32話『モクジ、彼方にある真意』 その2
…………。
呼びかけを始めてからどれくらい経っただろうか。
いい加減、時間の感覚がマヒしてきた。
相変わらず灯りの届かない外側は真っ暗だし、腹時計を使おうにも、とっくの昔から激しい空腹感に襲われっ放しでぶっ壊れちまっている。
少なくとも夜明けにはなっていると思うんだが。
「我が肉は光へ、光は糧へ、糧は喜び……」
未だ休まず、途切れず続くモクジさんの詠唱に救いというか、精神の安定作用を得てしまうってのも皮肉な話だ。
くそっ、どうすりゃいい。
モクジさんの命はあとどれだけ続く?
死なせてたまるかよ。
――モクジ様! モクジ様!
水分補給をしてないうえ、大声を張り上げ続けていたから、喉が嗄れてしまった。
そのため今はブルートーク一本に切り替えて呼びかけを行っていた。
体力的にはさほど辛くはない。
というか感覚が分からなくなってきたというのが正しいか。
一方、精神面では色濃い疲労がはっきり感じ取れて、いつまでたっても、どれだけやってもダメだという徒労感、早くしなければという焦燥感がずっしりのしかかっていた。
ちなみに天井には空気穴があるため、酸欠になる心配だけはなかった。
「我が肉は光へ、光は……」
モクジさんの声も、既に聞き取りに難儀するほど掠れきっている。
喉の中がズタズタになって血が滲んでるんじゃないかと思えるくらい痛々しい音色だった。
やめろよ。
やめてくれよ。
どうして、そこまで苦しんで楽園を目指すんだよ。
今をもっとしっかり生きてからでも遅くねえだろ。
ああくそ、それにしても腹が減った。喉も渇いた。
空腹感から飢餓感に変わり始めて、餓狼の力はますます強くなってるというのに、これじゃあ無意味だ。
なんて無力なんだ。
俺の力は、この程度だってのかよ。
――モクジ様! 詠唱を止めて下さい! ミスティラを悲しませないでやって下さい! 頼みますから!
「我が魂は次なる地へ、次なる地は楽園、餓え無き飽食の楽園、導き誘え、上昇し輪転せよ、肥沃と豊潤、悠遠の彼方、新たなる地で育まれる我が肉――」
「なっ……!?」
突然に、モクジさんの体がぼんやりと光を放ち始めた。
レッドブルームを使わずとも、この狭い空間の全貌を明らかにできるほどの光度だ。
「しまった……!」
まさか、魔法が発動しちまったのか!?
早すぎんだろ!
こんなにすぐモクジさんの命が……
「……えっ!?」
頭の中か、目蓋の裏か。
分からないが、眩しさに目を細めた時、前触れなく、とある景色が鮮明に描かれた。
俺が想像した訳じゃない。
強制的に押し付けられた、と表現するのが一番近い。
何もない、この場所よりも深く遠い暗黒。
その中にただ一つ停滞している、青を基調として白や緑、茶色などが混ざった球体。
一度も肉眼では見たことがないが、俺はそれを知っていた。
どうして……地球が見えるんだよ!
かつての故郷を遥か遠くから眺める感慨に浸る暇もなく、次々と別の光景が流れ込んでくる。
あの山、あの海、あの都市……
ああ、実際に行ったことはないけど、どれもこれも見たことがある!
「ウソだろ……!? 何で、こんな……!」
嗄れてるのにも構わず、驚きの声を上げずにはいられなかった。
もう二度と目にすることができないと思っていたから。
まさか、これが楽園だってのか。
地球こそが、モクジさんの目指してる飽食の楽園なのかよ!?
「モクジさん! あなたは地球に行きたいんですか!? 地球に生まれ変わろうとしてるんですか!?」
――俺、その世界のこと、知ってるんです! だから聞かせて下さい! あなたの目指す、本当の世界を……!
かけられる限りの全霊で、ブルートークを使った時だった。
映写機、投影先になっていた頭の芯が、ぐらりと大きく揺らぐ。
体と心が切り離されていく、というか引き剥がされていく感覚。
糊付けされた紙同士を引っ張っていくような。
眠りに落ちる瞬間を知覚できたとしたら、こんな感覚なんだろうか。
抵抗もできず、俺の意識が、ここではないどこかへと吹っ飛んでいった。
ここ、どこだ?
あれほど圧迫感のあった壁も天井もきれいさっぱり無くなっていて、上下左右、自分を取り巻くあらゆる方角に真っ白な空間が果てしなく広がっている。
どこにも、誰も、何もない。
地面というものさえないが、落ちる心配はないみたいだ。
呼吸できる水の中にいる感じに近いだろうか。
狭いのは嫌だが、こういう風にだだっ広いのも嫌だな。
ないといえば音もない。
自分の心臓の鼓動さえ聞こえない。
空腹感や疲労感も完全に消えていた。
まさか死んじまったのかと疑ってしまうが、そうではないと信じたい。
声を出そうとしたが、動くのは口だけで、全く音が出なかった。
でも、餓狼の力は使えるみたいだ。
クリアフォースも、レッドブルームも、そしてブルートークも。
――モクジ様、どこにいるんですか?
空間そのものに訴えかけてみる。
――モクジ様! ここにいるんでしょ!? 出てきて下さい!
確信はあった。
俺一人、こんな所へ飛ばされる訳がない。
案の定、手応えがあった。
前方の空間におぼろげな発光体が生まれたかと思うと、座禅を組む人の形を取り、モクジさんの痩せ衰えた姿が滲み出す。
――ここは、どこなんですか?
モクジさんからの答えはなかった。
ただ、もう"楽園の燦"の詠唱を繰り返してはいなかった。
――まあいいや。こうして出てきてくれたってことは、話をしてくれるってことですよね?
――偽りでは、あるまいな。
久しぶりに聞く、詠唱以外のモクジさんの言葉だった。
嬉しくて思わず顔が緩んでしまう。
強化されたブルートークの効果なのか、モクジさんが心を開いた結果なのか、"楽園の燦"の作用なのか。
答えは分からないが、未知の空間にて、とにかくやっとモクジさんとの対話に持ち込むことができた。
贅沢を言えば、茶室とまでは行かなくても、もっとくつろげる場所だと良かったんだけどな。
――答えよ。其方が申されたこと、偽りはあるまいな。
おっと、まだ浮かれるにゃ早いな。
――嘘じゃないです。あの世界は地球と呼ばれています。
――チキュウ、と?
――俺達がいる世界とどういう繋がりがあるのか、どれだけ離れてるのかは分かりません。ですけど、お互い普通じゃ絶対に行き来できないくらい距離があるのは確かです。
今どうなってるのかは分からんが、月に降り立つのにも難儀しているようでは、当分無理だろう。
――何故、知っている。
――実際に、地球にいたことがあるからです。いや……こっちの世界でユーリ=ウォーニーとして生きるようになった前、あっちの世界で生きてたんですよ。
――なんと……!
モクジさんは、信じられない、といった声を上げた。
――信じられませんか? 無理もないです。でも嘘は言ってません。疑うなら知っていることをもっと話しましょうか。例えば、あっちの世界では魔法の存在はあくまで空想上のものでしかないんですが、代わりに別の分野が発達してるんです。
と、ここで真っ白だった空間が、一瞬にして切り替わった。
描き出されたのは、まさしく俺が頭の中に漠然と浮かべていたのを鮮明にした絵図。
俺達の眼下に、夥しい数の高層建築群が剣山のように生えていた。
根元には豆粒のような車や、スーツを着た歩行者がひっきりなしに行き交っている。
そして上空には巨大な鉄の鳥、というか飛行機が轟音を上げて飛んでいる。
無機質ながら、心の奥にある古い記憶を震わせるには充分な情緒を含んでいた。
――そうです。科学っていう技術が魔法の代わりに発達してて、これだけ発展してるんです。世界の全部がこうなってる訳じゃないですけど。
――素晴らしい……! それで、食糧は? 民に遍く行き渡っているのであろうな?
――それは……
景色がまた、俺の言いたいことを補助するように変化した。
今度は固定的ではなく、紙芝居のように順次切り替えられていく。
広大な農園。
砂漠と、ガリガリに痩せ細ったアフリカの子ども。
加工品が大量生産される工場。
コンビニ。
ホテルでのバイキング。
大量の食べ物が廃棄されたゴミ捨て場。
干ばつ。
スラム街。
公園に放置された、食べかけのハンバーガー。
台所の腐った生ゴミ。
河川敷に転がるホームレス。
ゴミが堆積した部屋にうずくまる貧困家族。
その他諸々……
まとまりに欠けているのは、きっと俺の乱れた精神をそのまま反映したせいだろう。
モクジさんは、動きや表情にこそ出していなかったが、心が揺らいでいるのが伝わってきた。
無理もない。
あれもこれも、こっちの世界にはないものばかりだ。
初めて見れば、誰だってそんな反応をするだろう。
――ご覧の通りです。大量の食糧を生産する仕組みはあって、概ね行き渡ってはいますけど、全員にじゃなく、飢えている人もいる。貧しい国だけじゃなくて、さっき映ったような一見豊かな国でも、影では苦しんでいる人がいます。……はっきり言って、こっちの世界とあまり違いはありません。
――何ということだ……! 書に記されていたことは、偽りだったというのか!
モクジさんが、激しい心の揺らぎを表した。
空間に、景色に砂嵐が走り、水をかき混ぜたような歪みが生じ始める。
好機だと思った。