158話
それから3月。
魔法学校での講義は順調に行われ、人間達は存分に魔法を学んだ。
元々、人間達は魔力の量が少ない。どうしても覚えられる魔法には限界があったが、理論を学び、制御を学べば道具で補助して大きな魔法を使うこともできるようになっていく。
……案外、魔法を学びたがる人間達は多かった。
交流団だけではなく、他にも志願してきた人間達が何人か、魔法学校で魔法を学んでいる。彼らは生まれて初めて魔物に会ったわけだが、人間と同じく人格があり、知性があり、そして友好的な魔物達を見て、魔物というものへの認識を存分に改めたらしかった。
特に、男性陣はミラリアなど、美しい女性の魔物に見惚れた。ミラリアは水の魔法と幻影の魔法の講義を行っていたが、あまりに生徒が増えすぎたためにルカが補助に入ることになり、その結果女性の生徒が増え、そうして最終的にはいつの間にか事務経理を取り仕切るようになっていたシャナンが受講生徒数を制限するまでに至った。
ネフワはファラーシアに『千切られて』、その欠片が講義を行っていたが、こちらは人間からかけ離れた容姿であるのに馴染むのが早かった。
魔法というものは口頭や文章で伝えるのが難しい代物だが、ネフワは伝えにくい諸々の感覚を図示することによって、分かりやすさを実現したらしい。常に魔法の板で会話をしているネフワならではの授業は、やはり人気を博した。そして特に女性にはその手触りも人気を博した。
あまりにも触られすぎてネフワが消えかかると、代行としてシルビアが授業を担当することになり、風の四天王団雷光隊はしばらく忙しい日々を過ごす羽目になったのであった。
ネフワとは逆に、ラギトの講義は分かりにくいと評判であった。「グッ!でビューン!でズバーッ!だ!」などと言われても人間は困るしかない。
しかしそれでも講義をとろうとする者が多かったのは、「あきらめんな!オメェならできる!できるぜ!」「今のはちょっとよかったぞ!そうだ!その調子だ!がんばれ!」「そう!それだ!速ェじゃねえか!覚えるの速ェぞ!さては風の四天王団に入団するつもりか!?歓迎するぜ!」……など、ラギトの悪意もなく他意もない一言一言に励まされる人間達が多かったためである。
ラギトは授業自体よりもどちらかというと、生徒の悩みを聞いて励ます係として、人気を博していた。勿論、ラギトはそういった事情には気づいていなかったが。
……そうして、魔法学校は順調に運営されるようになっていった。学ぼうとする人間が増え、結果、人間と魔物の交流も増え……魔物に忌避感を覚える人間は徐々に減っていくようだった。
この調子で人間達が努力を重ねればきっと、『人間に好意を抱く者にしか通れない結界』も、じきに完成するだろう。
だが……その結界が完成する頃には、もうそんなものがなくとも、人間は魔物を信頼できるようになっているかもしれない。
そう思わされる日々が、静かに流れていった。
……そしていよいよ、あづさが元の世界へ帰る日が来たのである。
「じゃあ、元気でね」
「ああ。お前も」
魔法学校の裏手の檸檬畑でクレイヴに別れの挨拶をしたあづさは、あっさりしてるわね、と苦笑した。
……やはりと言うべきか、いざ別れの時となると、寂しがる者達は多かった。
……しかし、クレイヴに関しては元が淡白な性質だからか、それほど惜しまれるでもなく、あっさりと挨拶が済んだのである。
まあ、こんなのも悪くないわね、とあづさは思いつつ、檸檬畑を後にする。
「感謝してる」
だが、後ろから掛けられた言葉に驚きながら振り返ることになった。
「……ダニエラ様のことも、人間の国のことも、そうだが……俺のことも。……好きなものが、増えた」
途切れ途切れに並べられた言葉を聞いて、あづさは思わず笑いだした。
「そう!なら、本当に良かった!」
自分が他人の人生を変えたのだな、と実感できるのは、感慨深かった。
孤独な暗殺者を、ヘルルート達に囲まれながら庭や畑を管理する檸檬農家にしてしまったのだ。中々いい働きができた、と、あづさは自己評価を下す。
「……元気で」
差し出された手を握り返して、あづさは微笑む。
決して返事ができない自分を申し訳なくも思いながら、そっと手を離した。
「ああ……そうか。あづさ嬢は異世界の方でしたね」
「そうなのよ。まあ、こっちのことは私が居なくても大丈夫でしょ?いつの間にかあなたも事務と経理やってるし」
次にあづさが訪れたのは魔法学校の事務室(として新たにギルヴァスが増築した部屋)である。そこではシャナンが様々な事務管理を行っていた。
いつの間にやら魔法学校の事務経理の座に収まっていたシャナンは、商人としての能力を生かして存分に働いていた。彼が居れば魔法学校の運営はもちろん、人間と魔物の交流についても大きな力になるだろう。
「なんていうか、あなたに声掛けられた時はこうなるなんて全然思わなかったんだけど。でも、よかったわ。なんかこう、綺麗に纏まって」
「そうですね。今の環境にはやりがいもある。勇者イーダの子孫として、こうして真の平和な世界のために働けるのは嬉しいですよ」
シャナンはそつなくそう答えて笑い……そして小さくため息を吐いた。
「後はミラリア嬢が振り向いてくれれば完璧なのですが」
「あはは。難しいかもね。美女の魔物が居れば美男の魔物も居るんだもの」
「僕の方が気が利く自信はあるんですがね。それから、器用だという自負もありますよ」
「あら。私、特に誰が居るから難しい、とは言ってないけど?」
あづさがそう言って揶揄うように笑えば、シャナンは少々道化がかった仕草で肩を竦めてみせた。
「全く、お人が悪い。……まあ、そうですね。それでもやれるだけのことはやってみましょう。諦めるのは性に合わない」
「ふふ。頑張ってね」
あづさは差し出された手を握り返して、シャナンとミラリアの行く末を想像し……また苦笑しながら手を離した。
「ダニエラさん、調子はどう?」
丁度、ミラリアの講義が終わったところで、講義を受けていたダニエラに声をかける。するとダニエラは少々意外そうな顔をしたものの、柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ。日々、有意義に過ごしていますよ。王国内の魔導書を探しては押収して読んでいた頃とは比べ物にならないくらい」
「それはよかったわ」
ダニエラの隣の席に座ると、あづさはふとダニエラの顔を見て、思い出す。
「……そういえば、魔王の力の後遺症とか、無い?」
ダニエラはあの時、随分と無茶をしたように見えた。ギルヴァスがダニエラを止めようとした理由も、ダニエラの身を案じての部分が大きかったように思う。
あづさが尋ねると、ダニエラはくすくすと笑って答えた。
「ええ。まあ、寿命が大分縮みました」
「……それは、比喩じゃなくて?」
「ええ。比喩ではなく。……やはり、力も主を選ぶものなのですね。修行も碌に積んでいない、ただのエルフがまともな準備もせずにいきなり魔王の力を使おうなど……驕っていました」
『寿命が縮んだ』という言葉にぞっとさせられつつも、しかしそう言うダニエラの表情に陰りは無いので、あづさはまた、恐る恐る尋ねる。
「……ちなみに、何年ぐらい縮んだの?」
「さあ。具体的なことなど分かりませんが。そうね……100年か200年かそのあたりは縮んでいてもおかしくは無いでしょうね。むしろ、あの竜が私を止めなかったなら、きっと私はできうる限りの破壊をした後、あそこで死んでいたでしょう」
人間のものさしからは勢いよくはみ出るスケールで寿命を語られて、あづさは何とも言えない気分にさせられた。聞いてもいまいち、ピンとこない。
「残された寿命がどの程度なのかは私の知るところではありませんが……お前達の働きのおかげで、エルフ達は随分と過ごしやすくなりました。魔物達に受け入れられると分かって、エルフはやっと、居場所を認められたような心地です」
「そこはダニエラさんの力によるところも大きいんじゃない?人間の国の方でも、受け入れようっていう話、結構出てるんでしょ?」
「ええ。人間の国はこちらよりもエルフへの忌避感が根深く残っていますから、すぐにどうこうできる話ではないでしょうが……それでも、50年か100年もすれば大分、過ごしやすくなるはずですね」
そりゃ、今居る人間ほとんど死ぬでしょうからね、と、やはり何とも言えない気持ちでそう思いつつ、あづさは頷く。
「お前は元の世界に帰るのですね?」
そして唐突に、ダニエラにそう言われて、あづさは頷く。
「知ってたのね。ダニエラさん」
「ええ。……講師の1人が、随分と騒いでいたので」
『騒いでいた講師』が誰なのか大凡理解しつつ、あづさは手を差し出す。
「じゃあ、私、多分もう会えないけど。元気でね」
「ありがとう。あなたも……」
ダニエラはあづさの手を握って、それからじっと、あづさの顔を見つめた。
ダニエラは何か言いかけるように口を開きかけ、しかしそれを引き結ぶとすぐ笑みの形にして、結局何も言わずにあづさの手を離した。
「そうですか。もう……」
ミラリアはあづさが別れの挨拶をすると、その目を潤ませてあづさを抱きしめた。
「……あなたには本当に、助けていただきました」
「私だってあなたに助けられっぱなしだったわ。『お姉様』」
あづさもミラリアを抱き返しながら、ミラリアの後ろに佇んでいたルカに、笑いかける。
「勿論、ルカにもね」
「……俺は碌に何もしていなかったが」
ルカはミラリアのように別れの悲しみを表すことは無かったが、いつも以上に言葉が少ない。何かに耐えるように引き結ばれる唇が、彼もまた、別れを惜しんでくれているのだな、とあづさに知らせる。
「そうでもないわよ?今だって、先生の役、させちゃってるし。どう?学校の先生は。人気みたいね?」
「俺には向いていないと思うことばかりだ。ミラリアは器用にやっているが……俺はそううまくできない」
「そうでもないのだけれど。……あづさ様。彼も案外、上手くやっていますよ。教え方が丁寧なんです、彼」
「ふふ、知ってる。シャナンさんが歯噛みしてたから!」
あづさがそう言って笑うと、ミラリアはくすくすと笑い、ルカは少し考えた後、顔を紅潮させて俯いた。
「……ま、これからのあなた達の様子、見られないのはちょっと悔しいけど。元気でね」
2人へ手を差し出すと、ルカもミラリアも、固くあづさの手を握った。
「世話になった。感謝する」
「あづさ様。どうぞ、お元気で」
「あなた達が幸せに暮らせること、祈ってるわ。ずっと」
触れた手は水のものらしくひんやりとしていたが、それ以上の温もりを、確かに感じてあづさは手を離した。
「あづさよォー!お前、なんで帰るンだよォー!」
「そりゃ帰るわよ。やることあるんだもの」
「うるせー!お前は風の四天王団風鳥隊の参謀になるんだよ!」
「ならないわよ」
「ファラーシアも羽化したし!もう1人立ちできるし!ならお前も参謀になっていいだろ!いい!俺が決めた!」
「だーから、ならないってば」
ジタバタしながら騒ぐラギトを見て苦笑する。ダニエラの言っていた『騒がしい講師』は間違いなくラギトのことだろう。
「なああづさァー、考え直せよォー。こっちは大歓迎なんだぜェー?」
「嬉しいけど、ごめんね。帰らなきゃいけないの。分かって頂戴」
あづさがそう言ってラギトの目をじっと見つめると、ラギトは口をへの字にして……やがて、あづさをぎゅうぎゅうと抱きしめた。
「俺は!お前のこと!……その、なんだ!その……妹!みたいに!思ってンだからな!だからよォ!いつでも帰って来いよ!」
「はいはい。私もあなたのこと、弟みたいに思ってるわよ」
ぐりぐりと頬ずりしてくるラギトにハーピィ式の挨拶を返してやりつつあづさがそう言えば、ラギトは数秒後に「ん?弟?」と考え始めたが、あづさは苦笑しつつラギトから離れる。
「……ってことで、頼んだわよ。風の四天王領の行く末はあなた達にかかってる気がするわ」
『荷が重い にゃー! やー にゃー!』
「私達も自由に研究を続けるだけですから、流石に四天王代理の世話は遠慮したいですね……」
「そういえばあなた達も風の四天王団の中では常識的ってだけで、十分自由人なんだったわ……」
相変わらずふわふわしているネフワとシルビアに手を差し出すと、2人はあづさの手をそれぞれに握る。ネフワの場合、手が無いのであづさの手がふわふわしたものに包まれる、という奇妙な状態になっていたが。
「まあ、元気でやってくれる気がするから、心配はしないんだけどね」
「ええ。どうぞご心配なく。私達はどこから何を言われても、どこ吹く風で自由にいますから。あづさ様も、どうぞ自由に居てくださいね」
『あづさちゃん 異世界の情報 ありがと にゃー! もっと楽しいの いっぱい つくる にゃー!』
「ふふ、頑張ってね」
「俺もがんばるぞ!がんばるからな!あづさもがんばれよ!」
「はいはい。あなたも体に気を付……いや、あなたは風邪ひかなさそうだけど。まあ、元気でね」
ネフワとシルビアが握ったあづさの手をその上から翼で包んでぶんぶん振ったラギトは、一緒にネフワまで振り回していたが、やがて手を止めると、ふと、真剣な顔であづさを見つめ……黙ってもう一度強くあづさを抱きしめて、飛んで行ってしまった。
あづさはラギトの後姿を見送って、また、手を離した。
それからあづさは一通り、挨拶を終えた。
傭兵達に囲まれては揉みくちゃにされ、コットンボール達に囲まれてはふわふわくすぐられ、スライムに張り付かれながらスケルトン達やゾンビ達とも握手し。ヘルルート達とまで、握手をさせられ。
……そうして一通り、全員と握手して、手を離した。
もう二度と握ることのない手だ。離すのはやはり苦しかったが、それでもあづさは、元の世界に帰らなくてはならない。
最後にあづさは、魔王と四天王達の待つ部屋に入った。
「挨拶は済んだのか?」
ギルヴァスがあづさを出迎えると、そう言って少々気まずげに笑う。
「ええ。皆に挨拶、してきた。……なんか、色々思い出したわ」
「そうだな。この1年弱、色々なことがあった」
「ほんとにね。今までの人生で一二を争う濃さの一年だったかも」
あづさはそう言って微笑むと、他の四天王と魔王へ向き直って、一礼した。
「お世話になりました。……って言っても、最後にもう一回、お世話になるけどね」
「構わないわよ。だって私達、みんなあづさにお世話になったんだもの!たっぷりお世話してあげるわ!」
きゃらきゃらと笑いながら、ファラーシアがそう言ってあづさを抱きしめる。
ファラーシアはもう、幼虫の頃の姿ではない。この3月で蝶の姿になったファラーシアは以前とは違い、真珠のような純白に翡翠色の線が入った美しい羽を広げて、抱き着いたあづさに頬擦りする。
……最近のファラーシアは誰彼構わず抱き着いて頬擦りすることで有名である。ハーピィ達に育てられた影響が見事に出た結果となった。しかし、高飛車で高慢で自らの美に異常なまでに執着していた以前のファラーシアよりは、皆に愛され皆を愛し、皆の中で皆と共に歩もうとする……少々スキンシップ過多なファラーシアの方が良いと専らの評判であるので、まあこれでいいわよね、とあづさは納得することにした。
「これ、ファラーシア。そろそろあづさを離してやれ」
延々とあづさに抱き着いたままのファラーシアを小突いて、オデッティアが割り入ってくる。するとファラーシアはそれにまた、きゃらきゃらと笑うのである。
「あら、オデッティア。嫉妬?」
「勿論。……最後かもしれんのだ。妾にもあづさと言葉を交わす権利があろう?」
ファラーシアがあづさを放して場所を空けると、今度はオデッティアがあづさを抱きしめた。
「……あなた、こういうことするタイプだったっけ?」
「何。妾とて偶にはこういうことをしてみたくもなるのだ」
ファラーシアのような遠慮のなさは無く、ただ、ふわりと抱きしめて離れるだけであったが、以前のオデッティアを思えば随分と柔らかい対応である。
「……まあ、あづさよ。何も案ずるな。お前を異世界へ返す為の魔法には妾も一枚噛むのでな」
「ありがとう。心強いわ」
オデッティアは優雅に微笑むと、また場所を空ける。
そこへ入ってきたのは、ラガルである。
「……これを」
ラガルがあづさに手渡したのは、炎の色をした宝石でできた、花の髪飾りだった。
華奢で可憐な印象は、あづさのもの、というよりは……。
「真弓に、供えてほしい」
「ああ、やっぱりそういうことね。私にプレゼントなんて変だと思った」
あづさは呆れてため息を吐きつつ……しかし、渡された髪飾りを手に、迷う。
「ねえ。悪いんだけど……」
「いや、いい。真弓に供えられずとも、真弓の世界へこれが届けば、それでいい。それなら迷惑にはならんだろう?」
ラガルへ髪飾りを返そうとしたあづさは、そう言われて押し留められる。
あづさは少々それを不審に思ったものの……結局は受け取った髪飾りを、ポケットにしまうことにした。
「分かった。真弓に供えられるかは約束できないけど、とりあえず一緒に持って帰ってあげるわ」
「……ありがとう」
ラガルはそう言って、また場所を空ける。
「さて。もうよいな?早速だが、異世界へお前を返す為の魔法を起動するぞ」
そこへやってきた魔王は、そう言って笑みを浮かべる。
「ええ。いいわ」
あづさが頷けば、魔王は何かを呟く。途端、床に光が走り、模様を描き出していった。
熱のような風のような、それでいて冷たいような、震動のような、そんな感覚があづさに届き、あづさのセーラー服の裾や髪を揺らす。
あづさは振り返った。
そこに立っているギルヴァスは、あづさが予想していたよりもずっと落ち着いていた。
齢300にもなる竜ともなれば、別れ際もこんなものなのだろうか。
……もう少し悲しんで取り乱してくれるかと思ったけれど。
あづさはそう思い、そう思う自分に気付いて苦笑する。
多分、あづさはギルヴァスに、そうしてほしかったのだ。
取り乱してほしかった。ギルヴァスの中で自分という存在が大きかったことを確かめたかった。
自分と同じだと、確かめたかった。
「……じゃあ、元気でね」
だが、もう二度と会うことの無い相手にそんな確認は不要だろう。あづさにとってではなく、ギルヴァスにとって。
ならばあづさがすべきことは1つ。笑って別れることである。
「もう少し寂しそうな顔をしてほしかったんだがなあ」
その瞬間、時が止まったように感じられた。
ひょい、と軽々引き寄せられて、少々力が入りすぎなくらいに強く抱きしめられる。
抱き寄せられた胸から感じられる鼓動は、妙に速い。
ギルヴァスの顔は見えなかったが、何か口を開きかけてやめたような気配があった。何を言うつもりだったの、と、問いただしてやりたい気持ちもあったが、それ以上に、自分を強く強く、それこそ絞め殺さんばかりにきつく抱きしめる腕が心地よくて、あづさは特に何も言わないことにした。
ただ、その代わりに少々身じろぎして、腕を緩めさせる。そして少々の自由を手に入れたあづさは少々の背伸びをして、口づける。
どうせこれで最後だ。これが祝福になるのならば、あづさの持ち得る限りを全て分け与えておきたかった。少々思いが強すぎて、守護を通り越して呪いになるような気もしたが、それはそれでいいとさえ思う。
「じゃあ、さよなら」
ギルヴァスから離れ、再び時が流れ出すと同時、ようやくあづさを取り巻く魔法が動き出す。
元の世界へ帰るのだと、あづさは直感した。
光の奔流に飲みこまれる最中、揺れる前髪の向こう側、琥珀色の瞳が見えた。
……最期に見たものが、世界一美しい琥珀色でよかった。
あづさはそう思って、目を閉じた。