103話
「な……?」
ギルヴァスの戸惑った顔を見て、あづさは少し、嬉しいような申し訳ないような気持ちになった。
「言葉通りよ。まあ……そうね。陰口を叩かれるとか。持ち物に悪戯されるとか。私にだけ連絡事項が回ってこないとか。倉庫に閉じ込められたってこともあったかしら?でもその程度ね」
「……君が鞄の中にたくさんの本を詰め込んでいるのは、常に持ち物を全て身に着けていないと危険だったから、ということか」
「そういうこと。学校に教科書なんて置いていったら、翌日全部水浸しよ」
あづさはそう言って笑う。特に気にしてないのよ、という意図を込めて。
……だが、ギルヴァスは痛ましげな表情で、じっとあづさを見つめた。
「それは……辛かったな」
「それがね、そうでもないのよ」
だからあづさは、そう言って笑う。
「持ち物については自衛できるわ。陰口なんて勝手に叩かせておけばいいんだし、仲間はずれだって、そもそも仲間じゃない相手からされたってどうってことないでしょ?連絡事項は学校の先生達と懇意にしておけば案外何とかなるし、自分の椅子に水が掛けられてたら拭けばいいし。閉じ込められても脱出できることの方が多いし、脱出できなかったらできなかったで授業を欠席しちゃうだけだしね。それに、欠席してどうこうなるような授業でもなかったし」
思い出して、つい笑みが漏れる。
本当に、どうということもない日々だった。一々そんなことに傷つくあづさではなかった。ただ、それを証明することは難しい。
「だから、本当になんてことはなかったのよ。あなたが思うような辛さって、無かったわ……けど、そうね。ごめんなさい。どうってことなかったのに、こんなどうでもいい事をあなたに言ったのはね……」
あづさはギルヴァスが心配そうな顔をしているのを見上げて、少々申し訳なく思いつつ笑う。
「あなたが、真弓にちょっと似てるから。いじめられてるって言ったら、真弓だったらどんな反応したかしら、って、気になったの」
「それだけ。ごめんなさいね、なんか、しょうがない理由でこんなこと言って」
悪い事を言ったかしら、と思いながら、あづさは苦笑した。ギルヴァスはぽかんとしていたが、怒られても仕方がないと思う。
死んだ友人の代わりに、取るに足らない話を聞かせた、なんて。
だが。
「……俺は、真弓という君の友達の代わりにはなれんが……だが、君が『しょうがない理由』でもなんでも、俺にそれを教えてくれたことは、嬉しく思ってる。君の友達と同じくらいに信用してくれているというのなら、誇らしくも思う」
ギルヴァスはそう言って、あづさを安心させる笑みを浮かべた。
「それから、俺が言うべき言葉は違ったな。『辛かったな』なんて君には不要な言葉だった」
ギルヴァスの手が、あづさの頭の上にそっと置かれて、ぽん、と数度、撫でた。
「お疲れ様」
じわり、と何か、自分の中で溶けていくような、染み込んでいくような、そんな感覚を覚えて、あづさは俯く。
「……そうね。傷つくような軟な精神してないけど。でも、確かに、ちょっと、疲れてたのね。私」
ギルヴァスは黙って、あづさの頭を大きな手で撫でる。
あづさの記憶のどこにも無いその感覚が温かくて、妙に心地よくて、それでいて怖かった。一度知ってしまえば二度と戻れないような気がして。戦い続ける覚悟を失ってしまいそうで。
……だが、この温かく心地よい感覚を知っても尚、自分を律することができると、あづさはそう信じている。
自分の力を信じている。信じることで、強く在れる。だからあづさは、ギルヴァスの胸に体重を預けてギルヴァスの顔を見上げた。
「すごいわ。あなた、私が言ってほしい言葉が分かっちゃうのね」
「そうか?ならまあ、それはよかった」
ギルヴァスはあづさの肩のあたりに手を添えて、あづさがギルヴァスに寄り掛かる事を良しとした。
他者の体温が心地よい。こんな感覚は久しぶりだった。
……あづさは目を閉じて少しばかりこの時間を享受させてもらおうと割り切りつつ、思う。
真弓なら、きっと、ギルヴァスと同じような事を言ったのだろうな、と。
……そう、思い出すことができた。
翌日。あづさとギルヴァスは、風の四天王領の町に来ていた。
「……ちゃんと町なのね」
「まあ、町だなあ」
何のために町へ来たか、と言えば、これから人間の国へ行くための準備をある程度整えるためである。
携帯食や旅のための寝具など、旅に必要なものは数多い。それから、あづさとギルヴァスの着替えも一通り必要だった。
「地の四天王領にも町、できるかしら」
「ああ、それならもう鉱山の近くには小さな町のようなものができているらしいぞ」
「レッドキャップとドワーフと、それから他の魔物が作った町、っていうことね?」
「そうだな。水路が鉱山の近くにまで届いているから、水の四天王領から鉱石や装飾品を買いに来るものもある。まあ、交易場が発展したようなものだなあ」
「……なんか、私が火の四天王城に居る間に結構様変わりしたわよね……」
雑談しつつ、2人は町を歩く。雑談の中にはあづさが知らない地の四天王領の情報も出てきたが、それらはその都度詳しく聞いて情報を補完していく。参謀が自分の居る領地のことを知らないなど、許されないことである。あづさは自分が居なかった間の時間を埋めるように、ギルヴァスから諸々の話を聞いた。
話しながら風の町を歩いては店を梯子して、次第に荷物も整ってくる。
あづさもギルヴァスも、人間らしさなどまるで分らないので、ひとまずギルヴァスが100年前に見た人間の恰好を参考にしつつの服装選びとなったが……これには多少の不安が残った。何せ、100年前の恰好を参考にしているのだ。相当に時代遅れな人間に見えることは覚悟しなければならないだろう。
「ところで、ギルヴァス。あなた、その角どうするの?」
荷物も揃ったところで休憩がてら飲食店に寄って、2人は食事をしつつまた雑談に興じる。陽の差し込む明るいテラス席は今日は暖かく、過ごしやすい。のんびり食べながら雑談するにはいい日和だった。
「ん?角?ああ、これか」
ギルヴァスは食べていたパンを皿に置くと、自分の側頭部から生える角に触れた。
ギルヴァスは今、人間に近しい姿ではあるが、この角がある限り、どう見ても『人間に近しい何か』でしかない。人間の国へ行くのなら、この角もどうにかしなければならないのだが。
「まあ、化けるさ。多少効率は悪くなるが、仕方ない」
「消せる、ってこと?」
「うーん、俺の角の場合は、目を眩ます、という方が近いか。幻影を見せる、というか」
ギルヴァスは唸りつつ……ふと集中したかと思うと、その角がふわりと掻き消えて見えなくなった。
「あっ、消えちゃった」
あづさはギルヴァスの角があったあたりを手で探るが、そこには何もない。
「感覚も誤魔化してる。目のいい者が見たら違和感を覚えるだろうが、まあ、大抵の人間相手なら問題ないだろうな」
「不思議なものねえ……」
ひとまずこれで、ギルヴァスが人間の国に行ってもそれほどおかしくないだろう、ということは分かったのであづさは安堵する。
食後に飲み物とデザートを頼んで味わっている時、ふと、ギルヴァスの目があづさの二の腕に留まった。
「そう言えば、腕輪を返していなかったな」
「え?ああ……そういえば、着けてなかったわね」
あづさも自分の二の腕を確認して、気づく。ギルヴァスからもらった腕輪はこの2か月弱、ずっとギルヴァスの手元にあった。
「今、返してもいいか」
「構わないけど……あっ」
ギルヴァスが懐からあづさの腕輪を取り出しあづさに手渡そうとしたその瞬間、あづさは思い出して手を引っ込めた。
「あ、あづさ?」
「……私、気づいちゃったんだけど」
「うん」
あづさはじっとりとした目でギルヴァスを見て……言った。
「私、この腕輪のせいで飛べないみたいなんだけど」
「……そ、そうだったか……すまん」
「別にいいんだけどね。ラガルから身を守るのに2度も役立ってくれたし、守りの力の副作用だって言うんだったらそれくらいは別にいいわよ。雷光隊で作ってもらった羽もあるし」
あづさはそう言って改めて腕輪を受け取ったが、ギルヴァスはなんとも気まずげな顔である。
その表情にあづさは……ぴんときた。
「……ねえ。もしかして……別に副作用じゃない、のかしら?」
半ばカマを掛けるような気持ちでそう尋ねてみたところ、ギルヴァスは目を逸らしつつ、しかし確かに頷いたのだった。
「俺は君が空を飛べなくなるような効果を付けたつもりはなかったし、守りの魔法を込めたが、そこに空を飛べなくなる効果もついてきてしまうというわけでもない。ただ……すまん。無意識にそういう風に、魔法を込めてしまったんだろう」
ギルヴァスが己を恥じるような表情でそう言うので、あづさは何やら面白いような気持ちになってくる。
「へー。そう。つまり、私に逃げられたくなかったってこと?」
「……まあ、そうだなあ……」
「あらそう。それで、自分の手元に置いておきたくて、『大地に縛り付ける』ような魔法も入っちゃった、ってことね?」
「そういうことになる……」
ギルヴァスは縮こまる一方であったが、あづさはすっかり上機嫌である。あづさにも、一体何故自分が上機嫌になるのかは分からなかったが。
「無意識に魔法込めちゃうくらい手放したくないって思ってくれてるの、嬉しいわ。あなたって可愛いとこあるわよね」
「すまん、もう勘弁してくれ……流石にそろそろ恥ずかしい」
「私ってそういうこと言われたらもっと虐めたくなっちゃうタイプなんだけど」
くすくす笑うあづさを横目に、ギルヴァスはますます縮こまりながらフルーツタルトをちびちびとつつく。
あづさもすっかり満足して、柑橘類のムースケーキを掬って口に運び、ますます笑みを深めた。
あづさよりギルヴァスの方が食べるのが速い。あづさがまだ半ばまでしかケーキをつついていないというのに、気づけばギルヴァスはちびちびやっていたはずのタルトの皿を綺麗にし、もう食後の茶を飲むばかりとなっていた。
「……今回のことについては深く反省している」
そんなあづさを前に、ギルヴァスは気まずげに切り出した。
「無謀が過ぎた。ラガルに君を奪われることになったし、君の髪を犠牲にさせた。……もし君が居なかったら俺は死んでいたわけだ。二度とこんなことが無いようにする」
「髪のことなら気にしてないわよ。何度も言うようだけど」
「すまん。俺は気にするんだ。ラギトじゃないが」
「あなた結構頑固よね」
あづさは切った髪の分以前より軽くなった首を傾げつつ、くすくす笑う。
「まあ、でもいいわ。死なないように気を付けてくれるっていうんだったらそれで」
そう言えば、ギルヴァスはまた余計に表情を苦いものにしつつ頷いた。自分が死にかけた事実よりも、あづさを攫われた事実の方がギルヴァスにとっては重いらしい。
あづさは飲み物のグラスをストローでかき混ぜつつ、少し考えて言葉を発した。
「……ね。離さないでね。私もあなたの手、離す気はないけど。でも、私が握ってたってあなた、振り払ってどこかに行っちゃいそうだわ。時々ね、そんなかんじするのよ。真弓もそういうとこ、あったけど」
「それは」
腰を浮かせかけたギルヴァスは自らが立てたガタリという音に我に返り、そしてまた気まずげに座ると、苦笑して返す。
「俺の台詞なんだがなあ。どうにも、君は、すぐどこかへ行ってしまいそうな気がして……」
「あら心外ね」
あづさも苦笑してそう返すが、実際、あづさは『どこかへ行ってしまって』いる。ラガルに攫われたのはあづさの本意ではなかったが。
だが、ギルヴァスも同じようなことを感じている、ということが少々面白く、そして嬉しかった。
「じゃあ、お互い離さないようにしておきましょ。どっちかがふらっとどこか行きそうになったら引っ掴んで戻す。ね?」
卓上に置かれていたギルヴァスの手をあづさが握ると、ギルヴァスも緩く、あづさの手を握り返した。
「……ああ。そうしよう。君がそうしてくれるなら、俺も喜んでそうする」
「期待してるからね?人間の国に行っても運命共同体よ」
「ああ。勿論だ、参謀殿」
気づけば笑みは苦笑ではないものに変わっていた。きっと、人間の国に行ってもやっていけるだろう。あづさはそう確信する。
……案外、一度離れてみる、ということも、関係の強化に役立つのかもしれない。そんなことを考えつつ。
「人間の国で迷子になったりしないでよね?」
「そうだな。気を付けよう。君も攫われたりしないようにな。俺が言うまでもないだろうが、君は魔物だけでなく人間の目にも魅力的に映るだろうから」
「あら。じゃあ首輪でも掛けとく?」
「……そういう趣味は無いなあ」
「あらそう?実は私の方にはそういう趣味、ちょっとあるんだけど。そうねえ、じゃあ私があなたに首輪掛けとこうかしら」
「えっ」
「あなたみたいなごっつい番犬が居たらそうそう攫われないでしょ、私」
「……いや、それは」
「冗談よ」
あづさは蜂蜜と柑橘の果汁を混ぜた紅茶を飲みつつ、また笑みを深める。その向かい側ではギルヴァスが「やっぱり君には敵わんなあ」とぼやきながら頭を抱えていたが。




