123話
そうして、フォグも含めた全員と馬車の全てが無事、結界を通り抜けた。それらは全て、あづさやラギト、シャナンらが手を触れながら移動させたものである。
「……勇者と手を繋ぐと超えられる結界、というわけではなさそうだが」
フォグは不思議そうな顔をしていたが、あづさにはもうこの結界の仕組みが分かっている。
……これは恐らく、魔物に好意を抱いている者だけが通り抜けられる結界だ。
あづさやラギトについては当然、魔物に好意を持っている。そして傭兵達やシャナンは、魔物であるミラリアを魔物と知らずに好意を持ってしまっているため、結界を通ることができるのだろう。
そして、結界を通れる者と手を繋いだ相手……魔物に好意を持つ相手が好意を持つ相手、というものも結界を抜けることが許されているのだろう。だから、投げた石は消え、握って差し入れた木の枝は消えない。そしてその枝も、手を離した途端に消える。
……恐らくそれが、この結界の仕組みだ。だがこれをどうやってフォグに説明したものか。
ミラリアが魔物だと明かすのはここではない。だが、下手に情報を隠してもフォグの信頼を損なうだけである。
それは、可能な限り避けたい。
フォグは恐らく今、最も『黒幕』の情報に近い。ダニエラが何を考えているのかが分かれば、100年前のことも分かるかもしれない。だからこそここでフォグを失うのは少々惜しく……どうにかして寝返らせたい気持ちはあるのだが。
「さあね。心の綺麗な人が入れる、とかかしら?」
あづさは冗談めかしてそう言って誤魔化した。
「……かもな」
するとフォグは複雑そうに自嘲の笑みを浮かべてそう言うので、あづさもつられて複雑な気分になる。ここは否定するなり反論するなりしてほしかったのだが。
「冗談よ。多分これ、殺意とか敵意とかが多いと抜けられないようになってるんじゃない?ほら、あなた以外皆、割と気が抜けてるし」
あづさは実に尤もらしい理由をつけてそう言って……それからふと、尋ねる。
「……それとも、何?心が綺麗じゃない自覚でもあるの?」
「ああ」
あっさりと返ってきた肯定が、あづさに微かな苛立ちと強い寂しさを感じさせた。
短い返事が会話を途絶えさせて、そのままあづさもフォグも黙ったまま、時間だけが流れる。
「あなたのこと、全然分からないけど。でも、そう言えちゃうってことは……あなた、救いようのないほど汚れ切った人間ってわけじゃ、ないのね」
自分で始めた会話だ。このまま有耶無耶に放り投げてしまいたくはなくて、あづさはそう言う。
「自覚がない奴はどうしようもないから。自覚がある人って、つまり、自分の悪いところに罪悪感とか感じちゃう人ってことでしょ?つまりまあ、完全に汚くは成り切れない人ってことよね」
あづさはそう言って、努めて明るい顔で笑った。
「そう、私は思うんだけど。どう?」
「どう、とは……」
一方のフォグはそれほど表情に出なかったが、困惑しているらしかった。それがあづさには、少し嬉しい。
「……初めて言われた」
「あら、そう。じゃあ私、あなたの初めて、1つ貰っちゃったわ」
あづさはそう言って、フォグの顔を覗き込んだ。碌に表情の動かない顔の中、くすんだ色の目があづさをじっと見下ろしている。
「ねえ。私、あなたのこともっと知りたいんだけれど。話してくれる気は、無い?」
「……任務に関する内容について話すことは禁じられている」
「別に、そこじゃなくていいわよ。例えば、好きな食べ物とか。知ってる花の名前とか。小さい頃に好きだった遊びとか」
フォグはまた、困惑したような表情を過ぎらせた。こんなことを聞かれるのは初めてだ、とでも言いたげな顔をしている。
「食べ物は何でも食べる。花はほとんど知らない。幼少期は……あまり、覚えていない」
あまり話したくない、ということだろうか。フォグはあるような無いような、そんな内容だけ話して口を閉ざした。
やっぱり数日だけで仲良くなろうなんて無理よね、とあづさは内心でため息を吐き出した。だが。
「……檸檬が好きだ」
フォグは自分でもよく分かっていないような調子で、そう言うのだ。
「れもん」
あづさが思わずオウム返しにそう尋ねると、フォグは頷く。
「味ではなく、香りが」
「ああ……そう、なの」
あづさは驚きつつも頷き……ワンテンポ遅れて、嬉しく思った。
「嬉しいわ。そういうの、教えてくれる気になってくれて。ねえ、他にもいろいろ、聞きたいわ。お話ししてくれる?」
「任務に支障がない程度なら」
今度こそあづさはにっこり笑って頷いた。
これは小さいけれど大きな進歩である。これも含めてそういう演技なのかもしれなかったが、フォグが少し、歩み寄ってきた。
あづさは『全ての人間と分かり合える』などと思えるほど夢想家でもなかったが、それでも、歩み寄る努力ができる相手なら、良好な関係を築くことも可能であると考えている。
フォグもまた、こちらへ歩み寄ってきたのだ。ならば……彼を寝返らせることも、夢ではない。
タイムリミットは迫っているが、あづさはこの道を諦めたくない。
不必要な殺し合いは、望まない。特に、恨みもない相手であれば、尚更。
……きっと真弓なら、こうする。やり方が大きく異なるだろうが、目指すところは同じであるように思う。
だからあづさは、結界を抜けた先、魔物の国へ向かって行く30人余りの一団の中、決意を新たにまた一歩を踏み出すのだ。
地の四天王領は今や様々な種族が暮らす土地となったが、それでもまだ、開拓は進み切っていない。特に、人間の国との境に隣する領地の南側に関しては、未だ、荒れ地が広がっているばかりである。
……そこに居る魔物といったら、少々遠めに散歩にやってきたヘルルートや、風に流されてやってきてしまったコットンボール程度のものである。
「ま、魔物だ……」
「な、なんかかわいい……」
「初めて見たぞ、魔物なんて……本当に存在するんだな」
傭兵達はそんな魔物達を見て、困惑していた。只々、困惑していた。
何せ、彼らにとって魔物とは100年前の昔話に出てくるだけの存在なのだ。しかも昔話の中で魔物は人間を攻撃してくる邪悪な存在であった。
まかり間違っても、今、目の前に居る『丸々と太った人参と大根』であったり、『ふわふわと風に乗って飛ばされるだけの物体』であったりはしない。
「どうしましょうか……退治せずとも、ここは通れるように思いますが……」
先程までルカに対して我を忘れるほどに怒っていたシャナンでさえも、如何にもか弱そうなヘルルートやコットンボール達を前に、少々困惑しているらしかった。
「う、うーん……」
あづさは悩んで見せつつ……ヘルルートの前に屈んだ。
するとヘルルートはあづさに向かって臆することなく駆けてきて、あづさが伸ばした手に体を擦りつけるようにして懐き始めた。あづさにとってはいつものこと、そして人間達にとっては初めて見る、あり得ない光景である。
「か、かわいいわね、こいつ。虐めるの、ちょっと、可愛そう、かも……」
「相手は魔物だ。無害に見えても油断するな」
あづさに対して、フォグの鋭い声が飛ぶが。
「そ、そうなんだけど」
あづさは懐いてくるヘルルートを抱き上げてしまいつつ、振り返る。
傭兵達はなんとも気の抜けてしまった様子である。攻撃する意思はないらしかった。
唯一、フォグだけはナイフを抜いてヘルルート達をいつでも切り殺せるように構えてはいるが……そのヘルルート達があづさの周りに集まっているとなると、どうにも攻撃はしにくいらしい。
「あの、この子達を攻撃したら、お姉様に危害を加えられるかもしれないわ。だから、下手な手出しはしない方が、いい、と、思う、んだけれど……駄目?」
結局、あづさがそう申し出れば、傭兵達はすぐさま賛同し、それに押し切られるようにしてフォグもまた、ため息交じりにナイフを鞘にしまうのだった。




