130話
「食事、まだ残ってるか」
ルカが食堂に辿り着いた時、そこではミラリアが片付けを手伝ってそこに居た。
「お疲れ様。もう、そちらは大丈夫なの?」
「ああ。部下に任せてきた。捕虜は大人しくなっていると、地の参謀殿から指示も出ている。だから、隊長は休め、と。……よくできた部下に恵まれた」
「そう。なら彼らにも後で差し入れをしなくては」
ミラリアは笑って、ひとまずルカの分の食事を用意することにしたらしい。食堂の裏、厨房の方へと向かって行った。
ルカもそれについて歩いていきながら、ふと、つい先ほどまでここに居たであろう30人余りの人間達について、考える。
……人間が魔物の国に居る、ということ自体、珍しい。
だが、忌避感は無い。
人間が魔物を嫌うようには、魔物は人間を嫌ってはいない。
過去の因縁が無いわけではないが、魔物の感覚からすれば、個人個人にまで引きずるような感覚でもない。
……ましてや、ルカはもう、あづさという人間を知ってしまっているので。
「捕虜の様子は大人しくなった、ということだったけれど、あづさ様は大丈夫だったのかしら」
「大した人だな、彼女は。捕虜の心の内側にまで踏み込んでいるらしい。上機嫌だった」
「ふふ、あづさ様だもの。当然ね。私達だって、身に覚えがあるでしょう?」
「確かにな」
ルカは苦笑しつつ、ミラリアがよそったシチューを早速、食べ始める。手の込んだものではないが、じっくり煮込まれた野菜類の甘みがじわりと広がる、優しい味だった。水の四天王領には無い、大地の暖かさを感じることができる。ルカはこういった味が好きだった。
「……まあ、お前も似たようなことをやっていたようだが」
「ああ……シャナン・イーダのこと?」
「彼に限らず人間達全員だが、特に彼はお前を気に入っているように見えるな」
「そうね。人間を誘惑するのはローレライの特技だから」
ミラリアはそう答えつつ、焼き直したパンや温め直した肉の煮込みなどをルカの前に並べていく。それから、海竜隊の兵士達のための食事の準備もし始めつつ……ふと、蠱惑的な笑みを浮かべて、ルカを振り返る。
「妬いた?」
その笑みを真っ向から見せられて、ルカは何とも言えない顔をした。
「……ミラリア。さては、あづさ様に似てきたな」
「ふふ、だって私、あづさ様の姉だったんだもの。姉妹が似るのは当然でしょう?」
「楽しそうで何よりだ」
ルカはため息交じりにそう答えると、それからふと、真剣な顔をした。
「……誘惑した後のことは、考えているか」
「え?」
また振り返ったミラリアは、ルカの真剣な、心配そうな顔を見て、一瞬戸惑い……それから、くすり、と笑う。
「特には、何も。なるようになればいいと思っているけれど」
「そうか」
ルカは、ミラリアの実にローレライらしい回答に何か言いたげな顔をしてから口を噤み……そして、迷うように口を開いた。
「……その、ああいう手合いはしつこいぞ。気を付けた方がいい」
ミラリアはぽかん、として……ころころと笑いだした。
「ルカ!あなたがそういう忠告をくれるとは思わなかったわ!」
ルカはミラリアの反応に何とも複雑そうな顔をしつつ、少々勢いよく食事をかき込んだ。
「でも、そうね。あなたがそう言ってくれるなら、気をつけましょう。男性の嫉妬はしつこいって、あなたが教えてくれたことだし、ね」
そしてミラリアがそう言うので、ルカは噎せかけた。
「……あら、どうしたの?」
それを横目に、ミラリアはくすくすと笑うばかりである。これにはいよいよ、ルカは盛大にため息を吐くしかない。
「……あづさ様に、似たな」
「そう思う?ならあづさ様に伝えておいて。ミラリアはあづさ様に似てきましたよ、って。あなたが報告したらあづさ様、きっとお喜びになるわ」
……ミラリアは、人間の国で行動を制限されて、少々鬱憤が溜まっていたのかもしれない。或いは、魔物の国に帰ってきて、羽を伸ばすつもりが少々行き過ぎて箍が外れているのか。
ミラリアは絶好調に、只々魅惑のローレライであった。
翌朝。
ルカは、地下牢へ向かい……そこで、絶句した。
「どういう、ことだ……?」
そこにあったのは、海竜隊の兵士達が倒れた姿。そして、開け放たれた扉。
結果など分かっているのにそれでも扉の中を覗いて、ルカは頭の中が真っ白になる感覚を覚えた。
……捕らえていたはずの、フォグが居ない。
「これ、は……」
ルカの頭の中に、様々なことが過ぎる。
部下がしくじったのだ。監視しておかなければならないはずの捕虜の脱走を許してしまった。
この影響は大きい。フォグが人間の国に帰ってしまえば情報が洩れる。それは、ギルヴァスとあづさの計画が破綻することを意味していた。
このままではまずい。ルカは瞬時にケルピーを呼び出しつつ、城の外へ向かって走り出す。
「あら、おはよう、ルカ」
そしてそこで、今一番会いたくなかった相手と会ってしまった。
「……あづさ様」
そこでルカは様々なことを一瞬の間に考えたが、為すべきことは何か、すぐに結論が出た。
「すまない!捕虜を逃がした!」
ルカはそう言って、勢いよく、頭を下げた。
「ああ、いいのよ。逃がしたの」
だが、あづさから返ってきた言葉はあっけらかんとしていて、ルカは咄嗟に、何のことか理解が追い付かない。
「……え?」
「え?あなたの部下から聞いてない?」
「い、いや……彼らは倒れていた。廊下で」
「あっ、じゃあクレイヴ、大分頑張ったのね?じゃあちょっと起こしてきましょうか。説明はその後ね」
そう言うとあづさは、ルカを伴って地下へ向かう。ルカは只々困惑しながら、あづさの後について地下へと戻るのだった。
「ごめんなさい、起こすの、遅れちゃったわ」
あづさは海竜隊の兵士に駆け寄りって回復の魔法を施しつつ、そう言って兵士を助け起こしていく。
「ああ、あづさ様。おはようございます。……いてて、あいつ、相当の手練れですね。結構やられました」
「ごめんなさいね、こんな役やらせて」
「いいえ。大丈夫ですよ」
あづさの言っていた通り、海竜隊の兵士達は事情を知っていてあの状態になっていたらしい。ルカは混乱半分安堵半分で状況を見守る。
「ええとね、ルカ。彼は私が逃がしたのよ。逃げられるような状況にしておくようにあなたの部下達にお願いしておいた、というか」
「それは……何のために?」
捕虜を逃がすなどありえない。ましてや、敵側の重大な情報を知っていると思われる上、こちら側の重要な情報を知ってしまっている相手なら、尚更。
だが、あづさは笑って答える。
「彼が自分の意志で帰ってくるように、よ。要は、彼に心を決めてもらうための時間なの」
「そ、それは……」
大胆な、と言うべきか、無謀な、と言うべきか。あまりにも分の悪い賭けではないのか。ルカはそう思って口籠るが、あづさはまた笑って、今度は地下を出て、城の外を目指して歩き始める。
「大丈夫。クレイヴの行き先は分かってるから」
「はよー」
のんびりと起きてきたラギトにハーピィ式の挨拶をされつつ、あづさは久しぶりの、ラギトの羽毛の感触を楽しんだ。
「おはよう、ラギト。久しぶりの恰好よね、これ」
「んー……ふわ」
ラギトは未だに寝ぼけているようで、あづさへの返事も覚束ない様子であった。そしてそのままラギトは、ギルヴァスにも同様に挨拶をしに行ってしまった。
「いいのか。悠長にしていて」
そんなラギトとあづさを見て、ルカはそう焦ったように尋ねる。だが、あづさは、いいのいいの、とばかりに手をひらひらさせるだけである。
「ギルヴァス。おはよう」
「ああ。おはよう。……ラギト。寝ぼけるな。そこは頬じゃないぞ。胸だ」
「んー……」
ラギトの身長ではギルヴァスに届かないらしく、ラギトはギルヴァスの胸板に頬を擦り付けつつ、そのままギルヴァスに凭れて二度寝しかねない有様である。ギルヴァスは苦笑しながらラギトをひょいと持ち上げると、適当に投げ飛ばした。
「うおわっ!?なんだ!?なんだァ!?」
ラギトは流石に目が覚めたらしく、空中でバサバサと忙しなく翼をはためかせて無様な墜落は免れる。ギルヴァスはそれを朗らかな笑顔で確認すると、改めて、あづさに向かう。
「彼はどうした」
「逃げたわ」
「うん。そうか。馬は?」
「ばっちり盗んでるわね。まあアレ、馬じゃないけど」
「気が抜けて火が消えているだけのナイトメアだからなあ……うん、まあいい。ということは、今日の夕方には結界まで辿り着くか?」
「そうね。迎えはその頃に行けばいいんじゃないかしら」
「うん。分かった。ならその頃になったら出発、ということで」
あづさとギルヴァスは何でもないようにそう話したかと思うと、さっさと話を終わらせてしまった。
「さあ、朝食にしましょうか。腹が減っては戦はできぬ、ってね」
そのまま2人の興味は朝食へと移ってしまったらしい。2人一緒に厨房へと入っていって、そのまま支度を初めてしまった。
「……駄目だ、理解が追い付かない」
ルカは、あづさとギルヴァスを見送って、そう、零した。
「んン?何のだ?っていうか理解が追い付かねェって、お前、もしかしてバカなのか?」
「悪いがお前には言われたくない……!」
耳聡くもルカの呟きを聞き咎めたラギトにそう返しつつ、ルカはため息を零すのだった。
傭兵達は朝食を喜んで食べ、シャナンは一晩明けてしっかり元気を取り戻したらしくミラリアに言い寄りに向かい、そしてあづさとギルヴァスは彼らの様子を眺めながらにこにこと笑っている。
そんな、ある種平和な光景であったが、これは何かあったなら脆く儚く崩れてしまうような平和である。尤も、それを理解しているからこそ、傭兵達は魔物達にも気さくに振舞い、あづさやギルヴァスも人間達を気遣って、この平和を保とうと努力しているのだが。
「さて。一夜明けたわけだが、すまない。諸々の話はもう一晩、待ってほしい」
朝食の席で、ギルヴァスはそう言った。これに傭兵達は不思議そうな顔をしたが、ギルヴァスはそれに申し訳なさそうに続けた。
「今晩あたり、もう少し情報が手に入る予定なんだ。そこで人間の国の王の目的が分かれば、こちらとしても和平への道が見やすくなる。君達と話をするのはその後にしたいんだが、いいだろうか」
魔王どころか四天王とも思い難い腰の低さでギルヴァスはそう尋ねると、たちまちの内に傭兵達は了承の意を示した。
ギルヴァスはこれにほっとしたような表情を見せると、のんびりと窓の外を見やった。
あとは、夜を待つだけである。
日が沈むころ、あづさ達はギルヴァスの背に乗って空を飛んだ。
そのまま凄まじい速さで空を進めば、馬を飛ばして1日の距離もあっという間である。
……果たして、彼はそこに居た。
あづさは、魔物の国と人間の国の境目、結界の傍へと降り立った。
「クレイヴ」
あづさが名を呼べば、そこに居た彼はびくり、と肩を震わせた後、ゆっくりとあづさを振り向いた。
「何故、俺を逃がした」
「あなたの行き先がここだって、分かってたから。……確かめたかったんでしょ?」
あづさの問いに、クレイヴは特に何も反応しない。
「結界は、作動しなかったのね」
だがあづさが重ねてそう言えば、戸惑ったような表情で、しかし確かに頷いた。
「それってつまり、魔物に対して好意を持ってくれてるってことで、いいかしら」
「……どうやらそうらしい」
彼自身、自分の気持ちが分からなかったのだろう。だから彼はここへ、確かめに来たのだ。
『魔物に好意を抱く者にしか通り抜けられない』という結界を、自分が通れるかどうか、確かめに。
つまり、彼自身の心を、確かめるために。
「この結界を通り抜けられることに、納得がいかない」
クレイヴは自分の手を結界の中へ差し入れて、それが傷一つつかないのを確認すると、そう言った。
「この結界の効果を疑っている」
そして、そう重ねて、結界をじっと見る。向こう側の碌に見えない、結界を。
まるで、自分の心をそこに見るかのように。
「あら、そう。……なら、人間の国に帰る?」
あづさはクレイヴの隣に立つと、顔を覗き込んでそう尋ねた。するとクレイヴは逃げるように僅かに顔を背けて、ぽつり、と呟く。
「何のために任務を遂行するか、初めて考えた」
クレイヴはそう言って、視線を自分の手に落とした。
「理由は特に見つからなかった」
「……そう」
「ただ……強いて言えば、生きるためだった」
「口減らしで捨てられたガキを集めて『教育』する機関がある。俺はそこの出だ」
話し始めたクレイヴの様子は、何とも頼りないものだった。自分が何故話すのか、どうして話したいのかも分からないままに話しているらしかった。
「盗みも殺しもそこで覚えた。盗みか殺しか、或いは人の心を動かす術か、そういったものが覚えられない奴は死んだ」
「ああ、『教育』って、そういう……」
あづさが呟くも、クレイヴは特に何も反応せずに続ける。
「殺しが一番上手かったから、地下闘技場で稼いだ。そこでダニエラ様に見つけられて買われた。殺す相手はチンピラより貴族や、裏の仕事をしている同業者が多くなった。……かつての仲間も、殺した。それから、別の名前を貰ってダニエラ様の後ろで仕事をするようになった」
「……フォグ、っていう名前は、ダニエラ様に付けられたものだったのね」
あづさがそう言うと、フォグ『だった』男は頷いた。
「どこの言葉かは忘れたが、霞、という意味らしい」
霞。人に付ける名前にしては、少々寂しすぎやしないか。あづさはそう思ったが、『フォグ』に求められた役割はそういうものだったのだろう、と思い至る。
「俺は霞として生きることになった。他の生き方は、考えたことが無かったし、やったこともなかった。……だから任務を遂行していた。それだけだ」
ようやく話が一巡りして戻ってきて、クレイヴの話が見えてくる。
……要は、『主に対して、特に思い入れは無い』と。
「そう。なら、こっちに来る?衣食住の保証はできるし、人間に命を狙われたとしても守ってあげられると思うわ。それから、人間がこっち側についてくれると、ものすごく、ありがたいんだけれど」
あづさはクレイヴの顔を見上げて、にっこり笑う。
「……それにあなた、もう結界、自力で通れるんでしょ?なら、人間の国に帰ることも、できるわよね。でもそうしないでいたのは、もうあなたの心はこっちに来てるから、じゃないの?」
……あづさとギルヴァスがクレイヴを逃がし、ここまで放置した理由が、これだった。
『どうせ逃げられないから』。
もし、魔物の国に仇為そうと思うのならば、そもそも結界を通り抜けることができないのだから逃げられる心配はない。
そして、もし結界を通り抜けられるなら……その時彼はもう、魔物に好意を抱いてしまっているのだ。なら、逃げはしないだろう、と。
「……好きなものを聞かれたのは、初めてだった」
クレイヴはのろのろと視線を動かして、あづさと視線を合わせ、それから少々耳の端を赤く染めつつ、またのろのろと、地面へ視線を落とす。
「魔物の国にも、檸檬はあるか」
そして、短くそっけないその言葉を聞いて、あづさは満面の笑みを浮かべるのだ。
「ええ!あるわよ!」
それに応えるように、クレイヴもおずおずと、ごくわずかに、口角を上げた。
「なら、こっちに寝返る。向こうに戻りたい理由は1つも無い。……一度くらい、こういうことをしてみてもいい気がする」
それから一行はまた、ギルヴァスの背に乗って城へ戻る。
ドラゴンの背に初めて乗るクレイヴのために、幾分速度は落とされていたが、それでも彼にとっては非日常の体験である。
夕日が沈み切って夕焼けの残滓が地平との境界に淡く残るばかりとなった空、満天の星が覗き始めた中、クレイヴはやはりわずかに、ぎこちなく、口角を上げる。
「今晩から作戦会議ね。悪いけど寝返ってもらった以上、持ってる情報は全部吐き出してもらうわよ」
「そのつもりだ」
あづさはクレイヴにそう言うと……にっこりと、笑いかける。
「それから、明日にでもお茶菓子、用意するわ。レモンケーキ、なんだか久しぶりに食べたくなってきたから」
あづさの言葉に、クレイヴはきょとん、とし……それから、それはいいな、と小さく呟く。
「檸檬、取り寄せないとね。うちでは作ってないから、風の四天王領から、かしら。……あ、何ならあなたが栽培してもいいわよ!うち、土地は余ってるから!」
「それもいいかもしれない」
クレイヴは内心でひっそりと、ぼんやりと、思う。
血に塗れて刃を握っているよりは、泥に塗れながら檸檬の世話をしている方が、心穏やかで楽しいかもしれない、と。




