23話『ジェリーの故郷、トラトリアの里』 その2
さほどの時間をかけずに、フクロウが小瓶を足に掴んで戻ってきた。
俺の方へ放るようにそれを落として、自らは枝に止まる。
「それをお飲みなされ。幻覚が消えますじゃ」
「おじいちゃん! げんきだった!? パパは? ママは?」
「ほっほっ、ジェリーは相変わらず元気一杯じゃの。安心したぞい。わしは変わらんよ。……ただ、御両親はお主がいなくなってからというものの、心労がかさんですっかりやつれてしもうたわ」
「パパ……ママ……」
「だから早うその元気な姿を見せてやりなさい。このチーノめに里まで案内させるでな。あと一歩じゃ」
「……うんっ」
手で目を擦り、ジェリーはきっと顔を上げて森の奥を見つめた。
その前に渡されたこれを飲んどかなきゃな。
渡された小瓶に入っていた丸薬を口の中に放り込むと、目に悪い森の躍動がたちまち治まって、元の静けさを取り戻した。
俺達は思わず、揃って息を深く吐いてしまう。
別に後遺症がありはしないみたいなんだが。
「よし、急ごうぜ!」
もう「慎重に進もうぜ」なんて野暮を言ってる場合じゃない。
全速力でトラトリアに向かうだけだ。
フクロウのチーノの先導の下、俺達は森を駆ける。
転ばないように気を付けろよ、なんて言葉をかけるのもはばかられるほど、先を走るジェリーの全身から激しい焦燥が吹き出ていた。
息を切らせ、長い髪を激しく揺らし、薄赤色の瞳はまっすぐ前だけを見つめて、一所懸命に走っている。
好きにさせてやるしかない。
ただ、転んでケガしたら俺が治してやるから、そこは安心しな。
わずかずつだが段々と、森が変化していく。
道は平坦になって走りやすくなり、ずっと奥の方の木が疎らになっているのが見て取れる。
あそこがトラトリアの里か。
湧いてくるのは感慨でも安堵でもなく、ただただこの子を激励したい気持ち。
ジェリーが更に走る速度を上げる。
と言っても子どもの脚だから、俺達がついていくのに支障はない。
フクロウも同じみたいで、飛翔速度を上げてきっちり先導を続ける。
家に帰れるぞ。
家族に会えるぞ。
あと少しだ。
頑張れ。
背中に心の声をかける。
日差しの降り注ぐ池が見える。
その手前に人々が集まっているのが見える。
フクロウの主が知らせたんだろう。
互いの姿を認識できるほど接近した辺りで、人だかりからどよめきが起こり、ジェリーが一度立ち止まる。
「……みん、な……い……いる……」
万感の思いと疲弊の相乗効果だろう、華奢な体を激しく上下させながら息も絶え絶えに、微かな言葉を絞り出す。
横からそっと顔を覗き込む。
早い瞬きを繰り返しながら、目を細かく動かして探していた。
が、すぐに視線が固定されたかと思うと、ぱあっと満開の笑顔が咲いて、そしてすぐくしゃくしゃになっていく。
もう言葉の体をなしていない喚声をあげながら飛び出し、最後の追い込みをかけ始める。
集団の方からも一組の男女――ジェリーの父ちゃん母ちゃんが飛び出す。
やべえ、俺、もうダメだ。
まともに見てらんねえ。
久しぶりに家族が再会したという場面だってのに、目の焦点はまともに合わねえし、鼻の粘膜はおかしくなるし……
「泣いてるの?」
「はあ!? だ、誰が泣くかよ」
「隠さなくたっていいじゃない。恥ずかしいことじゃないわ」
タルテはもう、ぽろぽろ涙をこぼしていた。
そんな姿を見るのすらキツいから、首をねじって目をそらす。
「無事に達成できたな。よくやったぞ、二人とも」
すると後ろからアニンが俺達の肩に腕を回してきた。
お前もな、と言いたかったが、ちゃんと発音できる自信がなかったので黙ってるしかなかった。
……と、集団の中から一人、杖をついた老人がひょこひょことこちらに近付いてくる。
慌てて掌で目を拭い、鼻をすすってお色直しを行う。
肩の辺りまで伸びた長い白髪と白ひげ、やや曲がり気味の腰、深緑色のゆったりした衣……いかにも"魔法使いです"って感じだ。
おまけにさっきのフクロウを肩に留めている。
この人がジェリーの言ってた"おじいちゃん"だな。
手を貸そうと思い、近寄ろうとしたら、軽く手を上げて止められる。
実際、足取り自体はしっかりしていた。
「本当に、感謝致しますじゃ」
開口一番、フクロウを通した時と同じ声でそう言われる。
「それと、先程は大変失礼致しました。ジェリーがいなくなってから、里回りの警戒を厳しくする方針を取っておりましてな。こやつにわしの魔力を与えて、見知らぬ者が里近くに踏み込んだらツマヤの花粉を散布しつつ、遠隔で"泥の輩"の魔法を発動させる仕組みを設けておったんじゃが……まさかジェリーの方から戻ってくるとは。その可能性を想定しておらなんだ」
いえいえ、と謝罪を受け取った後、互いに短く自己紹介すると、今度はジェリーの両親や里の人間もぞろぞろとこちらにやってきた。
今のツラを見られたくないから、大勢で来るのは勘弁してもらいたかったんだが。
ちなみにパッと見たところ、花精、もしくはそれっぽい種族と人間がだいたい半々ぐらい、いや、やや人間の方が多いように見える。
で、ジェリーの両親は、まさに美男美女という言葉がぴったりだった。
予想通り、いかにも柔和そうな父親。
そして母親の方は、ジェリーの姉ちゃんと言われても通用しそうなくらい若々しい、というか幼ささえ感じさせる見た目。
ちょっと失礼だが、子どもを一人産んでいるとは思えない。
これが生粋の花精の特質なのか、単にこの人が若々しいだけなのかは分からないが。
ただやっぱり、二人とも痛々しいくらいに憔悴していた。
目が真っ赤なのは別の理由だろうが。
両親の一礼は、俺達のそれよりも遥かに長かった。
父親に抱き抱えられたジェリーはまだしゃくりあげ続けていて、顔を首元に埋めてしっかりとしがみついている。
これまであまり泣かなかった分を、まとめて放出しているんだろう。
「本当に……本当に、ありがとうございました。こうしてまた娘と無事に会えるなんて……」
「あ、いえ、そんな、頭上げて下さい」
母親の気持ちは理解できるけど、どうもこんなにまで言われると、こそばゆいというかこっちが申し訳ない気持ちになっちまう。
「どれだけ尽くしても到底足りるものではありませんが、このお礼は必ず致します」
「そんな、お礼なんて大丈夫すよ。むしろ娘さんと旅ができて楽しかったですし、助けられたことも何度もありますし」
「それでは私どもの気が済みません。さあ、森を進まれてお疲れでしょう。狭苦しい場所で恐縮ですが、私どもの家でどうぞお休み下さい」
多少なりとも疲れているのは事実だったので、お言葉に甘えさせてもらうことにした。
ジェリーの家に案内されるまでの道すがら、トラトリアの里をじっくりと観察してみる。
比較する方向性が違うが、アリゼイサやプレゴよりも美しいと、一目見ただけで実感した。
こんなにも幻想的な場所だったなんて。
まず目を引くのは里の大部分を占める、中央にある大きな池と、里のあちらこちらで浮遊している蛍のように淡く光る球体。
尋ねてみたところ、あれらはこの森の魔力によって生み出されたものらしい。
この辺りは特に強い力場のようで、あのような現象が発生するんだそうだ。
家は池の周りを囲むように"ある"。
"建てられている"のは数えるほどで、あとは巨大な樹木をくり抜いて作られたものばかりだった。
ちなみに池の上には桟橋が縦横に張り巡らされているため、移動にさほど不自由はない。
それにしても里に入ってからというものの、また暖かくなったな。
ポカポカと気持ちのいい陽気だ。
上から燦々と降り注ぐ日差しだけが理由じゃない気がするけど、まあいいか。
景観評論家のタルテ氏は何も言わなかった。
言葉を失うほど見とれ、浸っているんだろう。
目の見開かれ具合、微かな視線の震えで分かる。
ゾロゾロとついてきてた里の人も、桟橋に差しかかる辺りになるとめいめい散っていった。
「では、わしも失礼するよ」
「エレッソ老、ありがとうございました」
エレッソという名前らしい老人はひらひらと手を振り、ひょこひょこした足取りで立ち去っていった。
俺達は古びているが頑丈そうな桟橋の上を歩いて池を渡り、木の家の一つへと向かう。
「ほらジェリー、お家に着いたよ」
父親に促されて、ずっと顔を埋めていたジェリーがやっと顔を上げた。
下ろされるや否やばっと駆け出し、短い階段を上って扉を開け、木の家の中に入っていく。
「皆さんもどうぞ」
「お邪魔します」