14話
ギルヴァスとあづさが門から入って少し歩けば、案内役らしいガーゴイルが2人を冷たく迎え入れ、一言も発しないままに歩き出す。
2人はそのまま、ガーゴイルの後に続いて城内を歩いた。
黒大理石でできた豪奢ながら重苦しい城の中、あづさは自分達をちらちらと見てくる魔物達の存在に気づいた。
先程の門番と同じく、兵士としてこの城に居るらしい、リザードマン。伝令や案内役であるらしいガーゴイル。灰色の翼を背に持ち、砕けた輪を頭上に戴いた美しい女。大鎌を手にして、長いローブとフードとで顔も体も包み隠した何者か。
……そういった魔物達が、ギルヴァスを見ては何事かを囁き合っている。
居心地が悪い。
そう思いつつ、あづさはギルヴァスを見上げた。
斜め前を歩くギルヴァスは視線や囁きに気づいていないはずは無いだろうに、何も感じていないかのように無表情のまま、ガーゴイルの後について歩いていた。
……ぞっとするほどに表情のない横顔を見て、あづさは何か、不安か焦燥にも似た何かを感じたが……ふと、視線を落とした時、ギルヴァスの手が、目に入った。
必要以上に固く握られた手。
その手を見れば、ギルヴァスが今、努めて表情を無くしているのだろう、ということは、分かった。
……その事実が、あづさを少しばかり、安心させた。
よし、と小さく呟いたあづさは薄く笑みを浮かべると、姿勢を美しく保って、歩く。
こちらを見て何事か囁く魔物と目が合えば、にっこり笑いかけてやる。
そうして堂々としていてやるのが、いっそ楽しくすら思えた。
……事情はよく、分からない。この後、魔王と会って、何か分かる事情もあるのかもしれないし、ギルヴァスが口を開かない限り分からないこともあるかもしれない。
だが、今この瞬間。間違いなく良い感情を向けられていないギルヴァスに対して、あづさが思うことは、1つなのだ。
『この人を四天王最弱じゃなくしたら、今私達を見ている奴らはどんな顔するのかしら』と。
やがて2人は、重厚な扉の前に通された。
案内役のガーゴイルは無言で扉を示して去っていく。
「……この先に魔王様が?」
「ああ。謁見用の部屋だ」
ギルヴァスは扉の取っ手に手を掛けて、ちら、とあづさを見た。
「ここまでの道は、分かるか?」
「え?」
「帰り道は覚えているか?」
一瞬、一体何のことを言われているのか分からなかったが……あづさはすぐ、ギルヴァスの意図を察する。
「いいえ。生憎だけど、方向音痴なのよ。私」
「……そうか」
少々困ったような顔をしたギルヴァスに構わず、あづさは扉をノックする。
そういえば、こうした時のノックは3回、と聞いたことがある。2回は、トイレに人が入っているかの確認のノックだ、と。
……異世界でもそれが適用されるのかは分からなかったが、とりあえずあづさは3回、扉を叩いた。
そしてあづさは、ギルヴァスの手に手を重ねて、ドアノブを回す。
扉の先には、何も無かった。
部屋すら、無かった。
ただ、何も無い真っ黒の空間があるだけ。
だがギルヴァスはそれに臆することなく、扉の先へと足を踏み入れていく。
あづさもそれに倣って、1歩、踏み込んだ。
……不思議な事に、何も無いようにしか見えないのに、あづさの足はその場に留まった。
ただ、床を踏んでいるようなしっかりとした感覚は無い。ともすれば足元を支える見えない何かが霧散して、奈落の底へと真っ逆さまに落ちていくのではないか、とも、或いは急に体が浮いて、二度と地上へ戻ってこられないのではないか、とも思える。
……そして一瞬、ギルヴァスと闇が見つめ合った。
途端。
闇から伸びた腕のようなものがギルヴァスの首を掴んで、そのまま絞め上げた。
「ぐっ……」
首を絞められたギルヴァスは呻くが、手が緩む気配はない。
「何をしに来た」
代わりに、声が響く。
奈落の底から響いてくるような声には、確かな怒気が滲んでいた。
「よく余の前に顔を出せたな」
ギルヴァスの首を絞める手に、更に力が籠る。悲鳴も上げられず、抵抗するでもなく、ただギルヴァスは成されるがままになった。
……そのまま何秒か、経過した。すると突然、手が緩む。
ギルヴァスは解放された喉をヒュ、と鳴らして空気を吸い込み、そして激しく咳き込む。その間も闇の向こうから注がれる視線は変わらず、ギルヴァスに向けられていた。
「用件を言え」
更に、闇の向こうから再び声が響くと、ギルヴァスは呼吸も整いきらないままに、喋り始める。
「異……世界、の、門、を……開いて、もらいに来た」
「あづさ、石を……」
ギルヴァスに促されて、あづさは一歩、前に出た。その手には、宝石を包んだ薄布の包みがある。
「……お近づきになれて光栄です、魔王様。お納めください」
あづさは一礼して、両手に捧げ持った包みをそっと差し出した。……すると、触れられてもいないのに、包みが自然と解けて、中の宝石が現れる。
そして宝石は宙に浮いて、すっ、と奥の闇へと吸い込まれていった。
「この石はどこで採った」
「鉱山です。地の四天王領の北部の」
あづさが淀み無く応対すると、闇の向こうの気配はじっと、あづさを注視するかのように蠢く。
「そうか。あの鉱山から、これほどの石が出たか。ならば、娘。貴様は確かに異世界人のようだな」
闇の向こうの気配は、やがてギルヴァスの方へと意識を向ける。
「この娘を元の世界へ帰せということか」
「……ああ。そういうことだ」
ギルヴァスが答えると、闇は少しばかり、気配を鋭くする。
「何のために?」
「彼女がそう望んでいる」
闇が嗤った。
その嗤いは部屋の中の無を揺るがして、あづさを足元から揺さぶっていく。
「それは殊勝な心がけだな、ギルヴァス・エルゼン。だが」
ふと、嗤いが止んだかと思うと、闇から伸びた腕がギルヴァスの前に突きつけられる。
……闇でできた刃となって。
「それは貴様の命を賭してまで申し出るべきことだったのか?」
あづさは、やっと理解した。
ギルヴァスは言った。『君を引き合わせたら殺されかねない』とも、『石を手土産にすれば君は殺されないだろう』とも。
……そこにあった本心は、こうだ。
『ギルヴァスは、殺されかねない』。
「言ったはずだな?勇者に負けた貴様をまだ四天王の席に就かせてやっているのは、先代の温情故だ、と」
「ああ」
「貴様の失態のせいで先代が敗れ、そして余は襲名直後、人間との不可侵条約を締結せざるを得なかったのだ。忘れたとは言わせんぞ!」
闇が凝り固まってできた刃が、ギルヴァスの胸にその先端を沈めていく。
何の抵抗も無く食い込んだ刃は、こじあけたギルヴァスの傷口から血液を流させつつ、尚も深く、深く、徐々に傷口へ沈んでいく。
「……その上、此度は異世界の門を開け、だと?笑わせる!貴様は一体、どこまで余らを馬鹿にすれば気が済むのだ!」
ギルヴァスは抵抗もせず、ただ、じわじわと自分の心臓へ近づいていく刃の切っ先を感じながら、そこに立ち尽くしていた。
愚かしいまでに微動だにせず、ただ、成されるがままに。
「……だが、先代は死んだ。死んだのだ。今更……一度ならず二度目の貴様への温情など、最早必要あるまいな?」
闇の刃が伸び、ギルヴァスの心臓を突き破らんと進む。
「あづさは」
だがそんな中でも、ギルヴァスは言った。
「彼女は、元の世界に返してやってほしい。彼女はこの世界に、関係無いんだ」
その瞬間、刃が鋭く閃いた。
その刃は鈍く鉄色に輝き……闇の腕を、切りつけたのである。
闇の腕はギルヴァスの胸に刺さった闇の刃ごと引っ込められ、部屋全体、闇全体が、ざわり、と蠢いた。
それを見て……カッターナイフを握ったあづさは、ニヤリ、と笑った。
「ふーん。そう。魔王様でも、カッター如きで傷つくのね」
「……娘。貴様、一体、何を考えている」
「あら。そんなの決まってるでしょ。邪魔しないでって言いたかっただけよ。まさか本当に、魔王様がこんなチャチな文房具程度で傷つく訳はないと思ったし。ね?こんな、ただの女子高生にただの文房具で切りつけられた程度で、怒るような器じゃないでしょう?」
闇が怒りに蠢いた。だが、あづさはギルヴァスの前に立つようにして、闇と対峙する。
「理由だけは、聞いてやってもいい」
「流石魔王様。懐が深くていらっしゃるわ。……それじゃあ、言わせてもらいましょうか」
あづさはカッターナイフの刃の切っ先でギルヴァスを指し示す。
「こいつ、関係無いでしょ?」
「……何?」
「改めて申し上げますわ、魔王様。私の名前は降矢あづさ。あなた達にとっての異世界人。当然、この世界とは何の関係も無い存在よ」
先が見えない、とばかりに、闇の向こうの気配が苛立つ。それをゆっくりと眺めつつ、あづさは改めて、言うのだ。
「それで、そんな、この世界の何とも関係の無い、この私が。この私自身が、お願いするわ。……私を、元の世界に返してほしいの」
「それは先程、その魔王軍の恥晒しから聞かされたばかりだが?」
「ああ、それはギルヴァスが勝手に言っただけよ。ギルヴァスのお願いなんて、聞かなくていいわ。ただその代わり、私のお願い、聞いて頂戴?」
あづさの背後でギルヴァスが、よせ、と小さく呟いたのが聞こえたが、あづさはそれを無視して闇と対峙する。
……すると、また、闇が嗤う。
「ほう。大した度胸だ、小娘。……だが!」
そしてあづさの眼前に、先程ギルヴァスに向けられたものと同様、闇の刃が突きつけられた。
「まさか、先の無礼も含めてその願いが、たかが宝石数点で叶えられるとでも思ったか?」
眼球のごく近くまで近づいた刃の切っ先を、しかし、あづさはゆっくりと瞬きして見つめ……笑う。
「勿論、タダでとは言わないわ。さっきの宝石は、お近づきの印。異世界の門とやらを開くための代価は、きっちり別でお支払いするつもり」
「ほう。面白い。して、一体何を支払うつもりだ?」
闇の向こうから、僅かな興味を感じて、あづさはにっこりと微笑む。
「具体的には、地の四天王領を立て直すわ。ただ雑魚の住処にしておくには勿体ないじゃない?荒れ地だって広いし、限られた魔王軍の領土は有効に使わないといけないわ。あそこ、もうちょっとマシにできたらいいってお思いにならない?」
少しばかり、闇の刃が引いた。
だがあづさはその刃を……恐らく、魔王の手であろうそれを、そっと、両手で包み込んだ。
「私には、それができるわ。知識はそれなりにあるつもり。やる気は十分よ。度胸は今、示せてるつもりだけれど、いかがかしら?」
……あづさの掌は、切れなかった。
「……あの地は、あと1年間は余から手出しが出来ん。忌々しい制約があるのでな」
あづさの手の中から、闇でできた手が、す、と引き抜かれ、そのまま部屋の奥へと引っ込んでいく。
「それまでに成果を出せ。成果が出たならば、考えてやってもいい」
「ありがとうございます、魔王様!私、魔王軍の為に誠心誠意、地の四天王領を立て直します!」
あづさは満面の笑みを浮かべて闇に向き合い、そして、優雅に一礼し……顔を上げて、小首を傾げつつ、言った。
「……つきましては私、地の四天王領立て直しのための人材が欲しいのだけれど」
「……何?」
「ギルヴァス・エルゼンを貰って帰ってもいいかしら!」




