31話『ユーリ、雨降る闇夜を跳ぶ』 その2
「今の話を鼓膜の奥へ入れたユーリさんがどう思われたかは敢えて問いませんが、わたくしはお父様を弱いとも、逃避しているとも思いません。食への安心を希求するのは人間として……いいえ、生物としてごく自然なことではなくて?」
「俺もミスティラと同じ考えだよ。誰だってメシの心配なんてしたくねえもんな。よく分かるよ」
「……偽りを仰っている訳ではなさそうですわね。貴方も経験がおありなのかしら?」
「まあ、な」
星も月も見えない、真っ暗な夜空をつい無意識に見上げてしまう。
「話したくないのならば、それで構いませんわ」
それきり、言葉が途切れる。
同時に、監視が始まった。
俺は裏口側、ミスティラは正面扉側。
どちらから言い出すでもなく、自然と役割分担を行っていた。
眼光で明るくするように、闇の先へじっと目を凝らし続ける。
同時に他の感覚も働かせ、わずかな違和感も見逃さないようにする。
眠気はない。
空腹感の方が強かったこともある。
だがそれ以上に、使命感というと大げさだが、湧き起こる強い感情が睡魔を蹴散らしていた。
モクジさんを説得しようとしているのは、ミスティラのためというより俺自身のためだ。
絶対正義の信念のため?
いいや、違う。
本当は、心の奥にずっと残り続けている、濃厚なコーヒーよりも軽く100倍以上は苦い記憶を何とかしたかったんだ。
あの時、俺は上手くやれなかった。
コラクの村で、アルたちを救うことができなかった。
仮にモクジさんの説得に成功したところで、過去の痛みが癒えはしないのは分かってる。
罪悪感が薄まって、多少はマシになる程度だろう。
それでもやらずにはいられなかった。
少しでも和らげたかった。
繰り返したくはなかった。
長くも短くもない夜を越えて、朝がやってくる。
その間も定期的にブルートークでの通信を試みたが、モクジさんが出てくる気配どころか返事すら全く来ず、ただ門番が定期的に入れ替わっているのを眺めるだけだった。
ゲマイさんが教えてくれたように、やはり瞑想の終了は今夜になるんだろう。
それにしても、ここまで反応がないのも奇妙、というか珍しい。
ブルートークで話しかけられた大抵の人間は、何かしら声を上げるというのに。
何しろ直接頭の中に語りかけているのだから。
単に瞑想の邪魔にしかなってないかもしれないが、それはそれで有効か。
「ユーリさん」
一睡もせず、無言で監視に意識を注ぎ続けていたミスティラが、唐突に話しかけてきた。
何だか数日ぶりに声を聞いたかのように錯覚してしまう。
「いざという時行動に支障をきたさないように、しばらく中で休んでいなさい。その間はわたくしが貴方の分も引き受けますわ」
「そうだな。悪いけど頼むわ」
まだ疲れてはいなかったが、確かに夜に備えて体を休めておいた方がいいな。
ふと、夜の内に広がっていたと思われる、垂れ落ちてきそうな曇り空を見上げる。
雨、降らないでくれよ。
ミスティラに任せて、快適な天幕の中で寝そべったはいいが、精神が昂ぶっていて中々寝付けなかった。
こういう時は無理に寝ようとするより、体に任せておくに限る。
他の皆にはミスティラの家で待っているよう言ってある。
今頃は何をしてるんだろう。
早く終わらせて、タルテの作ったメシを食いてえな。
ああ、腹減った……
ブルートークは……使わなくていいか。
これだけやってもダメなら、多分結果は変わらないだろう。
実際に姿を現した時に賭けた方がいい。
もう余計なことを考えないようにしよう。
目を閉じて、この空間に漂う心地良い緑の香りにだけ意識を向けて、休む。
…………。
結局、落ちていた時間があったのかどうか分からない。
やけに長い間、闇の中にいたような感じだ。
だが木の天幕の効果で、体力は回復していた。
もういいだろう、という心の声が聞こえたので、目を開けて体を起こす。
出入口に目をやって外を窺う。
薄暗いが、まだ夜になってはいなかった。
雨が降り出すのも時間の問題だろう。
ミスティラの奴、大丈夫かな。
「呼びに行く前に目を覚ますとは、良い心掛けですわ」
ミスティラは、また信徒に用意させたと思われる椅子に掛けて、監視を続けていた。
眠たげな素振りは全く見せず、目に隈もできていない。化粧で隠してるんだろうか。
「よろしければ力に支障の出ない範囲でどうぞ。炊き出しの余りを頂いて参りましたわ」
脇に置かれた円形の卓上には、野菜のサンドイッチとコンソメスープが置かれていた。
空腹で敏感になった嗅覚が、サンドイッチから漂う微かな匂いさえ察知する。
胃袋が、ギュッと絞られる。
ああ、食いてえ……!
「いや、せっかく持ってきてもらったのに悪いけどいいや。確実に成功させるために、少しでも力を強化しといた方がいいからな」
が、ここは涙を飲んで我慢だ。
俺の返答に対して、ミスティラは大きく頷いて、
「よくぞ仰いましたわ。それでこそ、わたくしの見込んだ殿方」
なんてお褒めのお言葉を送ってくれた。
「今度はミスティラが中で休んでろよ」
「いいえ、依頼したわたくしが残らないでどうするのでしょう」
「無理しないでいいぞ。お肌にも良くないだろ」
「わたくしの美貌が、少々の肌荒れなどで脅かされると思って?」
うーん、どうにも扱いの難しいお嬢様だ。
とりあえず、機嫌を損ねるのは良策じゃないから、本人のしたいようにさせてやるか。
ちなみにサンドイッチとスープはミスティラが手をつけ始めていた。
「……あら」
ちょうど彼女が食事を終えたのとほぼ同時に、ぽつりぽつりと上からの水滴が地面や俺達の頬を叩き始めた。
瞬く間にサーッという音と共に、視界がうっすらと白くぼやけていく。
まさか天候まであの時と似たようになるとはな。
まるで見えない誰かに試されてるみたいじゃんか。
面白い、乗ってやるよ。
高鳴る鼓動を押さえ、天を仰ぐ。
雲の奥にあった太陽が消え、夜がやってくる。
雨は止むどころか、本降りになってきやがった。
とはいえ、用意してあった日除けがそのまま傘になったので、問題はない。
流石に辛くなってきたのか、ミスティラは時々前後に小さく体を揺らしていた。
だが揺れが大きくなりかけるその度に、ピシっと背筋を伸ばし直す。
たいした気力だ。
起きてからまたモクジさんにブルートークを使い続けていたんだが、反応はなかった。
ゲマイさんの言葉が確かなら、じきに瞑想は終わるはずだ。
雨の中、雨具も使わず立ち続けているあの見張りの人たちは今何を考えてるんだろう。
俺がそれを知る術はないが、別にどうしても把握しなければならない理由はない。
そもそも、そんなことを気にしている場合じゃなくなった。
何の前触れもなく、裏口の方から、ゆっくりと何か擦れるような、軋むような音が微かに聞こえた。
扉の開く音だと判断した直後、俺とミスティラは同時に同じ方向を見る。
「ついに来たか……っておい」
と、ミスティラが立ち上がるや否や、泥状になった地面を蹴って走り出した。
俺もすぐさま後を追う。
正面扉に立っていた門番は目で俺達を追うだけで、それ以上干渉してくる様子はなかった。
事情はどうあれありがたい。
「……!」
が、途中で急停止するミスティラ。
この問答無用の突撃型がそうしたのも無理はない。
続けて俺も止まってしまう。
「こりゃあ……!」
それほどに、裏口から出てきたものは俺の予想を上回る存在だった。