38話『エピアの檻、大悪魔の沈む闇』 その2
左右に成人二人分ほどの高さの石柱を等間隔に置きながら、路は桟橋のように池の中央付近まで伸びていた。
終点は円形になっていて、石でできた椅子や小さな卓が置かれているのが見える。
こんな静かで美しい場所なら、優雅なお茶会にも使えるんじゃないだろうか。
置かれていた椅子の1つに、誰かが背を向けて座っていた。
ある程度まで近付くと気配を察知され、静かに立ち上がって振り返ってくる。
緩い癖のかかった青緑色の髪を長く伸ばした男だった。
この人が今度の案内人か。
案内人だとすぐ分かったのは、あの水中移動できる泡を作り出す竪琴を持っていたからだ。
「お客ですか。早速参りますよ。準備はいいですか」
わざとらしく小さなため息をついた後、涼しいを通り越して冷ややかな目で俺達を見回しながら言う。
やっぱりいけ好かない感じの洋の民だった。
頷くと、自分の役目は終わったとばかりに館長がさっさと音もなく引き返していき、案内人が竪琴を構え出す。
示し合わせるでもなく、一塊になる俺達。
俺達以外に大悪魔を見に行く客はいない。
俺達の立ち位置を確認した後、男は目を伏せて竪琴を奏で始めた。
街へ降りた時とは違う旋律だった。
音色こそ同じだったけど、暗い印象を与える不安定な音運び。
……というか、不安定なのは旋律だけのせいじゃない気がする。
はっきり言ってしまうと、上手いとは思えない。
素人の耳にも分かってしまうくらい、1つ1つの音があまり綺麗じゃないし、時折切り替わりにモタついている気がする。
街へ降りる時に竪琴を奏でた姉ちゃんが文句なしに上手かったから、尚更際立ってしまう。
みんなの顔を窺うに、そう感じてるのは俺だけじゃないみたいだから、多分勘違いではないはずだ。
でもそれを指摘したら怒るだろうなー。
それどころか、ヘソを曲げて追い返されちまうかもしれない。ここは黙っとくか。
奏者の技量は影響しないのか、生まれた泡の大きさや強度に問題はないようだった。
俺達を包んだ泡が石床をゆっくりと離れ、聖水が満ちた底の見えない穴――エピアの檻へと沈んでいく。
不安定な琴の音を伴いながら、穴の底目指して泡が一定の低速で潜っていく。
街に向かう時とは違って、こうやって底知れない闇の中へ落ちていくのはいい気がしないというか、生きた心地がしないな。
正直、少し恐怖さえ覚える。
「……ん?」
きゅっと、左手がひんやりしたものに包まれる。
ジェリーの右手だった。
言葉にしなくても、表情だけでそうした理由は分かった。
「大丈夫だって。俺がついてる」
「……うん」
握り返してやると、ほっとしたように強張った眉間や頬を緩めてくれた。
「お静かに」
男に注意される。
おいおい、気を遣って小声で話したのに、これでもダメなのかよ。
メシ食った後じゃなけりゃブルートークを使ってたけど、しょうがねえだろ。
「そういえば、奏者が代わりましたのね」
しびれを切らしたといった風に、大きめの声で切り出してきたのはミスティラだった。
「不満でも?」
「ふ、当たり前すぎて言葉にしてしまうと陳腐になりますが、敢えて申し上げましょう。些細な会話程度で集中を乱し、不愉快を露わにするなど、些か技量や人間性に問題があるのではなくて?」
皮肉げに抑揚をつけた語調と直接的な苦言を耳にした男が、さっと色白の肌を紅潮させる。
「ならば、ここで中断しますか。未熟者の案内ではさぞ不安でしょう。皆様、泳ぎは得意ですか?」
が、負けじとやり返す。
「職務を半ばにして放棄すると? 誇りを重んじる洋の民が聞いて呆れますわ。……とはいえ、ここで放り出されるのも確かに困り物ですわね。
では正式に運賃をお支払い致しますので、どうかわたくしたちを無事に最後まで運んでちょうだい。硬貨を投げ入れられる泉そのものが意思を持たぬのと同じく、一切の邪な考えを抱かずお受け取り下さいませ。そう、これは決して利益の発生ではないのですから。
ああ、折角の機会です、額を上乗せ致しましょう。その分、教師の如く改善点を指摘して差し上げますわ」
ミスティラは全く動じず、何倍もの言葉を機銃のように叩き込んだ。
やっぱこいつ、色んな意味で凄えな。
口論するのはやめとこう。
「ぐっ……!」
男は演奏こそ止めてないものの、屈辱で激しく顔を歪めていた。
こりゃもう勝負ありだな。言い負かされたと、心の奥で思っちまってる。
「大体、訪問者を迎える態度自体に問題がありますわ。我がローカリ教では……」
わざとらしく金をチラつかせながらここぞとばかりにくどくどと畳みかけるさまを、横にいたタルテが、止めようかどうかとハラハラした顔つきでやり取りを見ている。
心情的には俺もミスティラ寄りなんだけど、しょうがねえな。
「まあまあ、ちょっと落ち着けって。幾らなんでも言い過ぎだ。ちゃんと仕事はしてくれてんだ、今はそれで良しとしとこうぜ」
「……ユーリ様がそう仰るのならば」
まだ言い足りない様子だったが、とりあえず矛を収めてはくれた。
「すんませんね」
顔を立ててやる意味でも一応詫びておく。
「いえ、こちらこそ失礼しました。洋の民にあるまじき振る舞いをしてしまった」
その判断は正解だったようで、どうにか事は丸く収り、潜水は無事続行となった。
ちなみにこの間アニンはどうしてたかというと、我関せずといった顔で頭上や周囲を眺め回していた。
……こいつもいい性格してやがんな。今更だけど。
さて、そんな小さな揉め事の間も演奏は止めてなかったから、降下は続いていた。
段々と、頭上から差し込む柔らかな光が弱くなって、闇が優勢になっていく。
案内人の態度どうこう以前に、こんな場所なら客があまり寄りつかないのも納得だ。
「まだ潜るのかしら」
「エピアの檻は、光届かぬ闇の底。まだ中途ですわ。怖気づいてしまわれたのかしら?」
「……そうね。正直、怖いわ」
「随分と素直ですのね」
男がもう会話を咎めることはなかったが、それはそれで今度はこっちの2人が爆発しないか少し心配だ。
「あっ、あかりが見えるよ」
完全に辺りが暗黒になってから少し経った時、俺の手を固く握ったままのジェリーが底を指差した。
その方向に目を凝らすと、ぼんやりとした小さな青い光が、規則的に緩やかな明滅を繰り返しているのが見えた。
こんな場所に深海生物なんかいるわけがない。
つまり、あれが……
「ミーボルートがその身から放ち続けている光です。"不滅の灯"と呼ばれています」
男は解説すると同時に、演奏している曲を切り替えた。
なるほど、琴は移動だけじゃなく、音楽による演出効果も兼ねてるって訳か。
まあ技術的にはアレだけど、儚い印象の短い旋律を延々と反復させるのはこの場によく合っていると思う。
と、泡の降下速度が徐々に落ち始めた。
「なんだか少し暑くなった気がしない?」
「そういやそうだな。誰か屁でもこいたか」
不足しがちな笑いを摂取させてやろうと思ったのに、戻ってきたのはタルテの平手打ちだった。
「ミーボルートが"力"を発し続けているせいです。説明するまでもないと思ったのですが」
挙句の果てには男にまで呆れ顔で言われる。
やれやれだ。
青い光が段々と大きくなっていく。
つまりやっとこさ穴の底に近付いてきたってことだ。
光が見えたってのに、安心感はない。
むしろ息苦しさが増した。
別に殺気や威圧感がある訳じゃないが、何もないからこそ恐れが浮かんでくると言うべきか。
何しろ泡が透明だから、そのまま直に暗黒の海に潜ってるようで、圧迫感が凄い。
光の所へある程度まで接近し、初夏を思わせるくらいにまで温度が上昇したところで、泡が完全に停止した。
「これ以上近付くのは危険です。熱で泡を破壊される可能性があります。ですのでここより足下をご覧下さい。あちらの穴底に封じられているのが、かつてフラセースを炎に包んだ忌まわしき災厄、大悪魔・ミーボルートです」
「変わっておりませんのね。説明の口上も、悪魔の封じられた姿も」
さて、いよいよ大悪魔様のお姿を拝見する時がやってきた。