬱陶しい。自分の汗で張り付くコットンボールの毛を思えば、払い除けてやるのはいっそコットンボール達への優しさである。
……だが、例外も居る。
「……あ」
あづさは、自分の額に乗ったスライムの感触と冷たさを感じた。薄く目を開ければ、視界の上の方にはぷるぷるとした透明な塊が揺れている。
「……ふふ、冷たくって、きもちい……」
自分の体温が冷やされていくのを感じつつ、あづさは目を閉じ、意識を手放した。
ギルヴァスは、自分の頭の上に乗ったスライムがぴょこぴょこと跳ねるのを感じて不思議に思う。
スライムというものは、本来、のんびりとしているものだ。それが特に目的もなく、忙しなくもギルヴァスの頭の上で跳ねるとは。
「ん?どうした?」
だが、どうやらスライムはギルヴァスに伝えたいことがあるらしい。
言葉こそ発しないものの、ギルヴァスの手の中に落ちてきたと思ったら、またぴょこぴょこと跳ねる。
……これは何かあるのだろう、とギルヴァスは思う。
「何かしたいことがるのか?」
ギルヴァスが問うと、スライムはまたぴょこんと跳ねて、床に降りる。そしてぴょこたんぴょこたんと跳ねて、床を進み始めた。
……だが、スライムの懸命な3歩が、ギルヴァスの1歩に満たない。
「……どこか行きたい場所があるんだな?俺が運んでやろう」
ギルヴァスは苦笑しつつ、スライムを手の中に掬い上げる。どうせギルヴァス自身もある程度暇である。スライムを運んでやる程度、何ということもない。
そう思って、ギルヴァスはスライムの乗り物として城の中を歩き始めた。
ギルヴァスが辿り着いたのは、あづさの部屋の前だった。
度々ここの前を通り過ぎることはあったが、思えばあづさがこの城に来てからこの方、この部屋に踏み入ったのは最初にあづさをここへ運び込んだ時だけだった。
スライムはギルヴァスの手の上から降りると、ぺたんぺたん、とドアを叩く。ノックのつもりらしい。
しかし、ぺたぺたとした音ではノックになるまい。ギルヴァスはスライムを抱え直すと、スライムの代わりにノックしてやる。
「あづさ。居るか?」
……だが、声を掛けてみてもあづさの返事は無い。
「あづさ」
もう一度声を掛けても、やはり返事は無い。これはどうしたことか。ギルヴァスはてっきり、あづさは部屋に居るものだと思っていたが、勘違いだったのだろうか。
……すると唐突に、ぺたん、という音がドアの向こうから響いた。
更に重ねて、ぺたぺた、と。
「……あづさのスライムか?」
ギルヴァスが不思議に思っていると、やがてギルヴァスの手からスライムが跳ねて、ドアノブに着地した。そしてむにむにとドアノブに巻き付いて、何とか開けようとしている。
「こ、こら。やめないか、お前達」
ギルヴァスは止めようとするが、スライムは止まる気配がない。……ギルヴァスはため息を吐く。ここまでスライムが頑張っているのだ。なにか理由があるのかもしれない。そして理由が特に無くとも、あづさはスライム達のいたずら程度、笑って納めてくれるだろう。駄目でも、ギルヴァスが怒られればいいだけの話だ。
「あづさ。開けるぞ」
ドアノブからスライムをうにょん、と引き剥がすと、ギルヴァスはあづさの部屋のドアを、開けた。
「……あづさっ!」
そこでギルヴァスが見たものは、ベッドの上でぐったりとして苦しげに呼吸をするあづさと、あづさに向かって跳ねていく2匹のスライムの姿だった。
それから、数時間後。
あづさは目を開けた。
……眠る前まであった目眩や吐き気はもう収まっていた。だが相変わらず全身が怠く、頭が重く、熱い。
これはいよいよ風邪ね、とあづさがため息を吐くと。
「起きたか」
聞こえるはずのない声が聞こえて、あづさはぎょっとして起き上がる。その拍子にスライムが自分の頭から振り落とされて膝の上に着地したが、それどころではない。
「……な、んであんたが、ここに居るのよ……」
「ん……勝手に部屋に入ってすまない。だが、スライムがどうしても、という様子だったから」
「スライム、が……?」
あづさの膝の上には、いつの間にかスライムが居る。あづさにくっついているスライムだ。
すると、ギルヴァスにくっついているスライムがあづさの額までよじよじと這い登ってくると、そこにぺったりと張り付いて収まった。
「……冷やしてくれてたの?」
スライムはぷるん、と一揺れして、またあづさの額を冷やす役割を全うし始める。
「まあ、ずっとこの調子だ。どうやらスライム達は君が心配だったらしい」
少々ぬるくなった方のあづさのスライムは、またあづさの上を這って移動して、やがてベッドの横に置かれた桶の中に落ちた。ぽちゃん、と水の音がする。
「このスライム達は賢いなあ。交代しながら君の熱を冷ましたり、水の桶の中に浮いて自分を冷やしたりしていた」
あづさが目をやると、桶の中のスライムは何やら自慢げな様子でぷるんと揺れた。
「私……全然気づかなかったわ」
「まあ、風邪だろうからなあ。無理もない。今日はゆっくり休め」
「ん……」
申し訳ないやらスライムがいじらしく可愛らしいやら熱のせいで頭がぼんやりするやらであづさが言葉に詰まると、ギルヴァスは笑った。
「……なに笑ってんのよ。そんなに無様に見える?」
半ば反射のようにあづさが半眼を向けると、ギルヴァスは両手を胸の辺りに掲げつつ、とんでもない、とまた笑う。
「……いや、申し訳ない。ただ、その、少し嬉しくて」
「は?」
はにかむように苦笑して、ギルヴァスはなんとも場違いな言葉を発する。
「いや、君が辛そうなのは、俺も辛いんだが……その、もしかして、君が風邪を引いたのは、気が緩んで今までの疲れが出たからか、と思ってなあ」
言いづらそうに言うギルヴァスを眺めて……あづさは聡明であるが故に、おおよそ、その先の言葉を察した。
「君が気を緩めた、ということなら……少しは俺のことを、信頼してくれているのか、と思って」
ますます熱が上がったような気分になりつつ、あづさは布団の中に戻りつつ、弁明のように言う。
「……別に、そういうんじゃ、ないわ。ただ、ちょっと慣れない魔法を使いすぎただけよ」
「そうかあ」
「けど……そんなことで風邪引くなんて、馬鹿な真似、しないけど。……でも、あなたのことは、信頼してるわ」
「……そうかあ!それは、嬉しいなあ」
嬉しそうなギルヴァスを見て、あづさは、ふ、と短く息を吐いた。
「で。あなたまさか、一晩私のこと見てるつもり?」
「君が望むならそうするが」
「望むわけないでしょ」
布団の中から腕を出して、ぺしり、とギルヴァスの前腕あたりを叩きつつ、あづさは苦笑を浮かべた。
「一晩、放っておいてもらえたら治るわ。見てなくったって大丈夫」
「そうか……何かほしいものは?薬と水は持ってきてる」
ギルヴァスは水差しと素焼きのカップとを手にとってあづさのために水を注ぎ、カップの中に薬を混ぜ込んだ。
薬草数種類を煎じた薬は、ギルヴァスが昔から使っている風邪薬である。
「お水、飲みたかったの。ありがとう。そうね、他には別に欲しいものはないわ……あ、スライムは別よ?居てほしい」
「……だそうだぞ。よかったな、お前達」
そろそろあづさの熱冷まし係を交代するらしいスライムへギルヴァスが声を掛けると、スライム2匹はぷるるん、と嬉しそうに震えるのだった。
水をたっぷり飲んで、スライムに冷やされて、そして一晩ゆっくり眠って。
あづさが次に目を覚ました時、外はもう明るかった。そしてあづさの体調も、それなりに良くなっていた。まだ怠さは残るが、その程度だ。
「あーあ、シーツもお洗濯しなきゃ。随分汗かいたわ」
あづさはベッドから抜け出して、真っ先に着替えを取る。
ラギトがくれた服はその多くがハーピィ用で、ノースリーブで脇が大きく開いているデザインであったり、ホルターネックで肩から背中までがざっくり開いていたりするのだが、その中からそれなりに露出の少ない服を選ぶ。上に防寒用のマントを着てしまえば、冷えはしないだろう。
着替える前にシャワーを浴びたかったが、浴室まで歩くのは億劫だった。なので適当な布を水で絞って、それで体を拭く。
未だ少々怠い体を動かすのは辛かったが、仕方ない。あづさはゆっくりした速度で体を拭き……そこで突然、むにょ、とした感触に行き当たる。
「何?手伝ってくれるの?」
あづさの手に触れたスライムはその通りだと言うかのように、あづさの手から布を奪い取る。
そして器用に、布を抱えたまま這い回って、あづさの背中を拭き始めた。
「……ふふ、ありがとう。気が利くわね」
スライム2匹はあづさの背中から首筋までを拭き終えると、膝の上でぷるん、と一揺れするのだった。
「おはよう。……体調はどうだ?」
「大分良くなったわよ。今日いっぱい、魔法の練習はやめておくつもりだけど」
「そうだな。それがいい」
食堂に向かうと、そこには既にギルヴァスが居て、小鍋で麦粥を煮込んでいた。
「食べられそうか」
「ええ。ありがとう」
あづさが席に着くと、木の器に控えめに盛られた麦粥が置かれる。あづさは早速それをスプーンで口へと運んだ。
半日以上何も食べていなかったからか、とろりとした麦の甘みと薄くつけられた塩味がとても美味しく感じられた。
麦粥を器に一杯食べて、あづさはふと、向かいに座ったギルヴァスに言う。
「……その、迷惑掛けたわね」
「何がだ?」
「急に風邪引いて、よ」
あづさが言うと……ギルヴァスは、首を傾げた。
「……君の世界には急ではない風邪の引き方があるのか?」
「ないわけじゃないけどそうじゃないわよ」
あづさが拍子抜けしながら答えれば、いよいよ、ギルヴァスは不思議そうな顔をする。
「ということは、君の世界では、風邪を引くということは迷惑を掛けるということなのか?」
「……こっちじゃ、そうじゃないの?」
つられるようにしてあづさも首を傾げれば、ギルヴァスは深々と頷いた。
「ああ。嫌いな奴ならまた話は別だが、信頼している相手が風邪を引いたとして、それを迷惑に思うなんてありえないな」
「……そう。なら……よかったわ」
あづさは何と返せばいいのかよく分からず、俯き加減にそう返す。
ただ、不快ではなかった。
「そうだ、スライムにもお礼、言わなきゃね」
ふと、あづさは机の端の方でぷるぷるしている2匹の方を向いた。スライム達はあづさの視線に反応するかのように、揃ってぷるんと揺れる。
「わざわざ部屋まで来てくれて、ありがとう。冷やしてくれたの、気持ちよかったわ」
スライム達をつついて、あづさは笑う。
「それに、ギルヴァスを連れてきてくれたのもあなた達……」
だが。
そこであづさは、凄まじい違和感を覚える。
「……ちょっと待ちなさい。スライム。ねえ。あなた達って……1匹は私と一緒に居て、もう1匹はギルヴァスと一緒に居て……ギルヴァスを呼んだのって、ギルヴァスと一緒に居た方よね?」
スライム達は首を傾げるかのように、ぷるん、とまた揃って揺れた。だが、そんな仕草はさて置き、あづさは、問わねばならない。
「……私と一緒に居た訳でもないのに、よく、私が風邪で倒れたって、分かったわね……?」
どうやらスライムというものは……あづさが想像していたより余程、奇怪な生物であるらしい。




