104話
そうして迎えた、いよいよ人間の国へ出発する、その日。
「ギルヴァス様。あづさ様。おはようございます」
「俺達の準備はできた。そちらはどうだ」
「ええ。ばっちりよ」
あづさとギルヴァスの前には、人間らしい恰好をしたミラリアとルカが居た。
ミラリアは元が人間に近しい姿である上、幻惑の魔法を使うのも得意であるためか、魔物らしく見えるところといえばその妖しい美しさだけである。
一方、ルカは多少、変装に苦労したらしかった。
鎧兜を着込んでしまえば正体に気づかれずに済むだろうが、流石に街中でも兜を脱がないということはできないだろう。ならば、ということで、ルカは人間の耳にあたる部分にある鰭を隠すよう、ヘアバンドのように布を巻いている。幻惑の魔法の類は爬虫類めいた鋭い瞳孔の瞳を隠すために使っているらしい。
そして何より。
「水の腕輪の調子はどうだ」
「ああ。とてもいい。まさか俺が水から離れて行動できるとは思っても居なかった。……地の四天王ギルヴァス・エルゼン。感謝する」
「いやなに、俺としても、作ったものが使われるのは嬉しい。喜んでもらえたなら何よりだ」
……ルカは本来、水から離れて長くは生きていられない。そのため陸上で活動するときには水でできた馬であるケルピーに乗っているのだが、人間の国でも同じようにケルピーに乗っているわけにはいかない。
そこで、ギルヴァスがルカのために水の力を常に湛えた腕輪を作り上げていた。
水の力の根源となるのは、オデッティアが水の魔法を込めた宝石である。大海のような深い青色をした石は触れると冷たく、また、多少魔力を込めれば水を染み出させる。そして身に着けていれば、常に水の力を受けていることができるのである。
「オデッティアにも感謝だなあ」
ギルヴァスが晴れやかな笑顔を浮かべれば、ルカも嬉しさを滲ませた表情を浮かべる。
「ああ。直々にこの石を賜った時には驚いたが、何よりその後普通に話せたことに驚いた。……まさか姉さんとまたまともに話せる日が来るとは思ってもいなかった」
ルカはそう言って笑い……そこで、怪訝そうな顔をしたあづさの視線に気づく。
「……姉さん?」
そしてあづさの呟きを聞いて、ルカは己の失言に気づいた。
「……あ、その、オデッティア様、だ。……異母姉弟なんだ。俺達は。俺は母方の姓を名乗ってるから、あまり知られていないが」
オデッティアのことを姉だと思って過ごした期間など短い。オデッティアも早々に割り切って、ルカとは血の繋がらない上司と部下という関係を維持している。
だがルカにとってオデッティアは上司であり自分が仕える四天王でありながら、やはりどこかでは同時に姉であるのだ。
特に、水の腕輪の宝石をルカに寄越した時に、地の四天王領での調子を聞いてきた時の、少々柔らかな眼差しと声。それは、幼少期に自分へ向けられた当時のオデッティアのものの面影が強く……どうにもルカは、気が緩んだのだ。
オデッティアと血が繋がっていると知れれば、ルカの命に関わる他、オデッティアの尊厳にも関わる。であるからして、ルカはオデッティアとの繋がりを隠してきたのだが……。
「ああ、ごめんなさい。ただちょっと、『姉さん』って言うあなたが珍しくて」
だがルカの説明も思いも空しく、あづさはルカが危惧していた箇所とは別の個所に反応し、くすくすと笑う。
己の出生についてとやかく言われないことは珍しくもありがたかったが……ルカはあづさの前で次第に頬を紅潮させていく。
「いや、その、姉上、と呼ぶようになる前に、オデッティア様と、呼ぶようになってしまった、から……」
「じゃあその前は『お姉ちゃん』だったの?可愛いわね」
更にあづさに揶揄われつつ、ルカはこの幸運か不運か分からない状況をやり過ごすしかない。
「あづさ様。ルカは今でこそ一目で男だと分かってしまう容姿ですが、幼い頃は女の子と見紛うような可愛らしい子だったのですよ」
「ええーっ、それ見てみたかったわ!写真とか無いの!?」
「しゃしん?ああ、あづさ様の世界の筆記具に用いる固形のインクのことですね?」
「それはシャー芯」
気づけばあづさの横にはミラリアが居て、2人で楽しく話が盛り上がっていた。
「……まあ、こんな道中だとは思うが、よろしく」
「……ああ」
ギルヴァスに朗らかな笑みと少々の憐憫、そして同情とを向けられて、ルカはため息混じりに返事をするしかなかった。
それから少しすると、城の窓から見える空に、ぽつんと点が浮かび、それが次第に近づいてくる。
やがてそれが人の形を成し、城の中へと入ってきた。
そして。
「よお!お前ら!準備いいか?」
「あんた誰よ」
あづさはラギトに出会って開口一番、そう言った。
「どう見てもラギト様だろうが!あづさ!まさか俺を忘れたッてのかァ!?」
「いや、分かるけど。その馬鹿っぽい喋り方といい、どう見てもあなただけど……翼、どうしちゃったのよ。さっきまであったわよね?」
あづさの目の前のラギトは、『両手を広げて』抗議の声を上げていた。そう。ハーピィであったはずのラギトは、翼を失い、代わりに腕を有しているのである。
「ん?化けたンだよ。俺にかかればこのくらいどうってこたァねェからな!」
だがラギトはそう言って、特にどうということもないように首を傾げている。
あづさからしてみれば、どうにも理解しがたい。ラギトの手を握ってみるが、そこにあるのはいつもの柔らかな羽毛に包まれた翼ではなく、鍛えられて少々筋張った青年の手である。
「大体よォ、俺よりギルヴァスの方が化け方でけェだろ」
「あそこまでいっちゃうと逆に不思議じゃないんだけどね……」
ドラゴンが人間になる、という光景は何度も見てきたが、あそこまで変化が大きいと『ああこういうものなんだな』と納得できてしまうのが不思議である。
それから諸々の確認なども終え、一行は魔物の国を旅立った。
人間の国は、地の四天王領の更に南にある。そう。地の四天王領が、最も人間の国に近いのだ。『マユミ』がギルヴァスに和平の話を持ち掛けたのも、恐らくは地の四天王城が最も近かったからなのだろう。
……そして、魔物の国と人間の国の間には、2つを隔てる結界がある。
先代の魔王が最期に作ったと思われるその結界は、今日もそこに静かにあった。
「さて。ではこの結界だが……どうしたものかな。相当に強力だぞ」
ギルヴァスは結界を見て、険しい表情を浮かべる。
……この結界は、『魔王』が解除することを想定されているように思えた。何せ、強力すぎる。ギルヴァス達が干渉しようとして干渉できるものかどうか。
「ギルヴァス様ですら難しい、ということですか?」
「ああ。どういう結界なのかを見ることすら難しい。まるで分からん。これじゃあ対処のしようがない。うーん、オデッティアを連れてくるべきだったかなあ……」
ギルヴァスも魔法がそこまで苦手なわけではないが、やはり、オデッティアには劣る。だがそうは言っても、やはりオデッティアがここに居たとしても同様に苦戦したことだろうと思われた。
それほどまでに魔王の力は強力で、そこの知れぬものであったのだ。
さて、どうするか、と、一行は考え込んだ。
物は試し、とばかり、小石を拾って結界に投げ込んでみたりもしたのだが、小石は結界に触れるや否や、すっと消えてしまったのである。何が起きたかもよく分からないものの、何もないとは思えない。
「とりあえず解除、するのよね。……やっぱり魔王様に聞いてみた方がいいのかしら」
「うーん、妥当に行くならそうなんだが……」
ギルヴァスは悩む。
……今回の一件を魔王に報告せずに進めているのは、魔王を信頼していないからではない。
ただ、魔王に話したところで解決しないだろう、という思いがあり、同時に……『魔王が完全ではない』からだ。
魔王は、襲名の100年後から真の力を発揮できる。それは、魔王がころころと変わっていた時代にできた古い制約だ。そうでもしなければ、魔物の国は魔王の力でとっくに滅んでいるだろう。
魔王が魔王になって魔王の力を振るえるようになるまでに100年かかる、となれば、衝動のままに暴力を振るう魔王も少なくなる。いわばこの100年は、魔王が魔王の力を振るうに相応しい精神を身に着けるための修練期間なのである。
……だがそれは同時に、魔王が不完全で居る期間がある、ということにもなる。その期間の魔王は当然弱い。できれば、負担を掛けたくない。
ギルヴァスとあづさ、そしてルカとミラリアも並んで結界の前で悩んでいる、そんな時だった。
「うーん、めんどくせェ!とりあえず突っ込んでみるかァ!」
「え、あ、ちょっと!」
ラギトが、待ちきれなかったらしい。
あづさが止める間もなく、ラギトはぴょこん、と飛び跳ねるようにして結界へ突っ込んでいった。
……そして。
「ん?ふっつーに通り抜けられるじゃねーか!」
何事もなく、結界の向こう側へ到達してしまったのである。
「ど、どういうことだ……?何もない結界……?」
「生命あるものは通す、というようにできているのでしょうか……?」
「全貌が分からないのがまた恐ろしいが……」
「でもまあ、とりあえず抜けられちゃうことは分かったわよね……」
4人が複雑な面持ちで結界を抜けるとそこではラギトが「やっぱり俺ってすげェ!」と胸を張っていたが、4人とも最早、ラギトに何か言う気力は残っていないのだった。




