145話
「そういう、こと、だったのか」
ギルヴァスは小さく呟く。
……あづさの身の上を聞いていて、どうにも、奇妙に感じられたのだ。
決して暖かくないらしい家庭。特に楽しくもないらしい学校。そんな環境の中……どうして、そこまで元の世界に帰りたいのか、と。
だがようやく納得がいった。あづさは彼女自身のために元の世界に帰りたがっているわけではなかったのだ。
ただ、親友の無念を晴らすため……他者のために、元の世界に帰ろうとしている。
……ならば、どうすれば、あづさを引き留められるだろうか。あづさに『真弓』と自分とを天秤にかけさせたとして、果たして自分に勝ち目はあるのだろうか。
ギルヴァスはそう考え、そう考えてしまった自分を嫌悪する。
一瞬でも浅ましいことを考えた。あづさの意思より自分の欲望を優先させようとした。あづさの憎しみより自分の絶望で頭がいっぱいになった。その事実が、ギルヴァスを自己嫌悪の泥沼に沈めていく。
自己嫌悪は連鎖して、次から次へと襲い掛かる。ギルヴァスはあづさの肩に伸ばしかけた手を引き戻して、ただ、項垂れる。
ラガルはあづさの瞳を見て、初めて、彼女を心から信頼しようと思った。
利用するのではなく、委ねよう、と。
何故ならあづさは、ラガルが感じたのと同等の苦しみを、憎しみを、抱いているのだから。
……今、ラガルにとってあづさは同志である。このどうしようもない絶望と怒りに任せて、目標を同じくすることのできる。
しかし……その目標も空しいだけだと、気づいた途端にラガルは再び、暗い絶望の淵に転落していく。
100年前、確かに恋して、あわよくば自分のものに、と思った少女が……否、それが叶わずとも、ただ幸せであってくれと願った少女が、無残にも殺された事実。
いくら復讐しようとも、もう彼女は帰ってこない。
もう会えない。
『真弓』は死んだ。
ラガルは最早、先のことなど考える気力もなく、ただ今は、絶望の底に落ち続けていくばかりである。
オデッティアはその場に集う者達を冷静に睥睨していた。
『真弓』について思うところはあれど、そこに感情は伴わない。オデッティアにとって『真弓』とは、ただ凡庸であった100年前の勇者、というだけの存在にすぎない。
……だが、それを少々寂しく思う気持ちは、オデッティアにも、あった。
自分が認めた存在であるあづさがこうも苦しみ、自分と同等の力を有するラガルがこのように絶望し、そして、関係ないはずのラギトとギルヴァスも、それに共鳴している。
オデッティアだけが、取り残された気分だった。
どうにも、他人のために感情的になるということが、苦手なのだ。力になれることは無いか、と考え、その結果『無い』と即座にはじき出せてしまう自分の理性と能力が、少々厭わしく、寂しい。
この停滞してしまった空気をどう動かしていいものやら、オデッティアには分からない。
それが猶更オデッティアを冷たく寂しく、苛立たせた。
すっかり沈んだ室内の空気に、ラギトはどうしたものかと首を捻る。
こういった空気は、得意ではない。ラギトとしては、全員が明るく笑っているのが望ましい。
辛いことがあるのは仕方がない。それを悲しむことも、仕方ない。必要なことなら、そうすればいい。そこで駄々を捏ねる程、流石に幼稚ではない。
……だが、少しだけでも、彼らの気を紛らわすことができないか、と、ラギトは懸命に考える。
問題を解決することは、ラギトにはできないだろう。だからせめて、この深い悲しみと怒りに満ちた空間に、新たな風を、と思った。
自分にできることを考え、この空気を変えるならばどう変えればよいか考え……そしてラギトは、なんとか、提案する。
「な、なあ。俺、ちょっとよォ、腹減ってきたんだよなァ。そろそろファラーシアも眠くなってきたみてェだしよォ……その……」
ラギトの提案は、要は、『時間を置こう』というものだ。
明日は明日の風が吹く。今の淀んだ空気も、時間を置けば、もしかしたら。
「……そう、だな。夜も遅い。今日は泊まっていってくれ」
するとギルヴァスがそう、ため息と共に言う。
それに従って、オデッティアが部屋を出ていき、ラガルもそれに続いて、部屋を出ていった。
それを見送って、ラギトは……部屋に残ったあづさとギルヴァスに、目を向ける。
「ラギト、ありがとうね。気、遣ってくれて」
あづさはラギトに気づいて、笑ってみせた。その笑みは酷くぎこちなく、無理をしているのがよく分かる。
違ェんだよ、そんな顔、無理矢理させてェ訳じゃねェんだよ、と、ラギトは思う。思うが、何も言えない。
何も言えないラギトは、動いた。
抱きかかえていたファラーシアを椅子の上に置くと、あづさを翼の中に抱き込む。
そしてそのまま、わしわしとあづさを撫でられるだけ撫でた。
「……ぷは。ありがと、ラギト」
ラギトの羽毛の中から顔を出したあづさは、やんわりとラギトの羽を押し退けた。
「大丈夫よ。ほんとに。だってもう終わったことだし、やらなきゃいけないことも分かってるし……」
そして、あづさはラギトが見たことのない顔をする。
「……でも今晩は、ちょっとだけ、沈みたい気分、かな」
ラギトはあづさを見送って、それから、ギルヴァスに、ぽん、と頭を撫でられた。
すまんなあ、と言って、ギルヴァスは笑う。
「お前も今日は泊まっていけ。いくら飛べてももう夜だ。ファラーシアにもよくないだろうから」
「……おう」
ラギトは再びファラーシアを器用にも翼で抱えると、とぼとぼと部屋を出るのだった。
翌日。
一応、人間達のために四天王が顔合わせをする予定だったのだが、その前に打ち合わせも兼ねて一度、集まる。
昨日の今日であるので、全員どことなく沈んだ顔をしている。一晩眠って気分が多少マシにはなっているのだろうが、それでも、どうしようもないものはどうしようもない。
「そ、そういえばよォ、あづさ!」
本格的に話し合いが始まる前に、と、ラギトはあづさに声をかける。ばたばたと翼を振りつつ、努めて明るい声を出す。
「ネフワが!お前に会いたいっつってたぜ!昨日言い忘れてたけどよォ……なんか、わーいひゃーいって奴、再現?できたんじゃねえかって言ってた!」
「……何よ、それ。わーいひゃーい、って。随分間抜けな名前ねえ」
あづさはラギトの意図に気づいているのだろう。あづさはラギトよりずっと賢い。ラギトが考えていることなんてお見通しに違いない、ということは、ラギトにも分かっている。
だからあづさは、笑みを作っていた。だがラギトにはそれが余計に、痛ましい。
無理をしてほしいわけじゃない。だが、自分にはその能力がない。
ラギトは只々歯がゆく悔しく思いながら、翼をはためかせて言葉を続ける。
「おう!なんでもよォ、昨日の変な板っきれに使う奴だってよ!『全部は無理だけど一部だけなら色々できるかもしれない』っつってたぞ!なんでもよォ、その板っきれの記憶を辿って、その板っきれの中に無いものを見られるんだって?すげェよなァ、異世界の道具ってよォ!」
ラギトは胸を張って、そう言う。努めて元気に。あづさが少しでも、本心から笑ってくれればいい、と思いながら。
……すると、ラギトの期待とは少々異なったが……あづさは表情を取り戻した。それは、何かを訝しみ、考え込む顔である。
「……わーいひゃーい」
あづさは呟いて、考える。
考える間、またあづさは黙ってしまったが、ラギトとしては、あづさが悲しくないことを考えていてくれるならそれでいい。少しでも元気になってくれればそれで。
……そして、ラギト他、全員があづさを見守る中。
「……もしかしてWi-fi!?」
あづさは驚愕の表情と共にそう、叫んだのであった。
「なんだ、その、わーいひゃーいというものは」
「Wi-fi、ね!そんな間の抜けた名前じゃないわよ!要は、世界中どこへでも繋げられるかもしれない無線通信だと思ってくれればいいわ!」
ギルヴァスに向き直ったあづさは、その瞳に半日ぶりの光を宿して、言った。
「それを使えば、私の元の世界に干渉できるかもしれない!」




