132話
その日、ダニエラは窓辺を覗いて少々不可解に思った。
いつもならばフォグからの連絡が鳥に乗せられて運ばれてくる時間なのだが、今日は窓辺に鳥の姿が見えない。
「一体何のために魔法を授けてやったと思っているのやら」
ダニエラはそう呟くと、ため息を吐いて部屋の中へ戻る。
鳥を使う魔法は、連絡手段としては最も簡単な部類の魔法だろう。だがその分、失敗することもある。鳥が正気に戻ってしまえばそれまでであるし、鳥が何か、獣や魔物に襲われてしまえばそこで連絡は途絶えてしまう。
大方後者だろう、とダニエラは納得した。フォグから送られてきた昨夜の手紙には、魔物の国に到着した、とあった。となれば、鳥を放っても捕食されることはままあるだろう。
ダニエラは鏡台の前に座ると、鏡の中の自分の顔を見つめた。優雅な微笑を湛える自分の顔は、長いこと見続けてすっかり見慣れたものである。
……そう。長い年月、ずっと見続けている顔だ。
ダニエラは自分の美容のために、いくつかの薬草を使った化粧水を使い、軟膏を塗った。これがダニエラの毎晩の日課である。
それから、今晩に限っては鏡台の横に設置された水晶玉に手を翳す。すると、深い湖のような碧の光が水晶の中に灯り、そこから声が聞こえてくる。
「……そうか。ご苦労だった。これでまた1つ、国に蔓延する不正を正すことができたというわけだな」
「はっ。奴ら上流貴族の懐にも切り込むそのお覚悟、誠に立派なもので御座いました」
「躊躇っていては、国を変えることなどできんからな」
……水晶の向こうでは、アーリエス4世と大臣の話し声が聞こえる。彼らが話すであろう場所に魔法の花瓶を仕込んでおいたのだ。どうやら狙いは当たったらしい。
今、アーリエス4世と大臣が話しているのは、ダニエラが実行を勧めた案件だ。
適当な罪を盾にして貴族を糾弾し、財産を押収して国の予算に宛てろ、というだけのものである。
勿論、罪など大したものではない。貴族ならば誰もが行っていて、そして長らく黙認されてきたようなものだ。今更糾弾する理由も無いような。
だが、ダニエラにはそうする理由があるのだ。
「……しかし、一部から不満が出ていることも確かです。不正に市場を操作し、税を納めていなかったとはいえ、その、財産を押収するのは行き過ぎだ、と」
「問題ない。長らく国が放置してきた上流階級の膿を出す政策。民衆からの覚えは良いだろう」
「しかし……せめて、どういった理由であの家を摘発の対象に選んだのか、貴族にだけでも公表すべきなのでは?」
「よい。余が決めたことだ。文句は言わせぬ。押収したものは一通り確認した上で財政の担当に値を付けさせる。続きはまた明日にするぞ」
「は、はい……」
大臣を押し切る形で、アーリエス4世は話を終えた。
それを聞き届けたダニエラは、優雅な微笑を浮かべる。
……そしてダニエラはしどけない夜着の上にショールを羽織っただけの恰好で、私室を出た。
王家の者しか入り込まない一角を抜けて階下へ降り、そのまま更に行けば、そこに今回貴族から押収した品が置いてある部屋がある。
見張りをしていた兵士はダニエラが「ご苦労様です」と微笑めば、ダニエラが部屋に入ることに何の違和感も持たなかったらしい。さっと扉の前から退いた。
ダニエラは押収されたものをざっと見まわして、中から目的のものを見つけ出す。
……それは、本。魔法について書かれた、古い魔導書だった。
ダニエラはうっとりとした微笑を浮かべると、それら数冊の魔導書を手に、部屋を出る。
流石に物品を持ち出そうとすれば兵士も訝しんだが、ダニエラはじっと兵士の目を見つめて微笑む。……するとすぐに魔法が効いて、兵士は惚けたような表情で、何も言わずにダニエラを通した。
少しして兵士が正気に戻った時には、ダニエラと会った記憶も忘れているだろう。ダニエラは1人くすくすと笑いながら、また寝室へと戻る。
「ダニエラ」
寝室へ戻ったダニエラを呼ぶ者が居る。ダニエラのことを臆面もなく呼べるのは、世界にたった1人だけだ。
「はい。ここに」
ダニエラは寝台の上の先王に近づくと、微笑んでその手に手を重ねた。
「こんな夜分にどうした」
「少し気分が昂っておりまして。少々、散歩を」
ダニエラがそう答えれば、先王は少々心配そうな顔をした。
「政について、悩んでいたのか」
ダニエラは特に答えず、困ったような笑みを返すだけにする。すると先王は労しげな顔で、ダニエラの手を両手で握って諭すように言う。
「そのようなことにお前が気を揉む必要はないのだ。お前が来てくれてから、色々なことが上手くいっている。だが、本来ならばお前に任せるべきではないことまで任せてしまっている。あまり無理はしないでくれ」
ただ純粋にダニエラを心配するだけの言葉は、良く言えば純朴で、悪く言えば愚鈍である。
だがダニエラはそんな考えなど微塵たりとも見せず、ただ微笑んで、はい、とだけ返す。
それに先王は頷いて、ダニエラに寝台を示した。
ダニエラは少々恥じらうような表情を浮かべながらも寝台の中、先王の隣に潜り込み、そこで先王と見つめ合い、手を握り合う。
……しばらく、そうしていただろうか。先王はもう眠りに就いてしまっていた。
元々高齢で、体力など無い。魔法への抵抗力もない先王は、誘惑の魔法でも眠りの魔法でも、ダニエラが思うがままに魔法に掛けられた。
ダニエラはよく眠っている先王を見つめて微笑むと、そっと寝台を抜け出す。
そして、書き物机に向かい、先ほど持ち帰ってきたばかりの魔導書を手に取って中を読み始めるのだった。
「結局皆、ついてきちゃったわね……」
あづさはギルヴァスの背の上で、何とも言えない顔をする。
ひとまず、傭兵達の意見も募った。だが、誰もあづさ達との同行を拒否しなかったのである。
そこで改めて、ダニエラを狙う旨を伝えたところ、やはり同様に賛同が得られてしまった。
「これ、いいのかしら……。ねえ、クレイヴ。これ、どう思う?彼ら、普通の人間なんだし、巻き込むの、やっぱりよくなかった気がしてきたんだけれど」
「危険でも金のためなら仕事を請け負う傭兵に真っ当な感覚を期待するな」
クレイヴの切って捨てるような回答に、それもそうね、とあづさはため息を吐く。
……予想以上に、傭兵達は命知らずであった。ミラリアの誘惑が効きすぎてしまったか、とも不安になるが、それでも彼ら自身が同行を希望するのだから仕方ない。
「ドラゴンってすげえなあ!速い速い」
「こんな体験、普通はできないからね!やっぱりあんた達に雇われてよかったよ!」
「おお、川や山があんなに小さく見える!」
「見て!朝日が昇るよ!綺麗だなあ」
傭兵達は、ギルヴァスの背の上で大喜びであった。怖がる様子を見せる者が誰も居ないところを見ると、やはり、彼らは相当な命知らずであるらしい。
「よ、よく皆、喜べますね……」
「ありがとう、シャナンさん。あなたを見ていると真っ当な人間の感覚が思い出せるわ」
一方、シャナンは少々青ざめつつ、ギルヴァスの背の真ん中あたりに陣取っている。彼は流石に、この高所とこの速度に少々の恐怖心を抱いているらしかった。要は、真っ当な人間の感覚を持っている、ということである。
「俺達だって速ェんだぞ!ハーピィはなァ!速ェんだぞ!」
「そうかいそうかい。ラギトが飛ぶところも後で見せてくれよ」
「あんたの羽、ふっかふかだな!触ってもいいか!?」
「おう!触らせてやってもいいぜ!俺は心が広いからな!」
……傭兵達が『魔物』に馴染んだ理由の1つに、ラギトやミラリアとの触れ合いがあったかもしれない。
ミラリアは言わずもがなだが、ラギトもまた、持ち前の明るさと率直さで傭兵達に好かれていた。傭兵達はラギトが如何にも人間からかけ離れた姿になっても、変わらずに接し、そして人間に化けていた時と何ら変わらない反応を返されては信頼を深めているらしかった。
「……まあ、なるようになるわよね」
「ええ、あづさ様。なるようになります。ね?」
あづさはミラリアと顔を見合わせて笑い、そのまま人間の国を目指す。
気づけば空は明るくなり、金色の陽光が強く、あづさ達を照らすようになっていた。
……ギルヴァスは途中で結界を抜けたが、誰も、結界に阻まれる者は無かった。
やがて、あづさ達は人間の国、王都を眼下に見下ろせる上空へと至る。
「……じゃあ、行きますか!突撃!」
あづさがそう言えば、ギルヴァスは緩やかに、王都の近くへ向けて下降していくのだった。




