38話『エピアの檻、大悪魔の沈む闇』 その4
「――エピア様の御姿は、まさしく神の寵愛を一身に受けるに相応しき美麗さだったと言い伝えられております。
空と海が交わる場所よりも鮮やかな蒼の髪、気高き意志と覚悟を宿した赤き瞳、汚れなき白波の衣……どれだけ言葉を尽くしても足りるものではありません。
しかし何よりも賛美されるべきは、海よりも深き慈悲でしょう。
エピア様は、荒廃したフラセースの地を御覧になり、大層心を痛められました。
御身の大事を厭わず、休息も惜しみ、日夜を問わずに"水命の交わり"などの魔法をもって、種族の分け隔てなく傷付いた者達を癒して回られ、同時に必ず大悪魔の暴虐を止めるとお誓いになることで、絶望に打ちひしがれた心に手を差し伸べられたのです。
運命の戦いの時は、エピア様がフラセースに来訪された日から遠からず訪れましたが、既に手筈は整えられていました。
ミーボルートを討つため、地祖人が不眠不休で鍛え上げた火喰いの剣"ギャスコ"と、フラセースに伝わる古の魔具、雨雲と風竜の如く自在に空を舞う雲車を呼び寄せる"アブラハネの杖"を両の手に、背には四つの竜騎士団と、残った複数種族の連合軍たちを従え、ミーボルートに最後の戦いを挑んだのです。
此度の戦いにおいて、トスト様が陣頭に立たれることはついぞありませんでしたが、それは決して悪魔を恐れてのことではありません。
フラセースの民ならば周知の事実ではありますが、改めてここで説明致しましょう。
トスト様の御魂はフラセース、言い換えますとヨーシック大陸北部の全自然、即ち地水火風の全てと結び付いておられます。
トスト様の死はヨーシック大陸北部そのものの死。また聖都エル・ロションの崩壊はフラセースという国家の死にも等しい。
故に聖都に留まり、守護の御力を行使し続けることで、フラセースの地と国家、ひいては万民を御護りになっていたのです――」
弦が千切れんばかりに、男が激しく琴を掻き鳴らし出した。
「――決戦の地は、ここテルプの聖水湖一帯。
最早対話の余地などなく、エピア様率いる一軍は先んじて正義の刃を抜き、躍りかかりました。
戦いはまさしく死闘の一語。
流れ出た同胞たちの夥しい血すらも蒸発するほど熾烈を極めました。
しかし、彼らの犠牲は決して無駄ではありませんでした。
ギャスコとアブラハネを振るう、勇ましくもお美しいエピア様を先頭とし、三日三晩に渡って決死の攻撃を続けたことで、さしもの大悪魔も傷付き、衰えを見せ始めたのです。
エピア様は既にその美しい御姿を悪魔の炎と刃にて穢されてしまっておりましたが、それでも御心は一点の曇りもなく、民達と交わされた約定を果たさんと、御身を顧みず追撃をかけました。
誉れ高き海巫女の全てを捧げた一閃に、屈さない存在などいるはずがありません。
大悪魔は遂にエピア様の前に膝をつき、頭を垂れたのです。
そこにすかさず精鋭達がメンレーの紐と縛鎖の呪符を用い、ミーボルートを完全に封縛せしめんとしましたが……
驚いたことに、こうまでしても完全に忌まわしき悪魔の力を、歩みを抑え込むことはできませんでした。
そればかりか、皆が命をかけて刻み込んだ傷の再生まで始まる始末。
このまま時が経てば、傷を癒して力を取り戻し、封縛を破って再び大破壊をもたらしてしまうは必定。
全軍に振り払えぬ重き絶望が立ち込める中……エピア様は即座に御決断されました。
御身を母なる海、全ての生命が育まれ、そして還っていく海に捧げ、ミーボルートを永久に光届かぬ闇の檻へと閉じ込めることを。
固く、強く御心を決められたエピア様を止められる者は誰もいませんでした。
いえ、一体誰が止められましょう。
更に一昼夜が経った後、遠き過去より現在に至るまで、エピア様にのみ行使を可能とする水系統の究極魔法、"絶界の深淵"は発動されました。
大悪魔・ミーボルートは今度こそ、聖水湖の底の更に奥底、二度と出ること叶わない永久なる暗黒の牢獄へと幽閉されたのです。
歓喜に湧く人々の中に、エピア様の御姿はありませんでした。
……"絶界の深淵"の代償として、その身を、心を、魂を、暗黒の海と化し、聖水湖と一体となり、母なる海へと還られてしまわれたのです。
エピア様がお選びになった道と、その辿り着いた先のことを知ったトスト様は、大いに嘆き悲しまれました。
御二方はミーボルートの出現よりも以前から親交があらせましたから、その御心情は畏れ多くも察するに余りあるでしょう。
死者すら蘇らせられると言われているトスト様の御力をもってしても、その全てを大いなる深き暗き海へと転じられたエピア様を地上に呼び戻すことは叶わないようです。
いいえ、仮に叶ったとしても、御二方は決してそれを望まれないでしょう。
大いなる慈悲をもって、個の御命よりも万民の安寧を選ばれたのですから。
戦いの後、トスト様は、二つの権利と一つの依頼を我々に下されました。
二つの権利とは、エピア様の偉業を讃えてこの場所を"エピアの檻"と呼ぶ権利、湖底に第二のミネラータとも呼べる新たなる街を再建し、更にその半分を洋の民のための特区とする権利。
一つの依頼とは、エピア様とミーボルートにまつわる全てを後の世まで語り継いでいくこと。
我々は決して忘れてはなりません。今享受している平和は、先人達の多大なる犠牲の上に、そして、偉大なる海巫女・エピア様の気高き御意志の下に成り立っていることを――」
長い弾き語りは、消え入りそうな余韻を延々と引っ張って終わった。
地上に展示されていた資料をほぼそのまま読んだだけだったが、場所や奏でる音楽の効果もあって、中々に臨場感があったと思う。
「耳にするのは二度目ですが、改めて背筋が凍りますわ」
「エピアさまって、すごい人だったんだね」
タルテやジェリー、ミスティラはすっかり感情移入していたみたいで、三者三様の複雑な表情をしていたが、アニンはいつも通り飄々とした態度を崩していなかった。
元々怒りや悲しみといった感情をほぼ表に出さないってのもあるだろうけど、職業上戦いが日常の一部になってるからだろう。
それなりに付き合いが長いから分かるんだが、戦いで仲間が死ぬのは当たり前だと割り切れてるんだよな。
加えて、色んな意味で権力や肩書きってものをありがたがったりもしない。
いかにも傭兵らしいサバサバぶりだが、決してただの冷血女でないってことは一応補足しとく。
それに、力のない人たちが犠牲になっても全く気にしないような奴じゃないってことも言っとこうか。
で、俺はというと、エピアという人を含めて、犠牲になってしまった人達のことは気の毒だと感じてはいる。
でも、他にも気になることがあった。
やっぱりミーボルートはただの悪魔じゃないという疑いだ。
にしても、たった一体でフラセースとミネラータの主戦力を相手取るって、半端な強さじゃねえな。
俺が全力で餓狼の力を使っても勝ち目はないんじゃないだろうか。
「昔に本で読んだことはあったけど、こうして話を聞くと、ミーボルートは本当に恐ろしい悪魔だったというのがよく分かったわ。……エピア様のお力で、もう目を覚ますことはないのかしら」
「大丈夫なんじゃね? ずっと水に浸かっててとっくに錆び付いてんだろ」
「……あんたって、どうしてそんな楽天的なのかしら」
「そうかあ? じゃあ楽天ついでに調子に乗っちまうか。仮に復活しても、今度はこのスーパーヒーロー・ユーリ様がポンコツにしてやるよ」
「封印が解けることなどあり得ません! その言葉、エピア様のみならず、洋の民全てに対する侮辱ですよ!?」
「ああいや、そういうつもりじゃなかったんですよ、すんません」
そんな目くじら立てて喚くこたねえだろうに。
お前もそう思うだろ、封印されっ放しのミーボルートさんよ。
ブルートークの要領で尋ねてみたが、接続は確立されず、返ってきたのは沈黙と、相変わらずの規則的な青い光だけだった。