39話『ユーリ、温泉にて蒸し返される』 その3
「嗚呼、衆目が心地良いですわ。今のわたくしは、まるで王宮の大広間に飾られた麗しき女神像」
ミスティラは完全に己の世界に没入していた。
こいつ、そういう性癖でもあるんじゃないだろうか。
「わぁ、ほんものの女神さまみたい! キラキラ光ってるよ!」
よこしまな考えは頭の片隅にも浮かべてないであろうジェリーが、単純に称賛の言葉を述べる。
「恐縮ですわ。それと流石の目の付け所ですわね。"月の光粉"を振りかけてみましたの。フラセースやタリアンの淑女達の間でもよく用いられておりますのよ」
目を凝らすと、確かに全身から黄金色の粉のようなものが微かな光を放っていた。
そんなものを使ってる時点で、全然恐縮してるように見えねえんだけど。
ってか、んなもん纏ってお湯に浸かろうとか、温泉を何と心得てるんだよ。
元日本人としては黙ってらんねえな。
よし、やっと冷静に突っ込みが思いつく程度には落ち着いてきた。
「さあユーリ様、この美しき我が身、全て貴方様のものですわ。どうぞお好きなようになさいませ」
「いやなさいません。ましてやこんな場所では」
そうだよ、よくよく考えてみると、もっと恥じらいを見せてくれる方が個人的には好みなんだよな。
ミスティラは、特に傷付いた様子を見せなかった。
微かな笑みを浮かべた後、おもむろに背を向けてくる。
「いかがです?」
なんだなんだ? 意図がさっぱり分からない。
「いや、まあ、女神様っぽくていいんじゃね」
「それだけ、ですの?」
「褒め言葉としちゃ最上級だろ。他に何があんだよ」
当のご本人はまだお気に召さないようで、一瞬顔をしかめたのをしっかりと目撃した。
が、すぐにすまし顔を作り直し、
「淑女にこのようなことを口にさせるとは、いけない方ですわ」
などと言ってきた。
なんのこっちゃ。
「かつてラフィネにて、ユーリ様はタルテさんの臀部を称えられました。よもや忘れてはいらっしゃいませんわね?」
「うっ……」
「あの時の貴方様の言葉がずっと、奴隷が背負う巨岩のような重荷となってのしかかって離れませんでしたの。ですが幸いにして、こうして雪辱を晴らす機会が訪れました。さあユーリ様、わたくしとタルテさん、どちらの臀部が魅力的かしら?」
「うわ……」
想像の外を行く展開に唖然としてしまった。
何でせっかく気を遣ったってのに、こういう形で蒸し返されなきゃなんねえんだ!
あの時のアレってそんなに重大な失言だったか、なあ?
あまりの不条理さに頭が痛くなってきた。
「沈黙は許しませんわ。さあ、ご覧あそばせ!」
俺の方に尻を突き出してくる。
こいつ……分かってやがる!
ただ突き出すんじゃなく、脚や腰を上手く使って、体全体で艶めかしい曲線を描いてやがる。
まるで踊り子のようだ。
練習か? それとも生まれ持った素質か?
「…………ッ!」
不意にビリっと、熱湯にも似た視線を首筋に感じる。
飛ばしてきたのはアニンだった。
ちらりと窺ってみるが、嫉妬や苛立ちではないみたいだ。
忠告じみているっていうか。
具体的には、何をしている、気付け、といった意味合いが込められているような……
ん、気付け?
……しまった!
「……えっと、その」
恐る恐る、タルテの様子を窺う。
流石に今回ばかりは怒られてぶっ叩かれる程度じゃ済まないかも、なんて腹をくくりながら。
しかし、そこにあったのは、怒りではなかった。
沈黙を貫くタルテの顔に表れていたのは、深い哀しみ。
意図して、俺と目を合わせようともせず、時々ミスティラの体を複雑そうに覗き見し、悄然としていた。
お、おい、そんな落ち込むなよ。
睨んだり殴られたりするよりも堪えるだろ。
「だから最初に言ったじゃんか。雄はこういうもんなんだって、生物学上さあ」
タルテはピクリとも反応しなかった。
全然俺の声が聴こえてないんじゃないだろうか。
おい、助けてくれ。
横に立つアニンを見やると、呆れたものだと言わんばかりに大げさにため息をつかれ、更に肩まですくめられた。
もちろんミスティラにでなく、俺に対してだ。
意識を持って行かれちまったのは事実なので、これ以上反論のしようもない。
「タルテおねえちゃん、どうしたの? 元気、ないよ?」
遂にはジェリーも心配しだす始末。
「ジェリーちゃん、心配は無用ですわ。今は誇りを賭けた女同士の決闘の最中。この緊張感を打破できるのは、裁定者たるユーリ様のみ。さあ、優れた臀部はいずれか、お早く優劣を決して下さいませ」
お前は空気を読め。
それはともかく、まずい。これはとてもまずい。
今後の雰囲気が気まずいものになっちって、温泉を楽しめなくなっちまう。
……よし。
こうなったら俺がまた和ましてやるか。しょうがねえな。
「ケツだけに、優劣を決するってか」
「…………」
一発逆転を狙った渾身の冗談は、全員からの無視という、最悪以下の結果に終わってしまった。
アニンすら反応してくれない、酷評さえないというのが辛さに拍車をかける。
俺の名台詞を完全に無視したミスティラが、元の姿勢に戻ってタルテの方を向いた。
「あーらタルテさん、随分と地味な水着を選ばれましたのね。まるで鎧のようではありませんか。これから戦場へでも赴かれるのかしら?」
そして声音を上げて嫌味たっぷりに言い放つ。
馬鹿、追い打ちかけんなって。
状況がますます悪化しかねないだろうが。
「……わ、わたしは」
声帯を奪われたんじゃないかってくらい、これまで黙りこくっていたタルテが、弱々しいながらも喋り始めた。
「わたしは、あなたのように自信たっぷりに振る舞えませんから」
「ふ、皮肉のつもりですの? 切れ味の鈍った剃刀のようですわね。それ以前に、目も合わせられないような弱者の言葉など、まともに聞く価値もありませんわ」
手痛い反撃を食らったタルテが唇を噛んだのを見て、脳裏にエピアの檻での出来事が蘇った。
「はいもう終了! 両者引き分け! 抗議禁止!」
気が付いたら、声を上げている自分がいた。
「ユーリ様、ですが」
「やかましい!」
「わたしは」
「うっさい! 両方ともいい! みんな違ってみんないい! 素晴らしい! 最高! ……ん?」
強引にまとめ上げようとした所で、女が二人、俺達の方へ近付いてくるのが見えた。
水着姿ではなく、お揃いの青っぽい服を着ている。
温泉の運営側、係の人だ。
「お客様、申し訳ございませんが、そのようなお召し物は……」
「もしかして、わたくしに仰ってますの?」
おお、これは思わぬ救援が……!
係員というものの存在を、これほど頼もしく思ったことはない。
こっちを見たミスティラに、他に誰がいるんだよ、とつい頷き返してしまう。
「お手数ですが、お着替えを」
「は、離しなさい! どこへ連れていくのです! ユーリ様、どうかわたくしに救いの手を!」
「待っててやるから、ゆっくり化粧直しして来いよ」
とりあえず目の前の危難が去ったことに、心から安堵せずにはいられなかった。