32話『モクジ、彼方にある真意』 その3
――その書には、魔法を完成させた後、どこの国や家柄に生まれられるかを決められるのか、記してありましたか?
――ただ、飢餓とは無縁、あらゆる食物を自在に得られる楽園と……
モクジさんの語調は、やや弱々しくなっていた。
――今お話したように、格差は確実に存在して、しかも決して小さいものじゃない。生まれてから死ぬまで食べることに満たされるのは、一部の人間だけだと言ってもいいかもしれません。決して平等なんかじゃないんです。単純計算でも、恵まれた環境に生まれ変わるより、そうはならない確率の方が高いと思います。あっちの世界に、約束された救いなんてないんですよ。
それに、将来的にはもっと状況が悪くなると思います。世界全体で見ると、このままだと許容量を超える勢いで人口は増え続けてますし、自然環境の破壊や戦争……下手したら世界が滅びるような問題だってある。
悪いことが一切ない楽園なんかじゃないんです。あっちを楽園と呼べるんだったら、俺達が生きている世界も楽園に映るはずです。
ここで押し切る。
俺は思い切って、締めの言葉を繰り出した。
――モクジ様。地球へ行くのは、ローカリ教教主、モクジ=マーダミアとしての人生を全うしてからでも、決して遅くはないんじゃないでしょうか。
確実に効果あり、と見ていいだろう。
地球と俺達の生きている処、二つの世界が混沌と混ざり合う情景が、それを立証していた。
地球は別に楽園なんかじゃないことを知ってもらえたのが大きい。
残る問題は……
――私は……逃げたかった。
と、モクジさんが、消え入りそうな声で呟きかけた後、全てを話してくれた。
――飽食の楽園という言葉が放つ、魅了の魔法に抗えなかったのだ。妻を亡くし、食を断ち、霊性を高める修行に明け暮れ、留まらず変化し続ける理、万物の儚さを思い知らされた空虚な身には沁みる夢だった。あまりに魅力的な世界を提示され、張り詰めていたものが切れてしまった。
歴代の教主達も、近似した思いで化天道の行を成そうとしていたのかどうかは分からぬ。だが、少なくとも私は、飢えから遠く離れたかった。飽食と安息の待つ新しい世界で生きたかった。……例え、娘と離れることになろうとも。私は、父である資格がない愚物だ。
せめてもの贖罪、娘が他者に誇れる父であるという体裁だけでも取り繕うと、"楽園の燦"を遺そうと思ったのだが……全ては間違っていたのかもしれぬ。
そこまで聞いた時点で、黙っていられなくなってしまった。
――間違ってなんかないです! 逃げたいと思うのは人として自然な感情だし、そもそも悪いことでもない。モクジ様の気持ち、俺にも分かります。
――気休めは不要だ。
――気休めなんかじゃありません。俺も、似たような境遇だったんです。"早く死んで逃げたい。楽になりたい"って思いながら、地球で飢え死にしていったんです。それこそ飽食と言われてたはずの時代と国で。
――そのような経験を……!
――だから、どうしてもあっちの世界を、楽園だなんて思えないんです。
俺の怨嗟が大いに混じった偏見だってのは承知の上だ。
でもこれが、俺の偽りない本音だった。
――いや……しかし、今更どの面を下げて元の地へ戻り、おめおめと生き長らえればいいのか。あらゆる恥辱は被り、飲み込めよう。全ては我が惰弱が招きし災禍ゆえ。
だが、ここまで尽力してくれた信徒たちや、この先"楽園の燦"で救えたやもしれぬ飢えし人々に申し訳が立たぬ。
よし。
モクジさんの重々しい言葉とは裏腹に、俺は成功に近付いた確かな手応えを感じていた。
――責任は当然俺が取ります。邪魔をした立場ですからね。謝罪も全部引き受けますし、必要な償いは必ずします。腹を空かせた人達も、絶対に助けてみせます。人生を、命をかけてでも。
出任せなんかじゃない。俺は本気だ。
――其方は、強いのだな。或いは未だ心折れる経験や、空虚を味わったことがないためだろうか。仮に未だ初々しい身だったとしても、そのような時が訪れるのを恐怖とは思わぬのか。
――ありますよ。助けたかった人……存在を助けられなかったこともありますし、恩を仇で返されるような目に遭ったことだってあります。そういった道を進もうと、最初の一歩を踏み出す前から怖さや不安はありました。
……でも、そこで立ち止まる訳にはいかないと思ったんです。一度死んだ経験があったから、かえって腹が据わったのかも知れないですね。
それに、今の人生で得たこの"餓狼の力"は、この世界で皆を助けるために使えって、誰かから渡された使命みたいなもんなんじゃないかなって思ってるんです。もっとも、力が無くても、俺は出来る範囲で絶対正義のヒーローを目指すつもりでしたけど。
――絶対正義の"ひーろー"、とは?
モクジさんが、訝しげな声を発する。
――俺の造語です。まあ、元ネタはあるんですけど。地球にいた、いえ、正確には作り話の人物なんですけどね。彼はパンでできた自分の頭を千切って、腹を空かせている人を助けるんですよ。
でも所詮は架空の存在だから、俺を飢え死にからは救ってくれなかった。だから正直言うと、そいつのこと、大嫌いだったんですよ。俺を助けてくれなかったじゃんか、って。
ムカついてムカついて、じゃあどうすればいいだろうって考えて。
そうして出てきたのが「俺がそいつより凄いヒーローになってやろう」っていう答えだったんです。
実際に腹を空かせた人達を助けまくれたなら、そいつや作者に一矢報いられるんじゃないかって。世界が違うから今更届く訳でもないし、架空の相手に何言ってんだって話ですけどね。
それでも決めたんです。俺が自分の意志でそうしたいと。それが自分の信じられる、最後まで歩いていける道だから。
自分の根っこ、というか前世のことを誰かに話したのは初めてかもしれない。
タルテにも、アニンにもジェリーにもまだ言ったことがなかった。
――立派な、美しい、気高い生き方だな。私には眩しすぎる。太陽のようだ。
――そんなご大層なもんじゃないです。どっちかというと後ろ向きな動機ですし。というか、誰だってなろうと思えばヒーローになれるんです。モクジ様も一緒に目指しましょうよ。
――私も、だと?
――別にヒーローは1人だけ、って決まりはないんですから。むしろこうやって人に勧めて種を撒いて増えていけば、そのうち本当に飢えが無くなるかもしれない。というかローカリ教自体、そういった目的で存在しているんじゃないんですか? ローカリ教の人たちはみんな、ヒーローってことですよ!
――本当に……そう言えるのだろうか。
――言えますって! だから、戻って一緒にメシを食いましょう。しっかり食べて、死ぬ時が来たら死んで、次の世界に行けばいいじゃないですか。
ここで最後のダメ押しだ。
――娘さんも、きっともう全部気付いてますよ。モクジさんの心を分かった上で、あなたのことを受け入れて、父親として愛してるはずです。
――ミスティラ……
――ゲマイさんだって、他の信徒の人たちだって、みんな立派で優しいじゃないですか。もっと信頼していいと思いますよ。だから、帰りましょう。
沈黙が流れる。
もうこれ以上、俺が言えることは見当たらなかった。
あとはモクジさんが心の整理をつけるのを待つだけだ。
やがてまた、空間が大きく歪み始めて、意識が少しずつ遠く、深く沈んでいく。
一切の抵抗ができずに、意識が再び飛ばされていく直前、何か声が聞こえたような気がした。
――本当に、戻るつもりはないのか?
ないね。
少なくともユーリ=ウォーニーであるうちは。
安食悠里だった頃の俺を否定するつもりはない。
安食悠里も自分の一部だ。
受け入れた上で、俺は、ユーリ=ウォーニーは、安食悠里は、この世界で絶対正義を行い続けるんだ!
…………。
闇。
晴れない闇。
懐かしい景色の数々は、泡が弾けるように視界から消滅していた。
今度こそ、さよならだ。
今まで感じずにいた疲労感や空腹感、喉の痛みなどが怒涛の勢いで押し寄せてくる。
元の場所に戻れたようだ。
生きている実感を感じるには、ちと荒っぽい。
レッドブルームを使って火を灯し、周囲を照らす。
モクジさんは……消えていなかった。良かった。
冷たい床の上に倒れ伏しているが、息はあるようだ。
ほんの微かだが、呼吸で体が上下している。
それと、詠唱を中止したためか、魔法円による妨害も消失していた。
――俺が連れていきますから、安心して下さい。
モクジさんの、恐ろしいほど軽い体を担ぎ、外へ……出ようとしたが、大包丁とモクジさんを同時に持っていくには、通路が狭すぎた。
結局使わなかったし、外に置いていくべきだったな。
今更してもしょうがない後悔をした後、一旦大包丁をここへ置いていくことに決める。
面倒だが、後で回収しに戻ろう。
すっかりヘトヘトだが、帰り道はとても軽やかな、清々しい気分だった。
暗さも狭さも気にならない。
モクジさんは、実に人間らしいと思う。
弱さと強さ、脆さと堅さの両面を併せ持っている。
いいんじゃないだろうか。別に神や太陽にならなくても。
この軽い体も、もうちょっと重くしていいと思う。
道の先に光が漏れ差しているのを見つけるのに、さほどの時間はかからなかった。
行きはもっと長かったと思うんだけど、こんなに短い距離だったっけか。
自ずと足が速くなる。
光が段々大きく、強くなる。
目が痛い。
暖かい。
「……ふう」
久しぶりのシャバは、感動的ですらあった。
夜に降っていた雨はすっかり上がっていて、眩しい太陽が、自然の光が燦々と地上に降り注いでいる。
あれから何時間、何日経ったかは分からないが、時間帯としてはちょうど真昼ぐらいだろうか。
この光を浴びても腹が満たされたりはしないけど、やっぱ気持ちがいいもんだ。
人間には太陽が必要ってのがよく分かる。
「お父様! ユーリさん!」
高い声がキンキンと耳を突き刺す。
どうやらミスティラは、扉の脇でずっと待ち続けていたらしい。
元は泥で汚れっぱなし、上等な生地のように艶のあった金髪も、ややばさつきが目立っていた。
とはいえ、傘と卓、椅子をわざわざここまで移動させていた辺りはちゃっかりとしている。
「ほら。約束、守ったぜ」
と言おうとしたが、上手く声にできなかった。
ああ、早く水分と栄養を補給してえ。
ちょうどいい具合に、卓上にはお粥とお茶が2つずつ用意されていた。
それだけでなく、本当に花束まで置いてあった。
「お父様! 嗚呼、お父様……生きていらっしゃる…………良かった……」
ミスティラは、俺から受け取ったモクジさんを抱きしめて、深い喜びを全面に表していた。
驚いたのは、この状況でも泣かなかったことだ。
これは予想外だった。本当に心が強いんだな。
ま、喜んでもらえて何よりだ。
仕事を果たせて、俺もホッとしている。
とりあえず早いとこメシ食って、一眠りしたい。
許可なくあそこのお粥とお茶に手をつけたら、ミスティラに怒られるかな。
そんなことを、栄養の足りない鈍った頭でぼんやりと考えていた。